↑ 東北新幹線のターミナルも東海道新幹線と同じ東京駅が選ばれた。 決め手は、東海道・山陽新幹線との直通ができることだったはずだが‥。 2004/05/30(Sun) 10:52 東京駅 (左)東海道新幹線(9213A修学旅行臨時列車=のぞみ) (右)東北・秋田新幹線(3011B「はやて・こまち11号」) |
1.東北新幹線のターミナルも東京駅に
東海道新幹線の開業から6年を経た1970(昭45)年5月、「全国新幹線鉄道法」が成立します。東海道新幹線の成功を目の当たりにした政府与党は、全国に新幹線を張り巡らし国土開発を進めることを考えたのです。
そして1971(昭46)年1月、東北・上越・成田の各新幹線の基本計画が決定され、東北新幹線は国鉄に調査・工事命令が下されました。
東北新幹線のターミナルをどこにするか?
‥この命題について、真っ先に動きを見せたのは上野を擁する台東区でした。「全国新幹線鉄道法」成立前年の1969(昭44)年12月には、早々と台東区議会が立ち上がり、「上野駅を改築し、東北新幹線の基点とすることの意見書」を採択、国鉄総裁に提出しています。「全国新幹線鉄道法」の成立後は、運動も一層活発となり、1970(昭45)年6月には町会連合会から、11月には台東区再開発協議会も同趣旨の陳情を台頭区長に提出、運動に熱を帯びてきました。
東北新幹線のターミナルについてどういう検討がなされたか、今となっては推測による他ありません。しかし、上記の情勢を考えると、上野が検討の俎上にのぼったことは間違いないでしょう。さらに、急激な成長を遂げている新都心3区、とりわけ国電との連絡に便利な新宿も強く意識されたものと思います。
検討の経過は明らかでありませんが、調査ならびに工事命令(1971年1月)からわずか3ヶ月後の1971(昭46)年4月には、東京駅をターミナルとすることが国鉄内部で決定されています(*1)。この間の事情を、工事誌は簡潔に述べています。
(前略)国鉄は、東北新幹線のターミナルを都内のどこにするかについて種々検討を重ねた結果、最終的には東海道新幹線との直通運転を可能にするため、現在の東京駅に乗り入れることがベターであるとの結論に達し、昭和46年10月工事実施計画書が運輸大臣認可となった。
短期間での決定は、上野より東京のほうが、国電との接続、利用者の利便性など、あらゆる面で優れていると判断された結果でしょう。そして様々な条件の中で、決め手となったのは東海道・山陽新幹線との直通が可能なことでした。
ここで東海道新幹線の東京ターミナル決定の経緯を思い出してみると、面白いことに気付きます。もし東海道新幹線の建設当時、利便性や北への延伸の可能性に目をつぶり、品川や汐留にターミナルをつくっていたら、果たして東北新幹線のターミナルは東京になったでしょうか? 工事費も交渉の手間もかかる都心部を縦貫してまで東京に乗り入れるより、上野や池袋あたりでお茶を濁していたかもしれません。まさに歴史の偶然です。
東北・上越新幹線は東海道・山陽新幹線と接続し、関西・九州方面と連絡できる構想であり、東北方面へ速く結ぶためには建設ルートを直線にして停車駅の数も少なくしたほうがよいという発想から、東北新幹線の東京の次の停車駅は大宮になりました。これを反映して、認可された工事実施計画では、東京から国電に並行して北上、秋葉原付近から地下線となり、上野公園の下を通って日暮里で地上に出るルートが示され、上野は完全に素通りすることになりました。台東区民は失望に包まれましたが、それでもあきらめませんでした。運動の継続が、やがて上野サブ・ターミナルの実現につながっていきます(*1、詳細は別稿)。
一方、新宿案については、将来東北・上越新幹線の乗客が増加して東京都心〜大宮間に新幹線の線路増設が必要となった場合、バイパスルートとして新宿〜大宮間を建設することが発表されました。但しこちらのほうは具体的なルートなどは発表されませんでした(別稿)。
なお東京駅は成田新幹線の起点にも指定され、東北新幹線と並行して工事が始まっています。
(*1)国鉄東京第三工事局「東北新幹線工事誌 上野・大宮間」pp.58-60より。
2.東海道〜東北新幹線、スルー運転の計画でスタート
下図は1971年10月に認可された工事実施計画での東京駅の配線計画です。新幹線は当時既に完成していた第8・第9ホーム(2面4線)も含め、ホーム4面8線が確保されています。このうち5線は東北・上越と東海道との直通が可能となっています。スルー運転を行うことで東京駅ホームの滞留時間を短くして、列車の処理能力を高める意図が伺えます。
なお第8ホームの16番線は、東側(図では下)の17〜19番線と平行して設けられていたのですが、東北新幹線開業後はホーム途中からカーブさせて東北方面に直通できるよう改良する予定でした。
東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線工事誌 東京・上野間」p.390より |
東北新幹線東京駅として最初に着工されたのは、在来線第7ホームを新幹線に転用(現14/15番線)することでした。在来線の第7ホームは、前稿の通り戦前の新幹線のために計画されたもので、戦後在来線に用途変更されたものでした。そして戦後の新幹線計画の際、将来の東海道新幹線増発の際には新幹線用に転用することも既に計画されていました。
もっとも、このホームの工事が急がれたのは東北新幹線のためだけではありません。一番の理由は、山陽新幹線博多開業に伴う東海道新幹線の列車増発、いわゆる5−5ダイヤの実現でした(*2)。この増発のためには東京駅のホームを1線増やす必要があり、15番線の建設が必要になったのです。
(左)東海道新幹線ひかり号(1217A 700系C15) |
(*2)5−5ダイヤとは、1時間当たり「ひかり」5本・「こだま」5本の計10本を運転するダイヤのこと。それまでは「ひかり」4本・「こだま」4本の4−4ダイヤだった。
3.直通運転の縮小
博多開業から遅れること4ヶ月弱の1975(昭50)年7月、7番ホーム及び東側の15番線が完成、東海道・山陽新幹線は3面5線の規模を確保しました。しかし15番線も完成していないうちから、今度は東海道・山陽新幹線の異常時対応のために6線に増強すべきだという議論が巻き起こってきたのです。
当時、東海道・山陽新幹線は、ATCの誤動作やレール・架線のトラブルが連発。それまでほぼ100%を誇った定時運転率も、大幅に低下していました。国鉄は安定輸送確保の一環として、東京駅のホーム数を増やし、折り返し能力に余裕を持たせてダイヤの回復を早めることを決めました。(詳しくは別稿参照)
しかし東北新幹線の工事実施計画では、東京駅の新幹線ホームを東海道・東北・上越あわせて8線しか確保していません。このうち6線を東海道・山陽新幹線が使えば、東北・上越新幹線は2線しか残りません。かといって、東北・上越新幹線のスルー運転は、混乱時のダイヤ回復を遅らせることになります。そこで、東海道・山陽新幹線の6線めの建設にあたっては、東北新幹線の計画も再検討されることになりました。
再検討に至った背景として、着工から5年を経た東北新幹線の工事が一向に進まないことがありました。
東北新幹線の着工が決定するな否や、当時の東京都知事・美濃部達吉氏が「新幹線が上野公園の下を通るのは認めない」と都内での新幹線工事に一切協力しない態度を取ったのです。これにより、都内では測量許可も得られず、工事に一切着手できない状態が続きました。そんな中、1973(昭48)年には第1次オイルショックが起こります。総需要抑制政策の中、東北新幹線も予算が大幅に抑えられ、工事は足踏み状態に陥っていました。
こう着状態の東北新幹線が動き始めるのは1976(昭51)年です。2月には新幹線上野期成同盟(会長:台東区長)から上野に新幹線駅を設置する賛成者名簿が提出され、4月には台東区から東北新幹線上野駅の設置に関する計画案が発表されました。美濃部都知事も同年3月の都議会で「新幹線の東京駅集中は、防災上好ましくないので、地下方式を前提にして、上野ターミナル案を実現させる方向でいる、このことを国鉄に要請するつもりだ」と、上野地下駅の設置を条件に東北新幹線建設を容認する発言を行いました。これを受けて国鉄も調査を行い、1977(昭52)年9月、上野地下駅が技術的に可能であると発表、同年11月26日には理事会で上野駅の設置を正式に決定したのでした(*3)。
再検討の結果、「東海道と東北・上越新幹線の相互直通運転はダイヤの乱れが相互に波及し、運転管理面に多くの問題が予想されることなどから、団体用臨時列車等特殊列車の直通運転の可能性は残す必要があるにしても、東京駅着発線容量の向上を期待しうるほど多くの直通運転は考えられない。」(*4)として、下に示す配線計画が立てられました。直通可能な着発線は14番線わずか1本だけです。
東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線工事誌 東京・上野間」p.391より |
この配線計画は1977(昭52)年12月の「東北新幹線工事実施計画変更(その2)」として認可されます。1979(昭54)年12月には東北新幹線の工事として14番線が完成しました。この工事に続き、東北新幹線東京駅完成後のコンコースと設備機器の設置スペースを確保するため16番線北側の盛土を高架につくりかえる工事を施工、1980(昭55)年10月に完成しています。これで東海道新幹線の完全6線化(14〜19番線)が実現しましたが、増発や輸送力増強ではなくダイヤ回復の「ゆとり」を確保するためという辺り、当時の保守的な国鉄を象徴する工事でした
これで東京駅の東北新幹線工事は、当時在来線用だった第6ホームの新幹線ホーム(12/13番線=現22/23番線)への転用と14番線の東北直通工事を残すのみとなりました。しかし、第6ホームは当時東京駅の第5・第6ホームに発着していた横須賀線の東京地下駅への乗り入れ工事が完成する1980(昭55)年10月まで転用工事に着手することができず、新幹線ホーム自体も東北新幹線の東京開業の時期まで必要がないため、しばらく東京駅の工事は中断。目下工事が進められていた上野−大宮間の建設に全力が注がれることになります。
(*3)国鉄東京第三工事局「東北新幹線工事誌 上野・大宮間」pp.60-61より。
(*4)東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線工事誌 東京・上野間」p.516より。なお国鉄東京第三工事局「東北新幹線工事誌
上野・大宮間」p.26によると、1977(昭52)年7月18日に開かれた第247回常務会で東北・上越新幹線用量産先行試作車の基本仕様の考え方を審議決定した際、「東海道・山陽と東北・上越は定常的には直通運転を行わない方向で細部の検討を行う、但し団体臨時列車等については直通運転可能な50/60Hz両用車等で対処する」方針が決定されている。
4.凍結から雪解けへ
東北新幹線工事が進められる中で国鉄財政は急激な悪化を続けていました。国鉄の赤字体質は1965(昭40)〜1968(昭43)年の「第三次長期計画」での減価償却費を大幅に上回る過大な設備投資とその資金調達スキームで決定的になっていたのですが(*5)、東北新幹線の工事が進む中、国鉄は利子を返すためにまた借金を重ねていった結果「雪だるま式」に累積債務が膨れ上がり、手のつけられない状態に陥っていきました。
とうとう1983(昭58)年8月には国鉄再建監理委員会の緊急提言(新規設備投資の抑制等)により東京−上野間の東北新幹線建設を原則凍結、わずかに部外協議・安全対策上やむを得ない工事・用地買収に限って継続されることになりました。
3年後の1986(昭61)年、幾多の紆余曲折を経て、政府与党は国鉄の分割・民営化を決定します。
分割・民営化に伴い、旧国鉄の資産を後にJRと呼ばれる旅客鉄道各社を含む関係機関に分割することになりました。当時国鉄が営業していた4新幹線(東海道・山陽・東北・上越)は全て「新幹線鉄道保有機構」の所有となりましたが(*6)、東京・上野間については、「国鉄においてかなり工事が進推しており、建設した施設を放置するより、これを完成させて東日本に貸し付けて建設費を回収することの方が合理的」(*7)との判断のもと、東日本旅客鉄道(JR東日本)が営業主体となる前提で、新幹線鉄道保有機構が建設主体となって工事が再開されることになりました。
新しい東京・上野間の工事実施計画は、新幹線鉄道保有機構の設立を見越して国鉄時代の1987(昭62)年3月13日付で変更認可されています(「東北新幹線工事実施計画変更(その11)」)。新幹線鉄道保有機構は元々新幹線のリース料で国鉄の長期債務を返済するのが目的ですから、新幹線建設を行えるだけの技術的能力はなく、設立と同日の1987(昭62)年4月1日付で、やはり同日発足のJR東日本(=東日本旅客鉄道)に対して建設工事の業務委託契約を結んでいます。東日本旅客鉄道がこの建設工事を担当させた東京工事事務所(東工所)は、1983(昭58)年まで東京・上野間の新幹線工事を行ってきた国鉄東京第三工事局(東三工)を引き継いだ組織であり、分割民営化という大きな波の中でも、建設の歩みだけはしっかりと引き継がれたのでした。
東海道・東北直通線として計画された14番線(右)のいま。 東北新幹線に合流できるよう架線柱や高架橋に余裕があるのがわかる。 幻に終わった夢を捨てるように、東北新幹線が東京駅をあとにする。 2004/12/30(Thu) 17:32 (左)東北新幹線E2系やまびこ号(61B) (右)東海道新幹線300系ひかり号(381A) |
新しい工事実施計画によると、工事内容は1977(昭52)年12月の「工事実施計画変更(その2)」の東京・上野間とほぼ同じ。東京駅は第6ホーム(12/13番線=現22/23番線)の新幹線への転用と14番線の東北直通化を行うものでした。予算は物価騰貴にあわせて見直され、1,208億円とされました。このうち東京駅に係る工事費は、路盤やコンコースなどの主体工事が約279億円で、電気設備や分岐器等も入れると約350億円でした(*8)。また総工費1,208億円のうち国鉄時代に654億円が投入されているので、残り554億円が必要なことが明らかになりました。
(*5)高橋伸夫「鉄道経営と資金調達 〜経営破綻を未然に防ぐ視点〜」では、従来一般に言われていたローカル線や新幹線の建設、あるいは鉄道のシェア低下や人件費の高騰などの「経営内容に立ち入らずに、資金調達スキームだけでも、国鉄の経営破綻のシナリオはできていた」(p.35)ことを指摘し、破綻の原因を「資金調達スキームの失敗であり、それまでの資金調達の限界を超えた巨額の設備投資」(同)とする。詳しくはFAQの質問「国鉄は新幹線の建設によって破たんしたと聞いています。新幹線の整備は「第2の国鉄」を生むことにつながりませんか?」参照のこと。
(*6)「新幹線鉄道保有機構」とは、国鉄が経営してきた4新幹線(東海道・山陽・東北・上越)を保有、旅客鉄道各社に貸し付けることで得られる収入で国鉄の長期債務を返済する目的で設立された特殊法人であった。
(*7)東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線工事誌
東京・上野間」p.11より。
(*8)東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線工事誌
東京・上野間」p.21より。
5.直通運転は先送りへ
新幹線保有機構がJR東日本に委託する形で引き継いだ東京−上野間の工事は、ちょうどバブル経済真っ只中での用地費の暴騰、さらに御徒町付近でのトンネル工事に伴う陥没事故などがあって難航しましたが、東京駅については順調に進みました。
しかし完成を控え、重要な問題が生じました。JR東海が「暫定的に」東海道専用で使用中の14番線を、東海道・東北共用とすることに難色を示してきたのです。
1986(昭61)年頃から東海道新幹線の利用者は年6%程度の著しい増加を示し、東北新幹線の先行工事として15番線を整備した1975(昭50)年、同じく東海道の暫定使用のために14番線を整備した1979(昭54)年と比較しても大幅な列車増発が行われていました。当初はダイヤの乱れに対応する「ゆとり」であった14番線の増設は、もはや東海道新幹線にとって不可欠の存在となっていました。それを今更、東北新幹線と共用してくれと言われても無理だとJR東海は主張しました。
これを受け、東海道・東北両新幹線の相互直通運転について1989(平成元)年9月、運輸省・新幹線鉄道保有機構・JR東日本・JR東海で検討した結果、「当面行わず開業後の需要動向をみて平成6年までに直通運転のあり方について運輸省に報告」することになりました(*9)。この結果、第7ホーム(14/15番線)を東海道が、第6ホーム(12/13番線=現22/23番線)を東北・上越が、それぞれ専用に使用することが決まります。この結果、東北・上越新幹線のターミナルでありながら、たった2線しか使わせてもらえない異常な事態となりました。
東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線工事誌 東京・上野間」p.392より しかし、先送りを決めた協議から14年経った今も実現のめどは全く立っていない。 |
1990(平2)年3月には、最後となる工事実施計画の変更(その12)が認可されます。東京・上野間の工事費は物価騰貴ぶんを補正して1,317億円に増額、工事完了時期は平成3年度とされましたが、工事のうち35億円は直通運転に係る設備費とされ、先の平成6年の運輸省報告を見て「平成8年度までに完了する」としました。
こうして、着工から20年、幾多の紆余曲折を経て、とうとう東京−盛岡間が新幹線で結ばれたのは1991(平成3)年6月20日のことでした。1面2線のターミナルで東北・上越あわせて一日198本もの列車をさばくため、東京駅の折り返し時間は、ホーム上の折り返しで12分ないし16分、回送で入線又は到着後回送する列車は4分でさばくことになりました。
(*9)東日本旅客鉄道東京工事事務所「東北新幹線工事誌
東京・上野間」p.398より。
6.消えた相互直通の夢
東北新幹線の東京開業からわずか3ヶ月余り後の1991(平成3)年10月1日、新幹線鉄道保有機構は解散、新幹線の施設はJR各社に売却されました。売却価格は4新幹線あわせて計約9.2兆円で、うち約8.1兆円は25.5年の割賦として国鉄債務の返済に充てましたが、残る約1.1兆円は60年割賦で整備新幹線の整備財源に充てることになりました。売却価格のうち、東北・上越新幹線を購入するためにJR東日本が負担したのは約3.1兆円です(*10)。
このとき問題になったのが東京駅第7ホーム(14/15番線)の帰属です。元々東北新幹線の工事費で建設されたホームだったため、東日本・東海いずれに譲渡すべきかが議論されましたが、東海道新幹線が発着する現実を重視して、ホーム及び軌道はJR東海に譲渡されました。
さて開業前の約束であった「相互直通のあり方」をめぐる検討は、1994(平成6)年に運輸省に報告されています。このなかで、東海道と東北・上越の相互直通運転は「当分のあいだ行わない」とされ、その理由として「(1)
直通旅客の需要が小さいこと(JR東海試算で全体の1割弱(*11))、(2) 車両編成が両線で大きく異なること」が挙げられています。
東北新幹線の着工からずっと考えられてきた東海道〜東北の直通、日本列島の「主軸」を新幹線で貫く夢の実現は、深い闇の中に眠ることになりました。
画面中央に東海道新幹線の列車がみえるが、線路はぷっつり途切れている。 このレールがつながる日はやがて訪れるのだろうか‥。 2000/08/08(Tue) 10:50 東京駅 |
2002(平成14)年、JR東日本は東海道線と東北・高崎・常磐線を結ぶ「縦貫線」(東京−秋葉原−上野)の計画を発表しました。首都圏の南北を結ぶ新しい動脈となるばかりでなく、田町電車区の土地売却や都市開発も期待できる優良プロジェクトと説明されています。
都市再生が叫ばれる今、東京の再生は重要な国家的課題となっています。「縦貫線」も首都圏各都市のポテンシャルを高めるという意味で、東京再生の使命を幾ばくかでも担うことになるでしょう。
でも・・それならば、東海道〜東北の新幹線の相互直通はどうでしょう? もちろんこの問題は、10年前に「行わない」という答えで決着がついています。しかし本当にその可能性を評価したうえでの答えだったのでしょうか?
改めて言うまでもなく、東北新幹線が考えられた昭和40年代と今では、時代背景が大きく異なっています。博多と青森を新幹線で結ぶことに大きな意味はない、といわれれば、なるほどそうかもしれません。しかし上野や大宮から名古屋や大阪へ、品川や新横浜から仙台や札幌へ乗り換えナシで行けるとしたらどうでしょう?
2003(平15)年10月の東海道新幹線品川開業では、品川駅前の操車場跡地が超高層ビル群に生まれ変わりました。オフィスはこぞって入居が決まり、マンションは1億円を超える価格でも即完売したそうです。東海道新幹線の駅ができる心理的効果も大きかったことでしょう。それならば、東海道新幹線が上野や大宮から出ることで、首都圏の中でも偏在する立地ポテンシャルを少しでも高いレベルに引き上げることが可能かもしれません。
あるいは、東北・上越新幹線の沿線から羽田空港へ新幹線で行けたら‥。新幹線大井基地に続く回送線と既存の貨物線を介して、東京駅から羽田空港へは既に線路が通じています。貨物線のレール幅を拡げる(3線軌化)必要があり、今のところは単なる夢物語ですが検討の余地もありそうです。空港の空白地帯である北関東から羽田空港へ新幹線で結ばれるとなれば、東京再生の鍵を握ると言われる羽田空港の国際化の意味は今よりもっと大きくなることでしょう。
都市再生という国家的課題に対し、低コストで大きな波及効果が期待できるプロジェクトが求められています。この観点から新幹線の東海道〜東北相互直通を考え直すことはできないものでしょうか? 東北新幹線のレールは東京駅の南側でぷっつりと途切れたままです。
(*10) 国鉄の分割・民営化に際して新幹線鉄道保有機構が承継した資産額は、当時の4新幹線の収益力から「再調達価額」を計算した結果、8兆5,410億円とされた。この額が、すなわち新幹線鉄道保有機構が負うべき国鉄の長期債務である。債務の内訳は、(1)
国鉄が直接建設した東海道・山陽・東北の3新幹線の建設費に対応する長期債務として3兆8,485億円、(2)
日本鉄道建設公団が建設した上越新幹線の建設費のうち、1982年の開業から1986年度までに支払われた貸付料を差し引いた未払い分1兆8,057億円、(3)
再調達価額から(1)+(2)を差し引いた2兆8,868億円で、(3)は国鉄清算事業団が承継した債務を償還する財源とされた。
新幹線鉄道保有機構の解散にあたって算定されたJR3社への譲渡価額は、同機構が発足した1987年4月時点で承継した旧国鉄の長期債務8兆5,410億円から、譲渡日(1991年10月1日)までの4年半にJR3社が支払った新幹線鉄道施設貸付料
4,709億円を差し引いた8兆0,691億円に、1兆1,076億円を上乗せした9兆1,767億円とした。上乗せ分の1兆1,076億円は1987年から譲渡日(1991年10月1日)までの4年半で生じた資産評価の上昇分と説明された。実際には、この譲渡価額は4新幹線の収益力から算出された「再調達価額」とも考えられることから、上乗せ分は4年半の旅客増加による新幹線の収益力の増加ぶんとみることもできる。譲渡価額のうち、1987年の「再調達価額」の残高8兆0,691億円は25.5年割賦で旧国鉄の長期債務返済に充てられるが、資産評価上昇分の1兆1,076億円は60年割賦の元利均等払いとされ、整備新幹線の整備特定財源に充てられることになった。佐藤信之「整備新幹線建設と財源問題の経過」『鉄道ジャーナル』1993年7月号pp.70-73によると、「当初、運輸省案では償還期間100年となっていたが、100年間の支払いとなると利子をふくめた金額が莫大になり、JR東日本からの強い反発があったため修正された」(p.72)という。
(*11)種村直樹「北陸新幹線を迎える東京駅」『鉄道ジャーナル』1997年1月号p.79より。