堂々巡り




 が倒れたと知ったのは、放課後になってからだった。



 中間テスト一日目のその日、亜久津はひとり屋上で煙草をくゆらせていた。

 テストは解答欄を埋めるだけ埋めて放り出してきた。途中退出は認められていなかったが、どうせ、亜久津を面と向かって叱れるような教師など存在しない。教室を抜け出す亜久津を止める者は誰もいなかった。

 ――ただ前の席のが、ちらりと咎めるような目を向けただけで。

 亜久津はその憎たらしい顔を思い出して、空になった煙草の箱をぐしゃりと握りつぶした。
 や千石とは中二から同じクラスだが、その頃から補習に参加しろだの何だのと口うるさい女だった。入部してからは更に頭の痛い日々が続いている。周囲からは仲がいいように思われているらしいが、とんでもない誤解だ。
 の行動のひとつひとつが、神経を逆撫でするものばかりだ。のことは嫌いだった。向こうだってとても良い感情は持っていないに違いない。

 やがて間延びしたチャイムが鳴り響いた。
 煙草を二、三本吸っている間に、眼下の昇降口から大量の生徒が吐き出されていく。ひとしきり小さな黒い頭が散らばっていくのを確認すると、吸殻を床で揉み消してようやく腰を上げた。そろそろ帰り支度をしないと校舎が閉められる可能性がある。
 だが階段を下りて二年生の廊下に差し掛かった時、南にばったり出くわしてしまった。
「亜久津! 良かった、丁度いい所にいたな。少し頼みたい事があるんだが、いいか?」
「あぁ!? 知るか、ンなもん。俺は帰んだよ」
「そう言わずに頼むよ。保健室に寄り道してくれるだけでいいんだ」
 南の声はわずかに切羽詰っていた。両手には大量の紙束を抱えている。どうやら南は南で、他の用事をこなしている真っ最中らしい。
「チッ。用事なら千石にでも任せりゃいいだろうが」
「千石ならもう帰ったよ。さっきの騒ぎで、彼女に変に誤解されたくないって言ってさ」
「さっきの騒ぎ?」
 問い返す亜久津に、南が目を丸くした。
「何だ亜久津、知らないのか? ……ああ、今まで屋上にいたんだな。そりゃ気付かなくても仕方無いか。
 テストが終わった後、さんが教室で倒れたんだよ。それで千石が保健室まで抱きかかえて運んだんだ。どうやら軽い貧血らしい」
「貧血? がか?」
 亜久津の知る限り、はこれまで無遅刻無早退無欠席だったはずだ。生真面目な性格はもとより、炎天下でテニス部の球拾いからドリンク配給までこなす体力は折り紙つきと言っていい。
 南は困ったように眉を下げた。
「――この前の小テストの結果が悪くて気にしてたみたいだからな。気負って徹夜でもしたんじゃないか?」
「……」
「まぁそういう訳だから、さんの鞄を保健室まで持って行って欲しい。俺はこの通り手が塞がっているし、入れ違いになったら拙いと思ってさ。取りに行こうとして、また階段で倒れたりしたら危ないからな」
「……」
「席は同じクラスだから分かるよな。じゃあ、宜しく頼む」
 沈黙を肯定と受け取ったのか、南はほっとした顔で去っていった。亜久津が頼みごとを無視する可能性などまるで考えてもみないようだ。
(何で――)
 何でそう、他人のことに熱心になれるのか。
 南も、千石も、――もそうだ。やたら他人のことに構う。亜久津が迷惑だと言おうが、振り払おうが、性懲りもなくお節介を焼いて来る。自分には何のメリットも無いのに。理解できない。

 のろのろと自分の教室に戻った。
 既に生徒の姿はなく、教室の中はがらんとしていた。自分の鞄を肩に引っ掛け、少し躊躇ためらってからの鞄を取り上げる。
 チリン、と小さな鈴の音がした。
「……?」
 目の高さに持ち上げて気付いた。の鞄には、犬の縫いぐるみが一つだけ付けられていたのだ。首輪の部分の鈴が、動く度にチリンチリンと鳴る。
 ずいぶん古ぼけた縫いぐるみだった。大きさも赤ん坊の手のひら位でまるで目立たないのに、よほど愛着がある物らしい。長いこと鞄に付けっ放しにしていたのだろうが、気付いたのは初めてだった。
(……けど、前にどこかで)
 教室を出て一階へ向かいながら、小さな鈴の音がずっと耳を離れなかった。
 保健室の扉が見えてきた頃、何気なくもう一度縫いぐるみを見下ろして、亜久津は小さく息を呑んだ。思い出した。これは、南がにプレゼントしたものだ。

 それはちょうど一年ほど前のことだった。
 どういう経緯かは忘れたが、一度だけ自分と南と千石、そしての四人で、部活の買出しに出かけたことがあったのだ。もっとも亜久津は、単に暇だったから付き合っただけだったのだが。
 あらかた買い物を終えた頃、店先に出してあったUFOキャッチャーに千石が足を止めた。
 俺、こういうの得意なんだよね。千石は自信満々でコインを投入したが、結果は無残なものだった。遂に残りの一回は南に任せると言い出し、南はその一回で見事に犬の縫いぐるみを吊り上げたのだ。
 だが南は景品にまるで興味が無かったらしく、その場で縫いぐるみをに譲った。ありがとう、と珍しく屈託の無い笑顔を浮かべてが受け取ったのを、亜久津は確かに見ている。

 ――あの時の。
 じっと縫いぐるみを見下ろしていて、亜久津はもう一つ、ある事に気付いた。
 縫いぐるみの紐の部分が千切れている。端を結び合わせて、もう一度しっかりと留め直されているのだ。
(――この前の小テストの結果が悪くて気にしてたみたいだからな)
 南に声が頭の中でリピートする。
 隣りのクラスの南がなぜ、の小テストの結果を知っているのか。答えは簡単だ。自身が南に相談したに違いない。
 南には確か、中一の時からずっと交際している彼女がいた筈だ。南はをただの部活仲間としてしか見ていない。だが、その逆は。
 二度と解けないように、しっかりと結び直された結び目。そこにこの汚い縫いぐるみに寄せたの想いを見た気がして、亜久津は酷く遣る瀬無い思いに囚われた。

 が話しかけて来るのは連絡事か小言がある時だけだった。
 事務的に淡々と伝えてくるのは良い方で、大会前の練習をすっぽかした時など端っから喧嘩腰で切り出して来ることもある。仲は最悪だったが、皮肉な事にクラスで一番話をしている相手には違いない。
 はそのくせ、南か千石が側にいる時は良く笑った。仲がいいのだ。そういう時は亜久津に対しても幾らか態度が柔らかい。それが却って、しゃくに障った。

 頭を軽く振って、亜久津はまた足を進め始めた。
(……関係無い)
 そう――例えが南に横恋慕していようが、そんな事はどうでもいい。自分の役目はこの鞄を届けるだけだ。それで終わる。
 カラカラと引き戸を開いた。
 保険医は留守だった。三台あるベッドの隅の台だけカーテンが引かれている。亜久津は躊躇ためらうことなくカーテンを払って中に踏み込んだ。

「おい、鞄――ってまだ寝てやがるのか」
 はベッドでぐっすりと眠りこけていた。
 気が抜けて、側のパイプ椅子に鞄を放り投げた。どさっと大きな物音がしたが、は微動だにしない。天敵・亜久津に顔を晒していることにも気付かず、すうすうと穏やかな寝息を立てている。
 無用心な。と思ったが、この場合に責められるべきはではなく職務怠慢の保険医の方だろう。
(……ったく、人の気も知らねえで)
 それほど疲れていたのだろうか。
 あんなに気が強く、目標が揺ぎ無いように見えるにも、心の中に持て余しているものがあるのか。そう尋ねたいような、今はこうしてただ見ていたいような、妙な気持ちがした。
 伏せられた睫。目を閉じていると、いつもより幼く見えるのが不思議だった。
 肩幅も小さい。強く抱いたら簡単に壊れてしまいそうな気がする。
(――)
 ふっとの顔に影が差した。
 亜久津は半ば吸い寄せられるように、彼女の唇に口付けを落としていた。



 風でカタンと窓が鳴った。
 はっと我に返る。頭の中が真っ白になった。誰に見られた訳でもないのに、亜久津はその場から逃げるように走り出した。
 保健室のドアを開きっぱなしにしたまま飛び出し、勢い良く外の非常階段を駆け上がる。途中すれ違った生徒が血相を変えた亜久津を見てぎょっとして飛びのいた。
「――っ!!」
 一息に駆け上がり、非常階段の手すりに飛びついた。大した距離でもないのに息が乱れて苦しい。

 動悸が激しかった。
 体が熱く痺れるようだった。
 何より自分のしようとしたことが信じられなかった。
 鉄柵を掴んでずるずるとその場に座り込む。

 アイツはきっと、南のことが好きで。
 南には彼女がいて、アイツはだから、それでも何でもないことのように笑って、ずっと友達付き合いを続けているのだ。恐らくは卒業するまで。南と別れ別れになる日まで、ずっと。
 それほど――アイツは、南のことが、好きなのだ。
「畜生」
 噛み締めた歯の間から熱い息が零れた。


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2007/10/04 up
亜久津→ヒロイン(→南)。
非常に時間がかかりました……。