仮面




「――きみ、さんのことが好きでしょ」
 その言葉は妙に冷たく鋭かった。



 眼下にフェンスの影が長く伸びている。
 時刻は午後五時過ぎ。俺は暗くなり始めたテニスコートを、教室のベランダからぼうっと眺めていた。
 特に目的があった訳じゃねぇ。屋上は日差しで暑いから移動してきた、ただそれだけだ。ここならテニス部の様子が見れて退屈もしねぇからな。

 フェンス際に一人だけユニフォームじゃない奴がいる。――マネージャーのだ。アイツは大会が終わったら受験に専念すると思ったが、どうやら違ったらしい。
 もともと外部受験せずに付属の山吹高校へ進学する気だったのか、それともまだテニス部に固執する理由が他にあるのか。
 ちょうど練習試合が終わったらしく、千石がコートから戻って来てに何か話しかける。ここからでは会話は聞き取れないが、楽しそうにしてやがる。
(……チッ。俺には関係ねぇ)
 苛々を鎮めるように置き去りにしてあった煙草に手を伸ばす。――と、マルボロの箱を誰かが横から掠め取った。

「やぁ亜久津君、珍しいね。こんな時間まで残っているなんて」
 ソイツは何気ない風を装って親しげに話しかけてきた。
 誰かと思えば隣りのクラスの委員長じゃねーか。温厚そうな面してやがるが、とんでもねぇ食わせ物だ。周りから信頼されてるのをいい事に、影で頻繁に女を引っ掛けて回っているのを俺は知っている。
「テメェ……何しやがる。委員長面してこの俺に指図する気かよ」
「まさか。でも、こんな所で喫煙していたら流石に先生に見つかるよ。今日はお味方の伴田先生も出張中で留守だし、止めておいた方がいいと思うけど」
「ウゼェ。黙ってろ」
 委員長は困ったように肩をすくめ、大人しくマルボロを返してきた。ついでに俺のすぐ横に、缶コーヒーのブラックを置く。
 何のつもりだと見上げると、委員長はまた嘘っぽいヘラヘラした笑顔を見せた。
「まぁ、邪魔をしたお詫びかな。そろそろ僕らも卒業だし、一度話してみたいと思っていてね。出来れば怒らないで聞いて欲しいんだけど」
「俺はテメェと話すことなんざ無ぇ」
「まぁまぁ。……しかし、亜久津君も一年前に較べるとずいぶん寛容になったね。これまで全然話をしたことなかったけど、去年僕やさんと同じクラスだったの、覚えてるかい?」
 当たり前だ。
 去年の今頃まで、コイツは体育祭実行委員やら生徒会長やらを歴任していて、手の回らない所を全てに丸投げしていたのだ。それでいて、の頑張りは全部コイツの手柄になっていた。
 は一言も文句を言わなかったが、コイツのそういうしたたかな一面が俺はその頃から気に入らなかった。
 俺は缶コーヒーのプルタブを片手で押し開け、喉に流し込んだ。不味い。
「ああそう言えば、あそこに立っているのさんだよね。まだテニス部続けてるんだ? いやー、懐かしいなぁ」
「……」
「前は亜久津君とさんって近付く度に口論してたけど、近頃は止めたのかい。隣りのクラスが急に静かになっちゃって、却って不気味なんだけどね」
「……別に、どうもしねぇ」
「じゃあ今は、さんの帰りを待っている訳じゃないんだね。何だ。だったら僕にもまだチャンスがあるってことかな」
 かこん、と缶が手から滑り落ちて転がっていった。言葉の意味を理解するのと同時に手が出た。委員長の襟首を締め上げる。
「テメェ、喧嘩売ってんのか!?」
「離してくれないかな? 僕は見ての通り非力だし、サンドバックの代わりになるのは御免被りたいんだよね」
「だったらその口閉じやがれ。気分悪いぜ」
「そうしたいのは山々なんだけど、僕も中途半端なことされると気分が悪いんだよね」
 委員長は平然としていた。その横っ面を張り飛ばそうとした直前、まるで見越していたかのようなタイミングで、委員長が断言した。
「――きみ、さんのことが好きでしょ」
 その言葉は妙に冷たく鋭かった。

「は……、何言ってやがる」
 顔が引きつって笑い飛ばせなかった。殴る気も失せる。
 委員長はいっそ平淡と思えるほど静かな口調で続けた。
さんのことを見てる男子は多いからね。大体の所は予想がつくんだ」
「テメェもそのクチかよ」
 委員長は答える代わりに薄く笑った。それは光の加減のせいか、酷く皮肉っぽい笑い方に見えた。
「僕はいいんだよ。さんと関わる機会ならこれから幾らでもあるからね。彼女は優しいから、僕が行事の役員を頼めば嫌とは言えない」
「はん、そうやって上手いこと近づこうって腹かよ。その割にはこれまで効果が無えみてぇだけどな」
「そうでもないよ、試してみるかい?」
 委員長はそう言うなり、手すりを掴んで身を乗り出した。
「おーい、さん!」
(ばっ……!)
 俺はぎょっとして手を離した。
 が振り返る。委員長を見て軽く手を挙げたが、すぐ横に俺がいるのに気付くと、遠目にも分かるくらいに思い切り目を見開いた。他の部員達に何か早口に叫んで、そのまま校舎の方へ突っ走ってくる。

委員長はその反応を見て、至極満足げにうんうんと頷いていた。
「まぁ、ざっとこんなもんだよね。とりあえず手を振ろうとはしてくれたみたいだ」
「てめ、俺がいるのまでバレてんだろうが……!」
「別にいいじゃないか。ていうか、本当はそっちが目的だしね。さてどうする? このままだとさん、もうすぐここに来ると思うけど。いつもみたいに、見つからないよう急いで帰るかい?」
 絶句した。コイツ、前から俺が放課後ここで時間を潰していることを知ってやがったのか。
 委員長はこれで目的は達したというように、手すりからひょいと降りるとそのまま自分のクラスへ戻ろうとする。ふと思い出したように振り返ると、この俺をびしりと指差して、強い声で言った。
「亜久津、逃げるなよ」
 俺はかっとして落とした缶を掴むと、中身をぶちまけてやった。委員長は予想していたらしく、軽くコーヒーの飛沫しぶきを避けてみせる。そうして笑いながら走って逃げていった。
(……あンの野郎……)
 逃げるなと言っておきながらテメェで逃げてんじゃねーか。
 しゃくに障るが、逃げると言われてはここを動く訳にもいかねぇ。
 まんじりとしているとばたばた足音が近付いて来た。すぐ側の出窓が勢い良く開いて、が転がるようにベランダに飛び出した。

「亜久津……! あの、委員長は!?」
「今どっか行っちまった」
「そ、そう」
 は息を切らしている。コイツが部活を放り出して来るなんて珍しい。よほど焦って来たらしい。
「ンだよ。お前、何しに来た?」
「いや……さっき、亜久津が委員長と一緒にいるのが見えたから心配になって……」
「どういう心配だよ」
 大方、俺がカツアゲでもしてると想像してたんだろうが。
 は困ったように口をもごもごしていた。酷い挙動不審だ。
「だって委員長と一緒にいるなんて珍しいじゃない。何話してたの?」
「別に何も話してねぇ」
「本当に?」
 カチンと来た。の肩を掴んで座り込む。
 俺に引っ張られる形でその場に膝をついたは、顔の近さにますますテンパっていた。
「やけに拘るな。お前、あいつが好きなのか?」
「んなぁっ……! そんな訳ないじゃん! 何言ってるの」
 ぶんぶんと両手を振って全力否定。……どうやら本当に違うらしいな。コイツはそういう嘘がつけるほど器用じゃねぇ。
「さっきから何なんだよ、テメェといい委員長といい」
 ふと、は何か弱みを握られているのかも知れないという疑問が浮かぶ。コイツの口ぶりからすると、それは俺に知られてはいけない事なんだろうと思えてきた。
「亜久津、肩離して」
「テメェが正直に話したらな。――なぁお前、俺に隠してること無ぇ?」
「!」
「図星かよ。委員長には話したんだろ、それ。おおかた好きな奴でもバレたんじゃねーの」
 はすぅっと息を吸い込み、呼吸をとめて黙り込んだ。
 当てずっぽうに言っただけだが、まぁ委員長の話の流れからすればこんな所だろうな。……奴は告白する前から振られたって訳だ。はっ、そりゃあ俺に当り散らしたくもなるだろうよ。
「……別に、話した訳じゃないけど……」
「同じことだろうが。……もういい。テメェは部活戻れよ。あいつら待ってんだろ」
 顎でテニスコートを指す。何だか無性に苛々して来た。
 耐え難くなって立ち上がろうとすると、弱い力で引き留められる。が、俺の袖口をそっと掴んでいた。
「何だよ、」
 何故だか振り払えなかった。ここで俺を引き留める訳が分からない。――俺には知られたくないこと。――委員長にバラされたくなかったこと。
 けど俺に片思いの相手がバレたところで、には何の被害もない……はずだ。……いや。
(待て、)
 まさか、とある可能性に思い至って愕然とした。オセロで一気に形勢逆転した時のように、自分の中にあった疑惑がことごとく引っくり返っていく。
「あのね、さっきの質問なんだけど。私に好きな人がいるかどうかっていう話」
 は耳まで真っ赤になっている。
 ああ、そうか、だから。
 ここに来てようやくすとんと納得がいった。どうしてがこんなに慌てて校舎に戻ってきたのか、あの委員長がなぜ俺に当てこするような事を言い出したのか。
「私ね、亜久津のことがす」
「待て」
 俺は続きを言おうとするの唇に、指を当てて押し留めた。
 そのまま指で下唇を押し下げて、キスで口を塞ぐ。
 間髪入れずコートから怒号のような歓声のような声が上がる。(アイツらやっぱり見てやがったのか)
「〜〜〜〜!!」
 たっぷり三十秒してから顔を離すと、はこれ以上ないってくらいに真っ赤になっていた。

「あ、あああ……」
「あ?」
「亜久津の馬鹿ぁ!!」

涙まじりのの絶叫が、夕暮れの空に吸い込まれていった。


←back

2007/07/12 up
オリキャラ出ずっぱりで申し訳ない夢。
亜久津は女から告白させるなんてとか思ってるといいです。