七夕




 ちいさなペンダントひとつ残して、仁は留学していった。
 海の向こうの自由の国、アメリカへ。



 いつものように登校したら昇降口の前が人だかりになっていた。皆なぜか手に色紙を持っている。
 混雑を避けて隅の方を通り過ぎようとすると、ポンと肩を叩かれる。
「やぁ、さん♪ 今日もいい天気だね」
「千石、お早う。……これは何の騒ぎ?」
「あれっ、さん忘れてない? 明日は七月七日! 七夕だよ」
 そう言えば今朝のニュースでそんな事を言っていた気がする。なるほど、皆が持っていたのは短冊だったのだ。人垣の向こうにちらりと緑の笹の葉が見えた。
「僕もさっき書いてきたところなんだ〜。早くしないと短冊が無くなっちゃうからね」
「そんなに人気なんだ」
「そりゃ、うちの高校の有名イベントの一つだし。ジンクスだからって馬鹿にしちゃいけないよ? 願いが叶った子だって沢山いるんだから」
「へぇ……」
 そういうものなのか。千石の占い好きは知っていたけれど、基本的に現実主義のはときどき話に付いていけなくなる。それにこんなに沢山の生徒がまじめに短冊を書いているなんて、その事実の方がちょっとした驚きだった。
「ちなみに千石は……って、分かった。彼女が出来ますようにって書いたでしょ」
「はは、大正解。さんも立候補してくれる?」
「謹んでお断りします」
「まぁ、そうだろうね。さんは亜久津一筋だもんなぁ〜。あーあ、亜久津が羨ましいぜ」
 そうぼやくと、千石は急にパチンと指を鳴らしてみせた。
「そうだ、さんも恋の願い事してみれば? 亜久津が早く帰って来ますようにって」
「えー? でも帰国は来年になってからって決まってるよ」
「じゃあ亜久津が浮気しませんようにってのは」
「まるっきり信用してないみたいじゃない。ダメダメそんなの」
「そうかぁ。何がいいかな」
 千石は真剣に考え込んでいる。ラッキー千石はおまじないや占いにも手を抜かない男なのだ。
 は七夕の短冊を書いたのなんて小学生の時くらいだ。まぁ今の生活に困っている訳でもないし、と苦笑する。
「ま、気が向いたら書いてみるよ」
「そう? 放課後に笹を立てることになっているから、手が届くうちに短冊を付けた方がいいよ」
「了解。じゃあまた部活の時にね」

 はペンをくるりと回した。
 時計の針はもうすぐ12時を指そうとしていた。教室の空気がどことなくソワソワしている。きっとお昼休みに短冊を掛けに行こうという生徒が多いのだろう。
 は別のことで上の空だった。
(お昼食べたら、仁に電話しなきゃ)
 亜久津の留学先はLAだ。この時間なら向こうは時差でちょうど夜7時頃で、電話に出るのには都合がいい。と言っても、気紛れな亜久津は電話に出ないことも多かったけれど。
(最近、電話繋がらないなぁ)
 『じゃあ亜久津が浮気しませんようにって』――千石の言葉が蘇って、無意識にかぶりを振る。縁起でもない。今日は七夕なんだし(?)、きっと上手く繋がるに決まっている。

――玉砕だった。
 15コール目を虚しく聞いたところで諦めて電話を切った。はぁー、と非常階段の手すりにもたれて溜め息をつく。ついでに愚痴が零れた。
「せっかく早食いして来たのにな……」
 制服の内側からペンダントを引っ張り出して、握り締める。
 青い石をくわえた銀の小鳥。宝石に詳しい先輩に尋ねたら、石はアクアマリンの本物だろうとのことだった。亜久津と言えば亜久津らしいけれど、そんな高価なものを貰うなんてと申し訳なく思った。
――気持ちがこもってる証拠よ。素直に受け取りなさい。
 そうアドバイスされて、本当に嬉しかったのだ。あれ以来、このペンダントがの小さな支えになっている。
 かんかんと階段を上ってくる足音がして、慌ててペンダントを元に戻す。と、聞きなれた声が耳に入った。
「あっれー? さんじゃん、ラッキー♪」
「千石、今日は良く会うね。お昼買ってきたところ?」
「うんうん。ほら、人気のから揚げパン。俺ってやっぱラッキーだよね♪」
 千石はニコニコ笑いながらパンの袋を振ってみせた。
さんは何やってるの? あ、ゴメン。もしかして電話中だった?」
「ううん、いいの。ちょっと繋がらないみたいだから」
「またか。亜久津はもう何やってんだか」
 千石はそう言いながら、ひょいひょいとの隣りに来た。パンの袋を千切りながら、
「そう言えば短冊書いた?」
「? ううん、まだだけど」
「やっぱり書いた方がいいんじゃないかな? ホラ、困った時の神頼みって言うじゃん。さん、そうじゃなくても最近ちょっと元気ないみたいだからさ」
 何気なく言って、から揚げをぱくりと食べた。
(ああ、やっぱりバレてたのか)
 軽そうな見かけに反して、千石は案外と勘が鋭い。きっと今まではあえて黙っていたのだろう。それを口に出したと言う事は、が危うくなってきたように見えたということか。
 思わず言い訳めいた口調になった。
「別に、まだ平気だよ」
「『まだ』、ねぇ……。さん、無理は体に良くないよ。自分の心に素直になった方がイインダヨ」
 どこに隠し持っていたのか、はい、と水色の短冊が差し出される。思わず受け取ってしまってから千石を見ると、千石はいたずらが上手くいった子供のような顔をして笑った。

 は奇跡を信じない。起きる事は起こるべくして起こるのだ。
 でもその夜に携帯電話が鳴った時は、不覚にもちょっとだけ神さまに感謝しそうになってしまった。
?』
「仁、どうしたの? こんな時間に電話なんて」
『いや……別に。そっち、何ともないか』
 亜久津の口調が歯切れ悪い。千石だ、とぴんと来た。たぶんが寂しがっているから電話してやれとか、気を回して伝えてくれたに違いない。
「うん、大丈夫。……仁は?」
『ああ、無事だ。授業もまぁついていけてるから心配すんな。……っ』
 ガン、と電話越しに何かぶつけたような音がする。思わず携帯を持つ手に力がこもった。
「どうしたの?」
『何でもねぇ、ただの火傷だ』
「火傷? ……ちょっと待って、仁。煙草は止めたんだよね。何で火傷なんてするの」
『チッ、バイトでとちっただけだ』
「バイト?」
 沈黙が落ちた。電話越しに亜久津の「しまった」という空気が伝わってくる。更にが黙っていると、観念したような溜め息が聞こえて来た。
『金、貯めてんだよ』
「……仁、そんなにお金困ってるの?」
『学費じゃねぇ。もうすぐ夏だから、……休みに入ったら一旦日本に戻る気でいる。まだちゃんと稼げるか分からねぇけどな』
 稼いでから連絡するつもりだった、と低い声が零れる。
 亜久津が帰ってくる。また会える。
 は息を吸い込んだ。うっかりしていた、自分が涙もろいのを忘れていた。たぶん気配で向こうも分かったと思うけれど、はあえて明るい声になるよう心がけた。
 そう無理は良くない。でも正直になり過ぎるのは似合わないから、ほんの少しの虚勢は必要なんだと思う。
「仁。今日が七夕だって覚えてる? 私ね、仁に逢いたい、って短冊に書いたの。でもすぐに叶っちゃいそうだね」
『……フン』
「……無理は、しないでね」
『あぁ』
 話しながら片手でからからと窓を開いた。都会の夜は明るすぎて、夜空に星は見えない。けれど見えないだけで、白い川になって流れる星はきっとそこにある。その両岸に隔てられたふたつの星も。
 携帯電話から流れる途切れがちな低い声に耳を澄ませながら、は小さく微笑んだ。


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2007/07/12 up
遅筆がたたって旬を逃しました。

彦星と織姫は雨で天の川を渡る際、白鳥に橋渡しして貰います。
『卒業』では亜久津が小鳥のペンダント?と自分で書いてて迷いがあったんですが
この話を書いたら割としっくり来て嬉しかったです。