ハーツ

 シャツの下の背中は見事に赤いあざになっていた。

 背後で亜久津が小さく息を呑む気配がする。やがて、唸るように低い声を零した。
「だから他校になんか行くんじゃねぇって言っただろうが」
「別に、仁のことで絡まれた訳じゃないでしょう。それに私がいなかったらもっと大変なことになってたよ」
「だからってお前が怪我する事ねぇだろ!」
 亜久津はそう怒鳴り、しまったというように口をつぐんだ。
 苛々と煙草を取り出して火を点ける。ベッドの上に紫煙が漂った。



 氷帝へ立ち寄ったのは昨日の放課後だった。
 うすうす嫌な予感はしていた。ルームメイトの先輩が、跡部さんに会いに行くと言い出したその時から。――彼をアイドルのように崇拝している女の子達がいることを、テニス部マネージャーの私は良く知っていた。
 心配してコートまで付き添ったし(お邪魔虫扱いされたけど!)、妬ましげな視線を投げつけてくるファンにも気を配ったつもりだった。
 でも考えが甘かったのだろう、結果的には。まさか校舎から植木鉢が降って来るとは思わなかった。
(――――危ない!)
 とっさに突き飛ばして庇わなかったら、彼女の頭を直撃していただろう。間一髪だった。今思い返しても背筋が冷たくなる。



 痣になった背中に、硬い手のひらが添えられた。
「……向こうは怪我してねぇのか」
 煙と一緒に吐き出された亜久津の言葉に、ずきりと胸が痛んだ。何気ない風を装って、すぐに言葉を返す。
「あ、先輩のこと? 大丈夫、大丈夫。私が突き飛ばしちゃった時にちょっと手のひらを擦っただけで。跡部さんに一応保健室まで付き添って貰ったけど、他は何ともないみたい」
「違う」
 煙草が灰皿で揉み消される。何が違うって言うの。問い返そうとして声に詰まった。

 さんのルームメイト?
 ああ、亜久津ってね、むかしあの先輩のことが好きだったんだよ――いつだったか、千石がうっかり口を滑らせたのを思い出した。ううん、違う。初めから、その事実を忘れたことなんて無かった。

 黒い染みのような不安がじわじわと広がっていく。
 何だか不意に泣き出してしまいそうな気がして、慌ててシャツに袖を通した。ベッドを滑り降りて洗面所に向かう。
 と、背後から手首を掴まれた。
「何だよ急に」
「手を洗いたいだけだってば」
「嘘つけ。顔貸してみろや」
「嫌ッ、離してよ」
「俺に指図すんじゃねえよ」

 力任せにベッドに引き倒された。逆さまに顔を覗きこまれる。
 亜久津は涙のにじむ私の顔をじっと見下ろすと、しみじみと呟いた。

「…………ぶさいくな面してんな」
「そんな感慨込めて言わなくてもいいでしょ。……もう、放っておいてよ」
 腕で目元を覆うと、熱い雫がこぼれた。

 亜久津のばか。だったら見なければいいのに。ずっと放っておいてくれれば良かったのに。

 亜久津が溜め息をつく気配をした。
 ベッドのスプリングを軋ませて、おもむろに上にのしかかってくる。両手両足に阻まれて、横へ避けることも出来ない。掠れた声が間近に降って来た。
「馬鹿。本気で言ってねえよ。ったく面倒臭え女だな」
「悪かったわね、可愛くなくて」
「ああ、そうだな。しかも勝手に怪我して帰って来やがるし。お前、本当に俺の女だって自覚あんのかよ、あぁ?」
 体重をかけられてますます身動きが取れなくなる。
「しかも何で跡部のヤツが無事でお前が怪我してんだよ。訳分かんねえだろうが」
「え、向こうって跡部さんのことだったの?」
亜久津が当たり前だろうと言うように不審げな目を向けて来た。大きな両手がはだけたシャツの内側に滑り込む。反射的にびくんと背中が跳ねた。
「冗談じゃねえ。今度またお前に何かあったらタダじゃおかねえからな」
「ちょっ、仁! 分かってると思うけど、跡部さんに喧嘩吹っかけたりしちゃ駄目だからね? そんなの逆恨み――」
「俺に指図すんな、って言っただろうが」

 皮膚の薄いところを吸われて、一瞬だけ意識が薄れた。
 生温かい感触が腹部から胸へと這い上がった。シーツを握り締めて恥ずかしい声を堪える。懸命に目を開いて、身体の上にいる獣を睨みつけた。
「―――っ、仁」
「文句は受け付けねえな」
「やっ…」
 つうっと亜久津の指先が敏感な部分を探り当てた。
 頭の中で白い光がスパークする。声が自分のものではないように勝手に喉をついて出る。抑えられなかった。
「や、ああっ 仁、仁…!」
「――それでいい」
 ぽたぽたと涙をこぼしながら見上げると、そのひとは獣じみた凶暴な笑みを見せた。
(なにが)
 目で問いかけたのを感じたように、獣は笑みを深くする。

「―――ベッドの上で他の男の名前を呼ぶのは、マナー違反なんだよ」



 その声があんまり低く、甘く、頭の芯にねじ込むように暴力的だったから。

 今度から気が立っているときの亜久津にだけは気をつけようと、私は心に深く深く誓った。



 余談だけれど、そのとき亜久津がたくさんキスマークを作ってくれたせいで、それから一週間は女子寮でお風呂に入るのにとても苦労した。


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2007/08/16 up
2007/09/19 renewal
拍手お礼小品第二段。初エロ。
今考えるとお礼には拙かった気も……。
タイトルはheartとhurtの引っ掛けです。
前回拍手の二年後のお話。

作業BGM:
『GET FREE』song by 佐々木望(as亜久津仁)