空の向こう




 笑っていて欲しいと思うのは、嘘じゃないよ。



 初めて見つけたのは緑色の金網フェンスの向こう。
 氷帝ほどじゃないけど、山吹中にだってテニスの練習を観に来るファンはいるんだ。金網越しに聞こえる女の子のクスクス笑いや、小さな小さな声援が、俺は大好きで。だから中1でまだ球拾いをさせられていたあの頃から、いつかはあの子達の視線を独り占めするんだ……って心に決めていた。

 さんも、良くテニスコートの側に現れる女の子の一人だった。
 でも他の女の子みたいに、友達と一緒にお喋りはしない。いつも木の陰に隠れるみたいにもたれて、何となくさびしそうな顔をしていた。

 その頃には俺はもう、校内の女の子の名前は全部覚えていたから、彼女が隣りのクラスのさんだってことはとうに分かっていた。だけど声を掛けるのはためらった。
 目を見れば分かる。……あの子はひとが怖いんだ。

「なぁー、南、あの子また来てるな」
「そうみたいだな。……ん? 何だ、千石、まだ口説いてなかったのか? 珍しいな。お前かたっぱしからギャラリーに声掛けてる癖に」
「ん〜、ちょっとね。なぁ南、あの子と同じクラスなんだろ? クラスではどんな感じ?」
さんか……言っちゃ悪いけど、クラスじゃちょっと暗いかな。休み時間もいつも本読んでるか、どこか行ってるみたいだし。誰かと話しているのを見たことないんだよ」
「人間嫌い?」
「そんな感じかなぁ。ああ、でもその割には良くギャラリーに来てるな」
「テニスが、好きなのかな。そうだ! 南、あの子マネージャーに誘おう!」
「ええ、俺!? いやっ、そりゃ千石が行けよ」
「ダメだよ〜、俺じゃあサンが警戒しちゃう。なっ、南。その地味さが大事なんだよ」
「地味とか言うな!」

 結局その後コイントスに負けて、南が勧誘しに行ったんだよな。ゴメン、南。俺あのとき嘘つきコインを使ったんだ。
 さんは意外なほどすんなりコートに入ってきた。……あの時から俺達は仲間になったんだ。

 南は後で事情を聞いて知ったというけれど、きっとその前から何となく気付いていたと思う。肩を叩いただけで、さんがびくっと怯えてしまうこと。大声が苦手なこと。……男の人に近づかれるのが、何より怖かったことに。

 さんは、籠の中にいる小動物に似ていた。俺が可愛い可愛いと思って撫でようとしても、向こうからしたら俺は得体の知れない生き物にしか見えないんだ。無理やり接したらストレスで弱ってしまう。だから、ちゃんと信じてくれるまで待たなくちゃいけない。自分から籠の外に出てきてくれるまで。

 部活は男ばっかりだし、マネージャーの仕事自体だって楽じゃない。さんにとっては大変な事も沢山あったと思うけど、彼女は辞めなかった。
 少しずつ少しずつだけど、俺や南、他の先輩たちとも、普通に雑談できるようになっていった。俺は、そうやってさんが笑ってくれることが嬉しかったんだ。

 もちろん、それで壁が全て取り払われた訳じゃなかったけれど、ね。
 男性恐怖症なことをのぞけば、さんは真面目で優しかった。けど何でなんだろう。亜久津のことは初めから怖がっていなかった気がするのは。
 亜久津が初めてコートに来た日、さんはその手から煙草を奪い取って物凄い口喧嘩をした。いやぁ、あの時は俺も南も目を丸くしたね。だってあんなに人見知りの激しいさんが、選りによって亜久津に喧嘩を売るんだもん。
 怖いって気持ちより、コートを汚されたくないって気持ちの方が勝ったんだろうね。でもさん、気が付いているかい? あの時からもうキミは、亜久津のことを信用できる奴だってちゃんと見抜いていたんだよ。
 どんなに激しい口論になっても、亜久津はさんを殴らなかったし、さんは亜久津が本当にキレるような事は言わなかった。酷いな〜、俺と南はあんなに頑張ったのにさ。何で亜久津はそんな簡単に壁を乗り越えちゃうんだろう。

 それから何ヶ月も過ぎて、二人のいがみ合いは続いて――それでも何となく、さんと亜久津の間には、信頼みたいなものが出来ていた。二人はただの腐れ縁だって主張してたけど、そういうのこそ『特別な絆』って言うんだよ。全く分かってないなぁ。
 結局俺が思っていた通りになったじゃないか。
 ね? さん。今はちゃんと、心の底から笑えているよね?

 亜久津と付き合い始めてから、さんは少しだけ変わった。亜久津が触れる時の仕草。堪え切れない嬉しさに戸惑うように、伏せられた目。表情が柔らかくなって、何だかふわふわ甘い匂いが漂ってそうな感じがしてる。うん、見ているこっちまで幸せになっちゃいそうだよ、ホント。
 まぁ本音を言えば、少し寂しいし、ほんのちょっとだけ悔しいって気持ちもあるけどね。さんにそういう表情をさせるのは亜久津だけだし、何だか大事な妹を取られたみたいな気分。娘を嫁に出す父親も、こんな気分なのかな。



 いまさんは、裏庭のベンチでお弁当箱の包みを開いているところだ。
 亜久津の分と、自分の分。中身はここからじゃ見えないけれど、きっと綺麗に詰めてあるんだろうな。この季節だから、亜久津の好きな栗きんとんでも作ってあげたのかも知れない。
 こうやって屋上から裏庭を見下ろすのも、もう当たり前のことになってしまった。
 彼女がお弁当を作ってきた日は、亜久津は二人きりでお昼を食べたいらしい。何だか申し訳なさそうな顔をするさんを「どうぞどうぞ」って南と二人、快く送り出した。だって引き留めたりなんかしたら、後で亜久津が怖いからね。
 隣りで南が感慨深そうに呟いた。
「亜久津、何か嬉しそうだなー」
「あっ、南もそう思う? だよねぇ。おお、今日はあんなにくっ付いてるよ。急接近! ねぇ、あれはもうやっちゃったのかね? やっちゃったかな?」
「ぶっ……千石っ、そういう生々しい話するなって!」
 南が真っ赤になって怒鳴り、すぐにはっとして口をおさえた。幸い、声は向こうに聞こえていなかったみたいだ。
 亜久津とさんは、肩が触れ合うほど近い。ふいに亜久津の手が伸びて、さんの腰を側に引き寄せた。……うわあ、大胆。

「そういや、さん受験やめて山吹高校に進学するんだってな」
 思い出したような南の一声に、俺はびっくりして振り向いた。
「マジ!? だってさん、めちゃくちゃ頭いいんじゃ」
「まぁな。けどほら、さん元々受験には拘らないみたいだったし。それに、他の学校に行ったらなかなか会えなくなるじゃないか」
 誰に、とは言わなくても分かる。
 羨ましいな、と俺は素直に思った。それだけ真っ直ぐひとりの人を好きになれるさんが。それを正面から受け止めることが出来る亜久津が。
 南はすっかりメロンパンを食べ尽くすと、手に付いたパン屑をぱんぱんと叩き落とした。
「受験仲間が減ったのは惜しいけど、まぁさんが幸せならそれが一番だろう」
「……南、大人になったな」
「お前らに散々心配かけられたお陰でな」

 南はもう部長を引退して受験に専念している。さんも後ろ髪を引かれながらマネージャーを辞めて、今がある。
 錦織と東方の進路は聞いていないけど、大会前に較べたら明らかに部活には顔を出さなくなっている。俺だって――半年後にはもう、この中学にはいない。

 こういうの、くしの歯が欠けるように、って言うんだっけ?
 みんな一人ずつ自分の道を歩き始めて、いつかは別れを告げる日が来る。どんなに胸が痛んでも、笑ってさよならを言わなくちゃいけない日が。
(だけど――)
 俺は力なく笑って、ごろんとその場に仰向けになった。
「――おい、千石。制服汚れるぞ」
「いいって、分かってるー」
 頭上を雲が流れている。手を伸ばして、ぐっと拳を握り締めた。
 そう、時間は止まらない。どんなに願っても、祈っても、それが馬鹿なことだってことを俺達は知ってる。
 だけど時々思うんだ、本当に俺はなにか掴む事が出来るのか、って。
 全国大会まではただがむしゃらに走ってきた。目まぐるしい位に沢山の出来事があって、気が遠くなる位に遠くまで来た。次のステージは高校テニス、その目標に向かって走っていけばいいんだって、分かっている。
 カタチにならない不安。こんなの俺らしくない――って思うんだけど。

 そのときガチャリ、と屋上のドアが開いた。
「千石、何やってるの」
「え、さん!?」
 南の声に思わずがばっと飛び起きた。
 亜久津も一緒だ。さんはさっきのお弁当箱の包みを持っていて、一番上のタッパーを俺と南の前で開いた。中身はお手製、栗の甘露かんろ煮。
「母にたくさん持たされたの。南と千石にも分けようと思って取っておいたから、良かったら食べて」
「え、いいのか? 亜久津」
「……要らねぇなら要らねぇって言え」
「あ、いや要ります! 頂きますっ」
「仁はさっき食べたんだから控えてね」
 慌てて爪楊枝を突き刺す南を横目に、俺は何となく呆然としていた。さっきまであんなに楽しそうで、亜久津のことしか眼に入ってないって顔してたのに。……面倒がらずにわざわざ届けに来てくれたんだ。
「千石、背中埃になってない?」
 あまつさえ後ろに回って、ぱたぱたと埃を落とそうとする。それはまるで、俺の背中を押してくれているようにも思えて。
 じんわり温かいものが胸に広がっていくのが分かった。
さん。俺、さんと友達になれて本当に良かったって思うよ」
「え?」
「これからもずーっと友達でいて欲しいな。いい?」
 突然の言葉に、亜久津も南も目を丸くしている。
 さんはきょとんと瞬きして、それから、ふわりと微笑んだ。とても自然に。
「うん。ありがとう、千石。私も同じ気持ちだよ。これからも宜しくね」
「っ、千石てめぇ……!」
 亜久津が射殺すような眼で睨みつけてくる。
 誰も君から横取りしようなんて思っていないよ、って言おうとしたけど、逆効果っぽいので止めた。酷いなぁ。親友の立場くらい、譲ってくれたって良いだろう?



 こんな些細ささいな日々を、いつか愛おしく思い出す時が来るんだろうか。

 その時もキミや亜久津や南がいて、あの頃は楽しかったねって笑い合える、そう信じていいだろうか。
 これから道が分かれてしまっても、再び道が交わる日が来る。そう信じられるなら、俺は幾らでも前を向いて走っていける。



 さぁ、またスタートラインに立とう。
 真っ直ぐな道を前にして、ワクワクする気持ちを抑えながら位置につく。
 これから先は何が起きるか分からないレース。走るのは俺一人、ライバルも併走者も無し。だけど声援が聞こえる。遠くから、近くから。大丈夫、俺は俺自身の力を信じればいい。そう背中を押してくれる人達がいる。

 ゴールの先にあるのは白く眩しい世界か、失意の涙か。それは分からないけれど、俺はもう始まりの合図を待ち望んでる。

 手を伸ばした先の空に、今度は届きそうな予感がするんだ。


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2007/09/04 up
書きかけ放置していた物を完成させました。
千石は空気が読める人だと思っています。
一人称で書くととても楽しいキャラです。