北へ! 東北&ほっかいどう銀河新幹線
・この路線をめぐるエピソード・
 4. 苦労の歴史・新幹線ホームの増設(1)                (東京 その4)
↑ 左の新幹線ホームの敷地も、かつては在来線ホームだった。
東京駅の新幹線ホーム建設の歴史は、在来線ホームを新幹線に転用した歴史である。

2000/08/12 17:24
(左)第5ホーム(20番線) 東京発長野行「あさま525号」
(右)第4ホーム(10番線) 伊豆急下田発東京行「踊り子184号」の折り返し入庫回送


0.苦労の歴史 〜新幹線ホームの増設〜
 1964(昭39)年の東海道新幹線開業以来、幾多の新幹線乗り入れを経験してきた東京駅。しかし限られたスペースに多くの新幹線を発着させるための苦労は、並大抵のものではありませんでした。東京駅の歴史は、ホームの新設に支障する建物や線路を順次移転してスペースを確保する「支障移転」の歴史でもあります。その苦労は既に東海道新幹線の建設のときに始まっていました。

1.東海道新幹線(第8/第9ホーム) 〜東京駅名店街の移転〜

 東海道新幹線の計画がたてられた1959(昭34)年当時、その起点をどこにするかは大きな問題となりました。幾多の議論の末、東京駅八重洲口にすることが決まりましたが、この決定は工事の苦労を暗示するものだったのです。
 実は2年前の1957(昭32)年、殺人的な混雑を来たす東海道・横須賀線の輸送力増強を図るための狭軌線増が計画されていました(*1)。当時の通勤旅客は都心3区(千代田、中央、港)に集中していたため、この線増も東京−品川間の海側に残された複線用地を活用して東京駅まで乗り入れる計画でした。東京駅には、戦前に東京機関区の置かれていた八重洲側にホーム2面(第8/第9ホーム)の用地が確保されており、これを使用する計画でした。当時の計画では丸の内の赤レンガ駅舎を取り壊して24階建のビルを建設、駅構内に幅24m程度の通り抜けコンコースをつくることもあわせて計画されていました。
 1959(昭34)年に東海道新幹線の建設が決定すると、東京−品川間はこの狭軌線増計画をそっくり振替えて対応することになりました。

 東海道新幹線の着工当時、八重洲口には当時1954(昭29)年に建った国鉄出資のターミナルビル会社「(株)鉄道会館」の経営する八重洲駅ビル(当時5階建、大丸東京店がキーテナント)が建っていました。そして、このビルと第7ホームのあいだ、つまり新幹線に使われる用地にも「連絡上屋」と呼ばれる鉄骨コンクリートの高架が1953〜1955年に建っており、その高架下にも(株)鉄道会館が賃貸する多くの店舗、通称「東京駅名店街」が入居していたのでした(*2)。また駅南側には手小荷物扱い所も入居していました。
 そもそもこの場所は、戦後すぐ大陸からの引揚者たちが闇市を開いたところ。その後国鉄が雑然とした商店群を整理して、コンコースの機能と商業機能を両立させるために設立したのが(株)鉄道会館だったのです。新幹線のコンコースを確保するため、今度は八重洲地下に地下街をつくり、そこへ商業機能を移すことになりました。


↑ 東京駅八重洲口地下に広がる「東京駅名店街」は、ちょうど開業50周年のキャンペーン中だった。
 50年前の1953年、現在の新幹線第8/第9ホーム(16〜19番線)の位置に建てられた「連絡上屋」で
営業を始めたのが「東京駅名店街」の起こりだが、これを新幹線ホーム新設のために地下に移転したのが
現在の姿である。

 移転工事の工程が新幹線ホーム新設の時期を左右したため、日に夜を注いでの移転交渉〜突貫工事が
繰り広げられた。しかしそれも40年前の昔話。
2003/11/08(Sat) 7:20

 東京駅の場所が決まり、国鉄東京工事事務所が着工を決めたのは1960(昭35)年7月のこと。それから(株)鉄道会館と設計協議に入り、移転する店舗の数、移転後の場所(地下街の中のどこに店舗を配置するか)、工事費の(株)鉄道会館負担分を決定し、決定案を国鉄本社に上申。この案を民衆委員会にかけて承認を得ました。民衆委員会とは、従来国鉄法のなかで国鉄駅に民間資本を導入することを認めていなかったものを、民衆委員会が承認を与えた場合に限り、民間が費用を負担して商業施設等を入居させることができるようにしたものです。当然(株)鉄道会館の事業もこの民衆委員会の承認が必要だったのです。
 民衆委員会の承認が得られると、今度は運輸省に上申。運輸大臣の承認を得たところで、国鉄総裁が(株)鉄道会館の社長に承認を与え、ようやく工事着手となりました。この間に要した時間は、1年半。東京駅の着工は1962(昭37)年3月のことでした。
 工事は「連絡上屋」の解体に始まりました。解体が済んだ区画から新幹線の高架橋建設が並行して進められます。高架橋といっても、地下2階の深さまで開削して、地下街と高架橋を一気に立ち上げる大工事です。この間、「東京駅名店街」は、新幹線開業後に在来線から新幹線へ乗り換える通路となる部分につくられれた仮設店舗で営業を続けました。
 丸の内の駅舎解体や広い通り抜けコンコースの新設こそ工期の関係から見送られましたが、「東京駅名店街」移転の甲斐もあり、新幹線高架下の八重洲中央口コンコースは6,000uが確保されました。またこのコンコースを立体的に使うため、新幹線の構内コンコースは中2階に設けられました(1階=八重洲中央口コンコース、中2階=新幹線構内コンコース、2階=新幹線ホーム)。

↑ 現在の八重洲中央口コンコース。画面中央、窓のない中2階部分が新幹線構内コンコース、天井は
新幹線第9ホームである。
 リニューアル工事で美しく改装されたが、圧迫感を受ける構造や舶来の大理石柱は1964年当時のまま。
2003/11/08(Sat) 7:25

↑新幹線第8/第9ホーム直下のコンコース (先の写真の中2階部分を内側から撮影)
こちらもリニューアル工事が行われているが、天井高さの低さは開業当時の面影を色濃く残す。
工事の遅れから、この場所の床タイル張りは、一番列車の出発30分前まで続いた。
2003/11/08(Sat) 8:15

 中2階を設けた関係で、新幹線のレール面(R.L)は、在来線よりも1.9m高い位置にかさ上げされました(新幹線R.L=11.5m/在来線R.L=9.6m)。冒頭写真で、在来線「踊り子」よりも新幹線「あさま」の方が高い位置に停まっていることからもわかるように、今でも新幹線と在来線のレール面(R.L)に中途半端な段差が残っていますが、これは八重洲中央口コンコースを3層構造で使用するために設定された苦心の跡です。勿論、新幹線のレール面をもっとかさ上げすることも技術的には可能だったのですが、高架橋を高くするほど工事費は嵩むので、中2階が確保できるギリギリの高さとして1.9mという高さが選ばれたのでした。
 この中2階コンコースを支える関係で、中央コンコースには実に約150本もの柱が建てられました。しかし視覚的な圧迫感を緩和するため、従来の八重洲駅舎に使用されている石に似た白色系統の大理石を使用しています。これらの大理石は国内の生産能力では調達できず、すべてフランスからの輸入品で賄われました(*3)。

  2年にわたる突貫工事の末、1964(昭39)年6月1日には「東京駅名店街」を仮設店舗から地下に切り替えました。この切り替え期日が遅れると東京駅の連絡通路工事が開業に間に合わなくなるため、最終的には工事を担当した(株)大林組、(株)鹿島建設では、10,000uの地下工事現場に3,000人の労働者を投入、三夜にわたる徹夜突貫工事で完成させたのでした(*3)。

 翌7月1日にはモーターカー、7月15日には12両編成の新幹線電車が入線するに至りました。この間も乗り換え通路と構内コンコースの内装工事は進行中でした。結局完成したのは1964(昭39)年10月1日午前5時30分。その30分後、19番線(第9ホーム)から一番列車「ひかり1号」が新大阪へ向けて出発していきました。


↑ 現在の東京駅19番線(新幹線第9ホーム)
 1964(昭39)年10月1日午前6時、このホームから「ひかり1号」が出発。新幹線の歴史がはじまった。
撮影地点の博多方には故十河総裁のレリーフや新幹線網の記念碑もあり、メモリアルな場所であるが、
その影で東京駅を建設する際に払われた血の滲むような苦労は忘れられがちである。
2003/11/08(Sat) 8:20 447A「こだま447号」

 なお東京駅八重洲駅ビルは1968(昭43)年に増築されて12階建となり、現在もテナント「大丸東京店」が営業中です。

 1964(昭39)年10月時点では準備工事のみだった16番線(第8ホーム)は、1階コンコースに残っていた「東京駅名店街」の店舗の一部を地下に移転する工事の後、15番線(当時在来線)と一体の高架橋を新設して1967(昭42)年3月に完成しました。この工事により、片道1時間当たり「ひかり」3本・「こだま」6本を運転する、いわゆる「3−6ダイヤ」が可能となりました。その成果が最大限に発揮されたのは、1970(昭45)年に開催された大阪万博でした。半年間の会期中、新幹線だけで実に1,000万人の来場者を運び、帰省ラッシュが重なった8月14〜17日の輸送実績は実に40万人以上という驚異的な記録を打ち立てたのです。

(*1)「狭軌」とは、レールとレールのあいだの幅が1,435mmより狭い軌道のことで、我が国の国鉄在来線(1,067mm)はすべて「狭軌」だった。レール間隔が1,435mmの軌道を「標準軌」といい、国鉄ではじめての標準軌の路線は東海道新幹線である。なお戦前計画された「新幹線」も標準軌であり、国鉄部内では「標準軌」=「新幹線」、「狭軌」=「在来線」という呼び方が一般的だった。
(*2)(株)鉄道会館ホームページ「東京駅歴史探訪」より。
(*3)『建設者』昭和39年9月臨時増刊号「東海道新幹線」pp.84-96「新東京駅の建設」より。
(*4)角本良平「東海道新幹線」pp165-166より。なお同書は東海道新幹線開業前の1964年4月30日に刊行されていることは注目すべきであろう。


2.東北/東海道新幹線(第7ホーム) 〜東北のカネで、東海道・山陽新幹線の増強を実現〜

2−1.東海道・山陽新幹線の輸送力増強と第7ホーム(15番線)の施工

 1971(昭46)年10月、国鉄が提出した東北新幹線の工事計画は運輸大臣に認可され、晴れて着工が決まりました。この計画の中で、東京駅は在来線転用により第6・第7(12〜15番線)という2面のホームを在来線ホームの転用により新設、既存の16番線(第8ホーム)も改良して、計3面5線を東海道〜東北直通可能とすることになりました。

 一般に鉄道工事は、工期がかかるトンネル等の工事を先行させ、開業時期がはっきりしてきた時点で駅工事にも着手するのがふつうです。しかし東北新幹線の東京駅は、1972(昭47)年3月という早い時期に、第7ホームの新幹線転用工事に着手しています。その背景には大きく2つの事柄が係わっていました。
 1つは、1975年春に控えた新幹線博多開業に伴う東海道・山陽新幹線の増発計画です。「ひかりは西へ」と謳われた博多開業では、片道1時間当たり「ひかり」5本・「こだま」5本の、いわゆる「5−5ダイヤ」を実現する計画でした。この計画の実現には、早急に東京駅の着発線をもう1線増やす必要があったのです。
 もう1つは成田新幹線との関係です。第7ホームから東海道新幹線の本線にレールをつなぐために構築された南部高架橋の地下には、同1971(昭46)年、日本鉄道建設公団(現.鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の手で建設が開始された成田新幹線の鍛冶橋地下ターミナルが建設中で、これと一体構造で建設する必要がありました。

 工事の過程を述べる前に、因縁めいた第6/第7ホームの由来を見てみましょう。
 この第6/第7ホームは元々戦前の新幹線、いわゆる「弾丸列車」の駅用地として確保された場所でした。しかし戦争の激化から敗戦に至る時代の波に揉まれて計画は頓挫、戦後になって在来線ホームに転用された場所だったのです(*5)。
 戦前の東京駅はホームが4つしかなく、第1ホームを中央線、第2ホームを京浜東北&山手線、第3/第4ホームを東海道・横須賀線が使用していました。戦時中の突貫工事で第5ホームが完成、東海道・横須賀線の増発に寄与しましたが、これもすぐに飽和してしまいます。
 このような中で、1949(昭24)〜1956(昭31)年にかけて、京浜東北・山手線の分離運転に対応する工事が進められました。1956(昭31)年には東海道本線の全線電化が完成、通勤電車のみならず東海道線の増発も急を要していたのです。そこでこれらの問題を同時に解決すべく、戦前に新幹線用地として確保された用地を転用して第6/第7という2面のホームを新設することが決まりました。完成後は東海道・横須賀線が第4〜第7ホームに発着、京浜東北・山手線は北行=第2ホーム/南行=第3ホームとし、大幅な容量増大が図られました。
 東北新幹線の着工にあわせ、新幹線ホームに転用することが決まった第7ホームは、このように当初から新幹線のために計画されたものであり、30年以上の時を経て、ようやく本来の目的に使われることになったとみることもできます。

 話を戻しましょう。第7ホームの建設にあたって、まず行われたのは(1)〜(3)に示す大幅な支障移転工事等でした。

(1) 東京−上野間回送線の使用停止と東京駅・上野駅の配線変更(*6)

 在来線第7ホーム(14/15番線)を新幹線に転用するため、1973(昭48)年3月限りで使用が停止されました。これに伴う発着線の不足により、それまで東海道新幹線との接続を図るため東京に発着していた特急列車をはじめとする東北・高崎・常磐各線の東京乗り入れ(17往復)が全て中止となり、これらの列車は上野発着に改められました。また同区間を経由する回送・臨時・手小荷物等の各列車は、すべて渋谷・新宿・池袋(山手貨物線)経由に変更しました。
 上野駅発着列車の増加に伴い折り返し能力を高めるため、上野−御徒町間の折り返し線を従来の13 両×1線から15両×4区間に増強しました。一方、東京駅の神田方にあった折り返し線(17両×4区間)は、同線にかかる呉服橋架道橋の架け替えの関係で2区間に縮小されましたが、その埋め合わせとして、従来到着専用で大阪方面に出発できなかった第4ホームの7番線を着発とも可能なように改良しています。
 さらに将来予想される第6ホーム(12/13番線)の新幹線転用&ホーム延伸の際に無駄な工事が生じないよう、在来線第5/第6ホームの神田方80mを将来の新幹線建設にあわせて線形変更しています。

(2)品川駅の増強(*6)

 東京駅の着発線減少に伴い、臨時列車及び東海道線電車の一部を品川駅打ち切りとすることになりました。これに備え、品川駅の第4・第5ホーム(7〜10番線)を、15両編成に対応できるよう延伸しました。

(3)東京駅構内施設等の支障移転(*6)

 (1)の実施と新幹線高架橋の新設に伴い、東京駅構内の1階コンコースの空調ダクト・電気ルート・ケーブル地下道・下水幹線・新幹線/在来線のゴミ処理装置、そして「東京駅名店街」・電電公社(現NTT)・鉄道弘済会・鉄道郵便局等の移転を行う必要がありました。その件数は60件、計9,860uにも及びましたが、1974(昭49)年7月に完了しました。

 以上(1)〜(3)の工事は、いずれも東北新幹線ホーム新設のための付帯工事として扱われ、いずれも東北新幹線の工事費で施工されています。東京−盛岡間だけで2兆6,500億円余にも及ぶ東北新幹線の工事費も、その内訳を見ると(1)(2)の東京駅・品川駅改良に代表されるように、首都圏の通勤輸送も含む国鉄全体の輸送改善に資する設備投資の要素が内包されていることがわかります。

 これらの工事が完了すると、いよいよ第7ホームの転用工事に着手します。
 ホーム中央部については線路を支える高架橋は基本的に流用しましたが、レール面(R.L)を新幹線に揃えるため、既存の高架橋でも支えられる軽量の受け台(コンクリート製)を高架橋に載せて軌道を支えています。一方、ホームを受ける桁は全て新しくつくられました(*6)。

 一方、元々盛土構造だった有楽町方=南部(1期)及び神田方=北部(1期)の2ヶ所では、業務施設を階下に入れるために二層式の高架橋が新設されました。このうち南部高架橋は日本鉄道建設公団(現.鉄道建設・運輸施設整備支援機構)が建設中の成田新幹線の鍛冶橋地下駅コンコースの上部構造物として、成田新幹線と東北新幹線の予算をあわせて一体施工されました。


 白い軽自動車の右側にある黄色柵から線路2本分が東北新幹線予算でつくられた南部高架橋(1期)。
よく見ると右側の架線柱(16〜18番線)が複線型に対し、南部高架橋上の14番線と15番線は単線型。
1線ずつ開業させた名残りをわずかにとどめる。

2004/11/21(日) 東京駅11:30着「のぞみ2号」(W2)より撮影

 一方、第7ホームの新幹線転用に際しては、元々在来線ホームとして機能していたことから、コンコースを中2階に設ける必要がなくなり、1階=コンコース/2階=ホームというシンプルな二層構造の高架駅となりました。1964(昭39)年に完成した東海道新幹線の第8/第9ホームの中2階コンコースとは短い階段(後のリニューアル工事でエスカレーターも新設)で結ばれましたが、高い天井には光天井が埋め込まれており、新幹線のターミナルにふさわしい、ゆとりある空間を用意しています。


↑新幹線第7ホーム(14/15番線)直下のコンコース。
 正面の小階段&エスカレーターは、新幹線第8/第9ホーム(16〜19番線)直下の中2階コンコースへ
つながっている。ゆとりのある天井高さが、新幹線のターミナルにふさわしい雰囲気を醸し出す。
2003/11/08(Sat) 8:25

東北新幹線15番線(第7ホーム)は暫定的に東海道に使われることになった。
しかし30年を経た今、700系新大阪行「ひかり」が停車する姿に違和感はない。
2001/08/09 13:30頃

 数々の苦心を重ね、1975(昭50)年7月、新幹線第7ホームは、まず15番線が開業、暫定的に東海道・山陽新幹線の着発線として機能させることになりました。これにより東海道・山陽新幹線はホーム3面・着発線5線の規模を確保しました。東京−博多間が1本の新幹線で結ばれたこの年、東海道・山陽新幹線は開業以来最大の旅客輸送実績を重ねました。

2−2.東海道・山陽新幹線の安定確保と14番線の新設

 苦心の末に完成した15番線でしたが、その完成前から、早くも未着工の14番線を東海道・山陽新幹線用に整備できないかという検討が始まっていました。

 そのきっかけは1973(昭48)年からの東海道・山陽新幹線の輸送を巡る大混乱です。このころ東海道新幹線では、回送列車の脱線事故やATC(自動列車制御装置)の誤動作など安全の根幹に関わる大事故が連日にわたって頻発、レールや架線のトラブルも後を絶たず、遅れや運休が常態化する異常事態に追い込まれたのです。世論は東海道・山陽新幹線の運行体制に厳しい批判の眼を向け、国鉄は安定輸送対策に追われることになりました。開業当初に導入された車両の取替やレール・架線の交換が矢継ぎ早に実施されました。中でも東京駅の着発線増加による折り返し能力の強化が求められるようになりました(*7)。こうして「14番線を東海道・山陽新幹線用とすべき」という議論が巻き起こってきたのです。
 しかし14番線を東海道・山陽新幹線のために使うためには、東北新幹線の計画との整合性が必要です。というのも、東北新幹線の工事実施計画では、東京駅の新幹線ホームを東海道・東北・上越あわせて4面8線(第6〜第9,12〜19番線)しか確保していなかったからです。この時点で既に5線を東海道・山陽新幹線が使用しており、14番線も含めれば、当初計画の8線のうち6線を東海道・山陽新幹線が使うことになります。そうなると、東北・上越新幹線ぶんとしては2線しか確保できません。そこで14番線の使用方法を考えるこの機に、東海道と東北・上越の各新幹線のスルー運転のあり方についても再検討することになりました(詳しくは別稿参照)。
 この検討が開始された1975(昭50)年の時点では、住民の反対運動はもとより東京都の強い拒否反応の影響で、東北新幹線の大宮以南の工事はほとんど手付かずの状態でした。そんな中の翌1976(昭51)年、台東区より東北新幹線に上野駅を設けるよう強い申し入れがあり、都知事もこれを条件に東北新幹線の建設を容認する発言を行いました。こう着状態の東京都との話し合いに光明を見出すべく、国鉄もこの申し入れに沿って調査を行いました。そして1977(昭52)年9月、上野地下駅が技術的に可能であることを発表、同年11月26日の理事会で上野駅の設置を正式に決定したのでした(*8)。
 東北新幹線大宮以南が殆ど手付かずのまま残っており、しかも上野サブターミナルの新設が決まったことで、14番線の東海道・山陽新幹線「暫定使用」に対するお膳立ては全て整いました。1977(昭52)年12月の「東北新幹線工事実施計画変更(その2)」では「東海道と東北・上越新幹線の相互直通運転はダイヤの乱れが相互に波及し、運転管理面に多くの問題が予想されることなどから、団体用臨時列車等特殊列車の直通運転の可能性は残す必要があるにしても、東京駅着発線容量の向上を期待しうるほど多くの直通運転は考えられない。」(*9)と位置づけ、直通可能な線路を14番線の1線のみとし、その14番線も当面は東海道・山陽新幹線の折り返し能力を向上させるために「暫定使用」することが決定しました。

 14番線の工事は、2年弱の工期を経て1979(昭54)年12月に完成します。14番線の完成と同時に、東北新幹線東京駅完成後のコンコースと設備機器の設置スペースを確保するための工事を行いました。関ヶ原の降雪の影響がなくなる1980(昭55)年春を待って16番線を使用停止、北側の盛土を高架につくりかえる(北部高架橋二期工事)もので1980(昭55)年10月に完成しています(高架下の残工事は1983(昭58)年3月完成)。こうして東海道・山陽新幹線の6線化(14〜19番線)は実現しました。

 しかしここで再び疑問が浮かびます。それは、14番線の工事もまた、東北新幹線東京駅の工事と位置づけられ、東北新幹線の工事費が充当されたことです。先の15番線同様、東北新幹線の工事費で東海道新幹線の安定輸送を実現しようとしたのです。これは一見「どんぶり勘定」以外の何者でもありません。しかし当時の担当者の本音は、緊縮財政を迫られる中で輸送の安定確保を求める世論に応えるべく、予算のつきやすい費目(ここでは「東北新幹線工事費」)にすがったのかもしれません。

 後世史家が東北新幹線の工事費について語るとき「無駄遣いだった」と批判するのはたやすいことです。そして大部分において、それは正しいかもしれません。なるほど立派な高架橋が続き、無駄に大きな駅が散見されることは事実です。しかし、東北新幹線の工事費で完成した第7ホームの歴史が物語るように、「東北新幹線のためにはならなかったが、他のプロジェクト(たとえば首都圏通勤輸送や東海道・山陽新幹線)に有益だった投資」が東北新幹線の工事費の中には少なからずあります。たとえば上野口の通勤輸送を考えてみます。上野−宇都宮(あるいは高崎)に新幹線がなく、今でも特急列車が頻繁に行き来していたら、宇都宮線や高崎線の通勤輸送は既に破綻していたでしょう。東北新幹線が開業した頃、「東北新幹線が国鉄を破綻に導いた」という論調が多く見られました。しかし、東北新幹線の工事費がもたらした新幹線以外の成果をも正確に判断しなければ、議論として片手落ちではないでしょうか?

2−3.幻の「直通計画」 〜第7ホームの帰属問題〜

 1987(昭62)年4月、国鉄は分割民営化されます。国鉄経営を支える収益源であった新幹線は、すべて特殊法人「新幹線鉄道保有機構」が承継。東海道は東海旅客鉄道(JR東海)が、東北・上越は東日本旅客鉄道(JR東日本)が施設を機構から借りて営業することになりました。
 このとき東京駅の第7ホームの取り扱いが問題となりました。そもそも第7ホームは元々東北新幹線の工事費で建設されたからです。しかし現実には、毎日東海道新幹線が発着しています。この現実を重く見て、1階コンコースはJR東日本に帰属、2階ホーム及び軌道は新幹線鉄道保有機構が所有の上、JR東海に貸し付けることになりました。
 1991(平3)年6月20日には東北新幹線が東京駅に乗り入れてきました。しかし東海道・東北両新幹線の相互直通運転については、1989(平成元)年9月、運輸省・新幹線鉄道保有機構・JR東日本・JR東海の4者で検討した結果、「当面行わず開業後の需要動向をみて平成6年までに直通運転のあり方について運輸省に報告」(*10)することが決まっていたため、工事計画に記された14番線の直通線は施工されませんでした。

 1991(平3)年10月1日には、JR各社の株式上場を前に、その資産を確定させるという大義名分の下(*11)、「新幹線鉄道保有機構」の新幹線鉄道資産をJR各社に売却することが決定します。ここで再び第7ホーム(14/15番線)の取り扱いが問題になりました。

 もし東北新幹線の建設費に係る長期債務をJR東日本が負うのなら、東北新幹線の工事費でつくられた第7ホームはJR東日本に譲渡するのが筋です。それが東海道新幹線の発着に必要だとしても、JR東海がJR東日本から賃貸すれば済むことです。
 しかしこの時各社に課せられた新幹線の買取額(=旧国鉄の債務負担額)は、新幹線の建設に要した費用の寡多によらず「各新幹線の収益力に応じて」決められました。たとえば収益力の高い東海道新幹線を買い取るJR東海は建設費(約3,800億円)の14倍近くの5.2兆円を負担する一方、東北・上越新幹線を買い取るJR東日本は建設費(約4.4兆円)の2/3程度の3.1兆円を負担すればよいことになったのです。つまり、どの会社がどの新幹線の債務を負ったかはあえて明確にしませんでした。
 結局、第7ホームについては東海道新幹線が発着する現実を重視して、1階コンコースがJR東日本に帰属しているにも係らず、第7ホーム及び14/15番線の軌道をJR東海に譲渡しました(*12)。

 JR旅客各社に対する新幹線鉄道の譲渡から5年を経た1996(平8)年、東海道・東北両新幹線の直通計画を中止することが、運輸省・JR東日本・JR東海の3者から正式に発表されました。この時、第7ホームと東北新幹線の縁は完全に途切れたのでした。

 第7ホームが東北新幹線のためにつくられた‥この事実自体、もう歴史のなかに埋もれてしまったのかもしれません。今日も、そして明日も、西へ向かう新幹線が第7ホームを離れてゆきます。北へ向かう新幹線が旅立つはずだった、このホームから‥。


↑ 現在の新幹線第7ホーム(14/15番線)
  東北新幹線の工事費で施工された第7ホームだが、今やそのことを知る人も少ない。
 空が白みはじめる頃、北へ向かう列車が出ることを夢見てつくられたこのホームから、
 西へ向かう始発列車が飛び立ってゆく‥。
2002/04/27 23:30頃
(左)15番線=「のぞみ28号」500系W5編成 (右)14番線=翌朝の「のぞみ1号」となる500系W2編成

(*5)国鉄東京幹線工事局「東海道新幹線工事誌 一般編」p.20より。
(*6)東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線東京・上野間工事誌」pp.405-416より。
(*7)問題視されていた恒久的な遅れ対策として、当時の国鉄は「パトカー運用」と呼ばれる苦肉の策をとっていた。「国鉄特急電車の運用 〜異常時対応のパトカー運用〜」国鉄本社運転局車務課監修 『鉄道ジャーナル』1978年1月号P.78によると、「ひかり」用の編成を東京・大井にある車両基地から回送で東京駅に向かわせ、東京駅に到着した時点で上り列車のダイヤが乱れているときは折り返しの下り列車の定時発車が困難と判断、ただちに下り列車に変身して、定時に西へ向かう。もし上り列車に遅れがなければ一定時間停まった後、再び回送で大井の車両基地に帰す。東京駅まで遅れのパトロールに出かける運用であるところから「パトカー運用」と名付けられた。この「パトカー運用」による回送列車は当時、一日数往復も運転され、毎日3編成がこの任務にあたるために車両基地に常駐していた。増発や増結のためではなく「パトカー運用」に充てるために、昭和49年度第1次債では4編成64両もの新幹線車両が増備されているほどであった。このこと自体、当時の国鉄がどれほど安定輸送の確保に頭を悩ませていたかを端的に物語っている。
(*8)国鉄東京第三工事局「東北新幹線工事誌 上野・大宮間」pp.60-61より。
(*9)東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線工事誌 東京・上野間」p.516より。
(*10)東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線工事誌 東京・上野間」p.398より。
(*11)JR3社に対する新幹線施設譲渡価額9兆1,767億円のうち、1987年の「再調達価額」の残高8兆0,691億円は25.5年割賦で旧国鉄の長期債務返済に充てられるが、資産評価上昇分の1兆1,076億円は60年割賦の元利均等払いとされ、整備新幹線の整備特定財源に充てられることになった。国鉄長期債務返済の有力な原資とみなされてきた既存新幹線を売却、その譲渡益の一部から整備新幹線の建設財源を生み出すこのスキームは、整備新幹線の財源不足に悩む運輸省の現実を色濃く映している。
(*12)山之内秀一郎「新幹線がなかったら」pp234-235によると「(分割民営化の際の会社境界を決定する際の)問題は新幹線と在来線の両方がある駅の区分である。東京駅を例にとると、東海道新幹線の線路とプラットホームなどの設備とその下にある土地はJR東海の財産とし、その他の部分はJR東日本の所属となる。この分類方法のことを社内では「雨だれ方式」と呼んでいた」という。しかし第7ホームだけは本文に記した経緯をたどったため、ユーモアを交えて「ここだけは雨だれが下に落ちなかった」と記している。