落日




 千石は占いが好きだった。
 気まぐれにカード占いをしては、その結果に一喜一憂してたっけ。放課後、仁と一緒になって、冷やかし半分に付き合ってあげていた。良く覚えている。幸せだったあの頃のことはすべて。
「この怖いカードは何?」
 いつもの教室。いつもの放課後。いつも千石が持ち歩いていた、タロットカードの一枚を取り上げて、私はそう尋ねた。
 まだ何もかもが上手く行っていた、あの頃の話。
 千石は、ああ、と少し困ったような顔をして、笑った。
「それはね、死神のカードだよ。意味は『終末』。例えば恋愛を占っていた時に出たなら、それは破局が近づいていることを暗示するんだ」
「悪いカードなのね」
「そうとも限らないよ」
 だってね――そこから先の言葉が、どうしても思い出せない。とても大事なことを言っていた気がするのに。どうしてあの時、ちゃんと耳を傾けなかったんだろう。
 そうしたら、こんな事にはならなかったかも知れないのに。



「……オイ」
 脇腹を蹴られて目が覚めた。
 のろりと、目を開く。仁が不機嫌そうに私を見下ろしていた。いつの間に帰ってきたんだろう。アパートの部屋はすっかりオレンジ色の光に包まれていた。
「……まだ寝てたのか」
「うん、……具合悪くて」
「病院、行くか?」
 私は首を振った。駄目だ。そんな事をしたら、私が此処に居ることがばれてしまう。
 仁は舌打ちして離れていった。私を助け起こすこともなく。
 仁だって疲れているんだ。そう思うけれど、じくじくと胸の奥が膿んでいく。苦しい。痛い。



 初めは何もかもが上手く行っていた。
 数年前――私は、仁と一緒に家を出た。二人だけで暮らしていこうと、そう約束して。
 未成年だった私たちにまともな仕事は無く、食事に事欠くことも少なくは無かったけれど、幸せだった。あの頃は、まだ。だけど――いつからだろう。仁が変わり始めてしまったのは。
 いつからか、仁は私が仕事に出るのを嫌がるようになった。やがて私が買い物で外に出ることも禁じるようになり、観ていたドラマの俳優にさえ嫉妬し、テレビを消してしまうようになった。
 その頃から仁はもう、明らかにおかしかった。
 少しでも機嫌を損ねるような事があれば、容赦なく私の頬を打つ。しばらくすると我に返り、もうしないと約束してくれたけれど、そんな優しさも長くは続かなかった。暴力は日常に織り込まれた。
 それだけされても、私は仁から離れる気にはなれなかった。家に帰れば、両親はあらゆる手を使って、仁に責任を擦り付けるだろう。誑かされた可哀想な娘、悪いのは全てあの男。そうして仁は誘拐犯に仕立て上げられてしまう。

 ねえ千石、私が間違っていたの? あの家から逃げてはいけなかったの? でもそうしなければ、とても仁と一緒になることなんて出来なかった。私の望みはお金でも地位でもない、ただ仁の側に居たい、それだけだったのに。
 それとも――私が仁を好きになったのが間違いだったというの。仁だって昔は私に手を挙げるような人じゃなかった。それが少しずつ少しずつ追い詰められて、怒りが暴発する度に、私を殴り蹴るようになった。
 仁だってそんな事はしたくないのに。今でも変わらず私を大切に想ってくれているのに、どうして。



 どれくらい時間が経ったんだろう。
 不意に、頬に手が触れる感触がした。目覚めるより先に、体が暴力を恐れて反射的に身を引く。
 仁の硬い手じゃないことに気づいたのは、その後だ。
「……気がついた?」
 数年ぶりに会った友人は、相変わらず派手なオレンジ色の髪をしていた。
「千石? どうして? 仁は? どこ?」
 此処のことは千石にも教えていなかったはずだ。私は飛び起きようとして、背中の痛みに思わず崩れ落ちた。
 優しく抱き起こされながら、私は部屋を見回した。……人の気配がしない。
 千石を見返すと、その口元にはどこか悲しそうな微笑が浮かんでいた。まさか。その微笑みが、どうしようもなく私の不安を煽った。
 千石は言った。
「よーく、聞いて、ちゃん。……今から此処に、警察の人が来る。君はこれから、家に帰るんだ」
「ば……かな事、言わないで。仁は、仁はどこ? ど、して、仁、いな」
「亜久津はもう行ったよ。俺に電話を寄越してね」
 胸の底が死んだように冷たくなった。
 千石がそっと抱く腕に力をこめて来る。とん、とん、と私の背を叩く仕草は、男というよりは乳母のようだった。
「ねえちゃん、どうか、亜久津のことを恨まないでやって欲しい。亜久津にとっては、これが精一杯だったんだよ。ちゃんが幸せになることを、亜久津はきっと心から願ったんだ」
「……じ、ん、仁、仁、仁……っ」
「だから――泣かないで。誰も悪くなんかないんだ。ただ、巡り会わせが悪かったんだよ」



 ――それはね、死神のカードだよ。意味は『終末』。例えば恋愛を占っていた時に出たなら、それは破局が近づいていることを暗示するんだ。
 ――悪いカードなのね。
 ――そうでもないよ。だってね――終わりが来た方がいい恋だって、時には、あるんだ。

 悲しいことだけど、全ての恋人同士が上手く行くとは限らないんだから。病気になった枝を打ち払うように、濁った水を捨てて新しい水を流し込むように、痛みをともなう別れも、時には必要になるんだ。



 千石の腕は優しくて、温かい。
 要らない、と思った。私が欲しかったのはこの腕じゃない。息が詰まるほど強く抱き締める、仁の。
 私はただ、ずっと側に居たかっただけなのに。
 だけど――あのまま一緒に居たら、私は遠からず命を落としていただろう。深く考えたことはなかったけれど、その結末を望む気持ちが私の心のどこかにあった。
 でも仁はそれを許さなかった。

 私を、愛していたから……?



 たくさんの足音が玄関からなだれ込んで来る。
 衰弱した体を支えられながら、私は泣き続けた。今度こそ本当に独りぼっちになってしまった仁を想って。

 この日、私たちの拙い恋は、終に幕を下ろした。



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2008/01/07 up