北へ! 東北&ほっかいどう銀河新幹線
・この路線をめぐるエピソード・
反対から応援へ 揺れた地元のココロ        (東京−上野編 その2)

1.ルート発表 〜新幹線建設絶対反対!〜

  1971(昭46)年10月14日、東北新幹線 東京〜盛岡間の工事実施計画が運輸大臣により認可されました。当時の中央区・千代田区・台東区のルートを見てみましょう。


青線は現在の東北新幹線のルート。
 一方、赤線が1971(昭46)年の工事実施認可時のルート。
 (オレンジ線は新宿を起点とする「第2新幹線」)

 始発は東京駅。ここに東海道新幹線と共用のターミナルを設けます。
 東京を出ると現在と同じルートを秋葉原へ向かいます。途中、神田付近の600mは、東海道線〜東北・高崎・常磐線を相互に結ぶ「縦貫線」と重層高架橋となる計画でした。
 秋葉原から地下に潜りますが、御徒町付近で半径3,000mの緩やかな左カーブを描きながら上野公園の地下を通過、西日暮里から地上に出ていました。当時の計画には、上野駅を設置する予定はありませんでした。

 しかし東北新幹線の建設は、革新都政を率いていた当時の東京都知事・美濃部達吉から強い反対を受けます。美濃部都知事は「地元住民の合意なき計画に協力することはできない」と発表しました。都心部の一等地に新幹線を通す上、縦貫線とあわせた高架橋の高さが地上21.6mに達する神田地区の反発は激しく、「東北新幹線神田地区地上通過絶対反対」の住民大会等が開かれ、認可された路線の現地測量はおろか私有地への立ち入りすら拒否されました。
 この頃、我が国の各地で高度経済成長期の病弊ともいえる公害問題がクローズアップされてきており、生活権や環境の侵害といった住民の権利意識に国民全体が目覚め始めた時代だったのです。

 これと前後する1972(昭47)年2月4日、国鉄は、東京都知事に対し東京・西日暮里間の基本協議を開始したいと申し入れます。しかし、東京都は沿線地域、特に神田付近の地元が通過を反対している中で承認することはできないと、回答を拒みました。東京都はあくまで地元の了解を取り付けることが先決であるという認識であり、また行政指導でもありました(*1)。
 こうして、都知事・議会・商店会・住民がスクラムを組んだ反対運動の前に、新幹線の着工をうたったはずの国鉄も、事実上、手も足も出せない状態に陥りました。こう着状態の中、1973(昭47)年3月に開かれた「東北新幹線神田地区地上通過絶対反対住民大会」の決議文(*1)を読むと、当時の空気が伝わってきます。


決 議 文

 昨年10月14日認可された東北新幹線計画は、神田の過密地域を高架で通過するもの
で、私たちには何らの相談もなく一方的に決めた極めてズサンな計画であります。私
たちは、戦後20数年、街の復興と発展に寄与しつつ、長い間の努力によって現在の安
定した商店街を形成し、さらに新しい住みよい神田のにするために奮闘してきました。
しかし、こういった私たちの努力を無視して政府と国鉄当局は、神田の中心街を地上通
過で縦断する東北新幹線計画を押しつけ、私たち住民の生活権、営業権、財産権を奪
いとり、あらたな公害をばらまき、街そのものを破壊しようとしています。
 私たちは、このような国鉄当局の現計画を断じて許すことはできません。
 私たちは、昨年来の団結をさらに強固なものにし、再三再四、政府・国鉄当局の住
民無視の態度に対し強く抗議し、現計画の変更を要求してきました。
 本日、国会議員・都知事・都議会・区長・区議会の強力な御指示を受けた「住民大
会」の名において、改めて政府・国鉄当局に対し左記のように強く要求することを決
議します。

1.伝統ある神田地区の環境を破壊し、営業権・生活権を奪いとる地上通過絶対反対
1.高架下住民の権利を無視する立退き絶対反対
1.現計画をただちに撤回し、住民の権利をおかさない計画を再検討せよ

 昭和47年3月28日

                              東北新幹線神田地区地上通過絶対反対 
住 民 大 会

 こう着状態の中、担当者は地権者に日参を重ね、理解と協力を得ようと必死の説得工作が続きました。そんな中、オイルショックが発生。総需要抑制策がとられるなか、東北新幹線の工事も予算凍結となり、今度は資金繰りの心配も余儀なくされます。こうして、どん底の状態が5年にわたって続いたのです。

 空費した時間は、決して短いものではありませんでした。滅多に感情を表に出さない工事誌ですが、この5年間を次のように記しています。

「最悪の事態に困難と苦渋の日々が続いた。東海道、山陽新幹線とを結ぶ直通運転方式を前提とした新幹線建設は、いつ、日の目を見るのだろうか、担当者として失意を抱いた時でもあった。」(*2)

2.夜明けへ‥ 設計協議への同意

 何も工事が進まず、ただいたずらに時間のみが経った5年間。
 ‥けれど、長い夜もやがて朝が来ます。東北新幹線も例外ではありませんでした。地道な努力が功を奏したのか、関係者間のこう着状態に光射す時が訪れたのです。

 1976(昭51)年、台東区より東北新幹線に上野駅を設けるよう強い申し入れがあり、美濃部都知事もこれを条件に東北新幹線の建設を容認する発言を行ったのです。「台東区案」と呼ばれる上野駅建設計画は、地元が建設コンサルタントに依頼して作成したとされる詳細な設計図まで添えられたものでした。国鉄はこれを工事再開への一筋の光明とみて、台東区の申し入れに沿った調査を行いました。一方、神田地区でも担当者レベルでの地道な話し合いが続けられました。

 こうした流れのなかで、1977(昭52)年9月、国鉄は上野地下駅が技術的に可能であることを発表、同年11月26日の理事会で上野駅の設置を正式に決定したのでした。上野駅を盛り込んだルート変更は、1977(昭52)年12月「東北新幹線工事実施計画変更(その2)」として認可されます(*3)。
 1978(昭53)年10月31日、東京都知事から国鉄に対し、秋葉原付近〜日暮里付近の基本協議開始に同意する旨の回答があり、続く1979(昭54)年3月30日、日暮里付近〜西日暮里付近も開始同意の回答を得ました。これで上野駅を含む地下トンネル区間の工事にゴーサインが出されました。

 最後に残されたのは、あの神田地区を貫く東京〜秋葉原付近の高架区間です。

 工事実施認可から8年が経過していました。もはや都下で地域をあげて新幹線の通過に反対するのは、神田地区だけとなっていました。長すぎた8年という時間の流れの中で、あるいは環境や生活圏を声高に叫んでいたあの頃と変質した時代の中で、神田地区もまた、新幹線を受け容れた新たな街づくりを行うことを決めました。一方国鉄側も、後に具体化する様々な譲歩条件を地元に提示していました。

 ついに1981(昭56)年3月、千代田区議会の東北新幹線特別委員会より次のような定例報告がなされました。


定 例 会 報 告

 東北新幹線対策特別委員会として報告をいたします。
 昭和47年3月27日以来、千代田区議会としては、東北新幹線地上通過反対の立場に
たち、今日に至りました。しかし、その間8年余の歳月が流れ、公共事業としての推
進と地元住民の街づくりと生活と営業を守るという立場とで、両面から問題解決が迫
られ、当委員会としても活発に議論されましたが、3月20日の委員会において、
次のとおり委員長集約をいたしました。

「千代田区議会・東北新幹線対策特別委員会として、委員長集約をいたします。地上
通過反対について、これを白紙とする。それをふまえて、今後は地上通過を含めて神
田駅周辺住民と国鉄が巾広い話し合いに入ることに期待すると共に、議会としても神
田駅周辺の住民の生活と営業を守り街づくりに協力することといたします」

 以上であります。ご了解をお願い申し上げ報告をおわります。

 昭和56年3月24日
                        東北新幹線対策特別委員会
委員長 水野浦 治郎 


 地元から出された事実上の「終結宣言」。これを受けた東京都は、1981(昭56)年8月18日、東京駅〜秋葉原付近の基本協議の開始に同意する旨の回答を行いました。これで東京−上野間全線の着工が約束されました。わずか3.6kmの区間ですが、工事実施認可から既に10年の歳月が流れていました。

 東京都の回答を得ると、地元説明、さらに東京都に対しての施行協議がはじまりました。特に東京−上野間では、都道407号線上空の占用、日本橋川と神田川の間の道路移設及び関連する建物の移築、さらに周辺住民の生活に不便を強いられていた神田川への歩行者専用橋「神田ふれあい橋」の架設の3つが協議を進める上での大きなテーマとなりました。特に、完成後の新幹線とは直接関係しない「神田ふれあい橋」の架設は、地元への貢献を表すシンボルとなりました。
 協議に平行して用地買収も始まりました。神田地区では依然として根強い反対があったことも事実です。しかし、それでも連日の説得により、少しずつ買収は進んでいきました。

 しかし、着実に進むかに思えた新幹線工事に、思わぬブレーキがかかります。それは国鉄の膨大な赤字が原因でした。

3.ふたたび工事凍結

 東京都との設計協議が進み、ようやく開業への道筋が見え始めたにもかかわらず、突然ストップをかける出来事が起きました。
 1983(昭58)年8月2日、当時の国鉄再建監理委員会が首相に「国鉄再建のための緊急措置について」を提出。設備投資抑制の方針を受けて、東京−上野間新幹線の工事も凍結されてしまったのです。

 東京都が東京−上野間の全線で新幹線建設の基本協議に合意した1981(昭56)年、すでに国鉄の長期債務残高は14.4兆円に達していました(*4)。しかも年間約1兆円の赤字と1兆円近い利払いをあわせると、長期債務残高は毎年2兆円近いペースで増加の一途を辿っており、もはや誰の目にも自主再建は困難な状態でした。
 その前年、鈴木善幸内閣(当時)のもとで発足した第二次臨時行政調査会、以下「第二臨調」は、三公社五現業、特殊法人等のあり方を検討する第四部会を設け国鉄の経営問題について審議を始めていました。その結果、国鉄自らによる再建の可能性はないことを確認し、第四部会として1982(昭57)年4月、分割・民営化の方針を確認。同5月17日には電電公社(現NTTグループ)・専売公社(現日本たばこ)の民営化と並んで、国鉄の分割・民営化を提言する部会報告をまとめます(*5)。この部会報告のなかで、「国鉄の経営形態などについて企画、審議、決定する」目的で”行政委員会”である国鉄再建監理委員会を置くことが決まりました。
 この部会報告は、ほぼそのまま1982(昭57)年7月30日の臨調基本答申、いわゆる第三次答申に盛り込まれました。国鉄再建監理委員会は、運輸省の強い反発から”行政委員会”から”付属機関”に格下げされましたが、それでも、首相は監理委員会の決定や意見を尊重しなければならないことが定められ、加えて委員会で決定した項目の実施状況について委員会に通知する制度を通じ、その実現度をチェックできる権限も与えられました。
 さらに第三次答申では、新形態に移行するまでの緊急措置として、「設備投資は、安全確保のための投資を除き原則として停止する。」「整備新幹線計画は、当面見合わせる」方針を提言します。
 この方針を受け、東京−上野間の新幹線工事も一時凍結。1982(昭57)年度の予算執行はわずか4億円に留まりました。

 一方、国鉄再建監理委員会設置法は1982(昭57)年11月30日に第97国会に提出されたものの時間切れで継続審議(先送り)となり、次の第98国会中の翌1983(昭58)年5月13日に可決・成立しました。同6月10日には亀井正夫住友電工会長を委員長に、以下4名の委員で国鉄再建監理委員会が発足しました。
 監理委員会は発足後2ヶ月にも満たない翌1983(昭58)年8月2日、「国鉄再建のための緊急措置について」を提言しました。いわゆる緊急提言と呼ばれるものです。
 緊急提言は、(1) 経営管理の適正化、(2) 事業分野の整理、 (3) 営業収支の改善と債務増大の抑制を三点柱とし、具体的には、(1)組織の簡素化と職場規律の確立、(2)ローカル線廃止、貨物輸送合理化、荷物輸送全廃、(3)経費節減のための人員削減、収入増加のための地域別運賃の導入、設備投資の原則停止、資産の売却、等をうたっています。
 このうち設備投資の原則停止については、「今後の設備投資は緊急度の高いものを除き、原則として停止すべきである」としました。当時国鉄が着手済の設備投資プロジェクトの中で最大となる東北新幹線東京−大宮間(大宮以北は開業済)については「東北新幹線の上野乗り入れ、これに関する通勤別線については工事の継続もやむを得ない」とされました。つまり上野−大宮間は工事の継続もやむを得ないが、東京−上野間は設備投資を停止すべき、というわけです。

 この緊急提言は国鉄の予算にも反映されました。結局東京−上野間は、緊急提言以前に契約が締結した用地補償や、用地買収に伴う代替区道の付け替え等に限定して予算執行が許され、新規の設計交渉や用地買収交渉等もすべて凍結されたのです。 

4.反対から応援へ 国を動かした住民の熱意

 地元にとって、この凍結は、まさに寝耳に水でした。
 突然示された新幹線ルートに対する反発から、長い時間をかけての和解。10年越しにようやく着工の空気が生まれたところで、今度は国鉄からの一方的な工事凍結の決定。いらだちを覚えるのも無理からぬことでした。

 ここで地元は思わぬ行動に出ます。政府や国鉄に対し、東京−上野間の建設凍結解除を求める動きに出たのです。国鉄総裁への要望書を下にお示ししましょう。


東北新幹線東京・上野間工事凍結解除を求める要望書

 私たち神田駅周辺住民ならびに千代田区・千代田区議会は、東北新幹線の千代田区
内通過について新たなまちづくり・商店街づくりを進める観点から、東京駅乗り入れ
計画について今日まで国鉄当局と積極的な話し合いを進めてまいりました。
 ところが昭和58年8月2日、国鉄再建監理委員会は首相に対し、国鉄再建のための
「緊急提言」を行い、この中で東北新幹線の東京乗り入れ工事の中止を求めました。
この「緊急提言」によると、設備投資抑制の項で「今後の設備投資は緊急度の高いも
のを除き、原則として停止すべきである」と述べたうえで、さらに「東北新幹線の上
野乗り入れ、これに関する通勤別線については工事の継続もやむを得ない」としてお
ります。
 このことは即ち、「東北新幹線は上野までで十分で東京駅まで乗り入れる必要はな
い」ということになり、事実昭和59年度以降の東北新幹線の東京乗り入れ工事に要す
る予算は全く計上されていません。
 そのために、神田駅周辺の街並みは櫛の歯が抜けたように破壊されたままの状態で
放置されており、千代田区と周辺住民に一方的に多大な被害を与えております。
 この状態が続けられるならば、他の公共事業に対しても悪弊を及ぼすことは火をみ
るより明らかであり、私たちはこのような理不尽極まりない方針を容認することはで
きません。
 ただちに「上野・東京間開通」工事予算を計上し地域の活性化および関係住民の要
求に応えた問題解決に努力されることを強く求めます。

  昭和60年5月16日

 日本国有鉄道
    総裁  仁杉 巌 殿
神田地区東北新幹線対策委員会
東  京  都  千 代 田 区
東 京 都  千 代 田 区 議 会

 この頃、すでに一部の地権者からの用地買収は完了していました。しかしまだ価格面などで全面的な解決を見るには至っておらず、結果として神田付近に無数の空き地を生んでいました。
 約10年にわたって反対しつづけきた新幹線工事。それを今度は要望することになった‥。関係者の心中は複雑なものだったでしょう。しかしそうするしかないほどに、神田地区の空洞化は、地元にとって深刻な問題となっていたのです。

 駅ができるならともかく、ただ新幹線が通過するだけの神田地区。そんな地区から出た前代未聞の工事再開要請。長年にわたり地元への説明を尽くしてきた国鉄関係者が奮い立ったことは想像に難くありません。そしてこの要望は、工事の完成を望む国鉄関係者はもとより、「緊急提言」を尊重すべき政府関係者の心をも動かしました。このあと、歴史の歯車は工事再開へと大きく動き始めます。

5.国鉄解体と引き換えの工事再開 〜「新幹線鉄道保有機構」の誕生〜

 ところで、国鉄再建監理委員会が分割・民営化に向けての具体的検討を進めていた頃、国鉄自身は一体何をしていたのでしょうか?

 当時の仁杉総裁は、幹線系を中心に全国一元運営の「非分割・民営化」を推進しようとしていました。しかしこの案は政府・マスコミ・各政党からの強い批判にさらされました。加えて総裁の親族企業と国鉄の癒着が表面化。亀井正夫再建監理委員長の総裁更迭を求める発言もあって、1985(昭60)年6月21日、仁杉総裁は中曽根首相に辞意を示します。首相はこれを認めると共に、分割・民営化に反対する副総裁・常務理事ら6名を更迭しました。総裁の後任は前運輸事務次官の杉浦氏でした。杉浦総裁の就任により、国鉄自体も政府・監理委員会の意を最大限受ける体制が確立しました。

 こうして周辺の環境が分割・民営化に向けて整った1985(昭60)年7月26日、国鉄再建監理委員会は最終答申「国鉄改革に関する意見─鉄道の未来を拓くために」を当時の中曽根首相に提出しました。

 この答申は4章から成っています。
 まず第一章では、「国鉄は破産状況にあり、改革には一刻の猶予も許されない」との基本認識を示し、国鉄経営破綻の原因を「公社という制度の下で巨大組織による全国一元的運営を行ってきたことにある」と分析しています。そして現体制での再建は不可能で、国鉄の分割・民営化が不可欠である、との基本方針を示したのでした。
 続く第二章では分割・民営化方針の具体的内容、すなわち地域ごとの旅客会社への分割(6会社)を柱に、バス・貨物など地域・機能別の分割(18会社・法人)を提案しています。
 さらに第三章では、新会社で引き受けられない「余剰職員」約93,000名と長期債務等37.3兆円の処理が具体的に論じられています。長期債務の内訳は、国鉄単独25.4兆円、日本鉄道建設公団及び本州四国連絡橋公団に対する負債約5.2兆円、その他6.7兆円となっていました。
 最後の第四章では、第三章の施策を政府が推進する体制の確立、立法措置などの手順、そして分割・民営化の時期を1987年4月とすることが述べられています。

 答申を受けた政府・与党は、この内容に基づく分割・民営化を決定しました。

 ここで注目すべきは、分割・民営化における新幹線の取り扱いです。
 新幹線は国鉄最大の収益源でしたが、同じ新幹線であっても建設時期(取得原価)の違いから路線ごとの資産額と収益力が一致しない点が問題でした。最も古く建設されたために取得原価の小さい東海道新幹線(3,300億円程度)の収益力は莫大でしたが、その14倍もの資産額である東北・上越新幹線(両線あわせて4兆2,300億円程度)が生み出す収益は東海道に及びません。このため単純に資産額に応じて旅客鉄道各社(いわゆるJR本州3社)に承継させた場合、各社間に著しい収益格差を生じることが予想されました。
 この問題を解決する方法として、再建監理委員会答申では、全ての新幹線を新設の特殊法人「新幹線鉄道保有機構」で一元管理することを提言しました。「新幹線鉄道保有機構」は、JR本州3社に新幹線の鉄道施設を有料で貸し付けます。この新幹線使用料は、全額を国鉄長期債務の返済に充てる仕組みです。各新幹線毎の線路使用料は路線毎の資産価値と輸送量を基礎に算出することとしました。1987(昭62)年度の各新幹線毎の線路使用料を例にとると下表の通りですが、輸送量に応じて新幹線使用料を決定した結果、計7,098億円のうち東海道が58.7%を占めています。

路  線  名
新幹線使用料(年額)
(1987(昭62)年度実績)
東海道新幹線(JR東海) 4,169億円( 59%)
東北・上越新幹線(JR東日本) 1,985億円( 28%)
山陽新幹線(JR西日本)   944億円( 13%)
7,098億円(100%)

 それでは、本題の東京−上野間の取り扱いはどうだったでしょうか。
 用地買収半ばで頓挫したこの区間でしたが、「国鉄においてかなり工事が進推しており、建設した施設を放置するより、これを完成させて東日本に貸付けて建設費を回収することの方が合理的(*6)」であり、「この区間は機能的にも既開業区間の東北・上越新幹線と一体を成すものであり、東京駅に接続することにより全国新幹線鉄道網を形成し、新幹線道本来の機能を発揮させるため、建設主体を保有機構、営業主体を東日本に承継させ(*6)」るとされました。この決定の背景に、先の地元からの着工要請も大きく影響していたことは、言うまでもありません。

国鉄分割民営化の激動の中で建設された東北新幹線東京−上野間。
建設主体は国鉄解体後わずか4年半だけ存在した特殊法人「新幹線鉄道保有機構」。
政策的意義を果たし、ひっそり消えていったが、銘板にはその痕跡が残る。
2003/12/29(Mon) 12:38 神田駅構内(東北新幹線東京−上野間)

 こうして、1987(昭62)年3月13日、東京−上野間の工事凍結解除を告げる「東北新幹線工事実施計画変更(その11)」が運輸大臣から認可されました。建設主体は新幹線鉄道保有機構。分割・民営化からわずか19日前の出来事でした。

 6.JRが全面施工した唯一の新幹線

 ところで東京−上野間新幹線の新たな建設主体となった「新幹線鉄道保有機構」は、国鉄から引き継いだ新幹線施設をJR各社に貸し付け、その貸付料で国鉄の長期債務を返済することを第一の目的に設立された特殊法人。もともと新幹線を建設するノウハウなどありません。そこでJR東日本が委託を受けて工事を行うことになりました。工事誌ではこの間の事情を次のように述べています。

 東京・上野間の工事施工は、新幹線鉄道構造物構築に際してJR東日本の在来線支障移転工事、東京駅・上野駅の接続工事等が多数に及ぶが、この協議、設計・施工、調整等をJR東日本に業務委託を行った方が効率的に処理できるものと考えられた。
 このため、保有機構とJR東日本間で以下の委託契約及び協定等を締結し、JR東日本が工事の施工を行ったものである。

 (1) 東北新幹線東京〜上野間建設工事に係わる業務委託契約
 (2) 東北新幹線東京〜上野間建設工事の施工に関する協定
 (3) 東北新幹線東京〜上野間建設工事の施工に伴う協議、覚書等
 (4) 東北新幹線東京〜上野間建設工事の施工に関する覚書
 (5) 東北新幹線東京〜上野間建設工事の施工に伴う工事費の支払い等に関する覚書

日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線東京・上野間工事誌」p.11より)

 国鉄の分割民営化にあたっては、巨額の有利負債を抱え、その利払いが国鉄の財政破綻を招いたとの反省から、整備新幹線の整備を民営化後の新会社、つまり新生JRに直接担わせることはしない方針が確立され、JRが単独で新幹線を建設する可能性はなくなりました。つまり、この東北新幹線東京−上野間の整備は、最初にして最後の、JRが全線を単独で施工監理する新幹線ということになりました(*6)。

 「新幹線鉄道保有機構」からJR東日本への委託契約の締結日は1987(昭62)年4月1日。JR東日本が誕生した、まさにその日でした。
 北から西へ、全国を一本に結ぶ新幹線。その夢は、皮肉にも国鉄の分割・民営化と引き換えに実現が約束されたのです。

 工事を実際に指揮するのは、JR東日本東京工事事務所、通称「東工所」。当時すでに15年強にわたって東京−上野間の新幹線工事を担ってきた国鉄東京第一工事局、通称「東一工」を改組した組織です。スタッフの多くは、国鉄時代から引き続きこの工事を担当する建設や用地のプロたちでした。

 ようやく軌道に乗ったかに見えた東京−上野間の新幹線工事。しかしその道のりに、バブルの波が襲いかかります。

(「バブルとの闘い」につづく)

2004年 2月25日 記す  2006年 6月19日(月) 補筆

(*1)東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線東京・上野間工事誌」p.45より。原文ママ。
(*2)東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線東京・上野間工事誌」p.50より。JR東日本になってから刊行された工事誌に「東海道・山陽との直通云々」との記載があることに多少の驚きを禁じ得ない。しかし当時の東京工事事務所が国鉄からそのままのスタッフで継承されており、組織や経営形態が変わっても、苦しかったかつての思いを後世に残そうとする空気が流れていたことの証左であろう。
(*3)国鉄東京第三工事局「東北新幹線工事誌 上野・大宮間」pp.60-61より。
(*4)運輸省「運輸白書」昭和57年版によると、1981(昭56)年度末の長期債務残高は14兆3,992億円。なおその後も長期債務に対する利払いが大きく影を落とし、長期債務残高は年々2兆円近いペースで増大、国鉄が解体された1986(昭61)年度末には25兆0,652億円にまで膨らんだ。
(*5)この部会報告をそのまま盛り込んだ第三次答申では、国鉄の分割・民営化の必要性について、以下の理由をあげている。「第一に現在の国鉄にとってもっとも必要な、(1)経営者の経営責任の自覚と経営権限の確保によって、困難な事態の打開に立ち向かうこと、(2)職場規律を確立し、生産性を高めること、(3)政治や地域住民の過大な要求等外部の介入を排除すること、などの課題を実現するのにもっとも適した形態であること、第二に幅広く事業の拡大を図ることによって、採算性の向上に寄与することができる経営形態であること」。この論点は、現在の特殊法人改革等の議論にも通じるものと筆者には思えるのだが、いかがだろうか。

(*6分割民営化後の新幹線整備では、建設主体はいずれも日本鉄道建設公団〜(独)鉄道建設・運輸施設整備支援機構の手に委ねられることになった。JR各社は駅や現在線との立体交差など、現在線への影響が懸念される箇所を中心に、部分的に公団〜機構から委託を受けて工事を行うことはあるが、東京−上野間のように、全線にわたって施工監理することはもはやない。