サボタージュ

 がらんとした教室で、アイツはひとり窓の外を眺めていた。
 俺が入ってきたことにも気付かず、姿勢を崩して頬杖をついている。アイツの優等生らしくもない姿なんて初めて見た。妙にプライベートな場面に出くわしたような気がして、一瞬どきりとした。
、てめぇもサボりかよ)
 そう声を掛け損ねたのは、アイツが今誰を見ているのか――なんて馬鹿なことを考えたせいだった。

「貧血だ? 良く言うぜ。殺しても死なねぇような奴が」
「ひとをゴキブリか何かみたいに言わないでよ……」
「そこまで言ってねぇ」
 だが具合が悪いのは本当らしい。一応は俺に言い返してくるものの、声や態度にいつものキレがなかった。ぐったりとした様子で窓の外を見ている。
 そんな調子なら保健室で休んだ方がいいんじゃないかと思ったが、イチイチんなお節介を焼いてやるほど俺は優しくない。
 紙風船を割るような音がした。
 校庭をジャージ姿の5人組が駆けていく。今日の体育は……短距離走か。このクソ暑い中、馬鹿みてえにきゃあきゃあと騒いでやがる。
 がぽつんと言った。
「今日は隣りのクラスと混合でタイムを測るんだって。千石、目立ちたくてうきうきしてるって感じね」
 オレンジ色の目立つ頭で、千石はすぐに見分けがついた。
「……かもな」
「こういう勝負になると、がぜん強いのよね。結構いいタイム出せるかも知れない」
 俺は顔を上げて、の横顔をまじまじと見た。
(――千石か?)
 もしかしたら、こいつが体調不良をおして教室に居残っている理由は。
 感情の淵がざわついた。煙草の火を揉み消すように、浮かびかけた何かを無理やり押し戻す。
 オレンジ色の頭がジャージ集団の最前列に並んだ。
 短距離走は5人一組でタイムを測っていた。空砲の音と同時、5人は地面を蹴って走り出す。
 千石じゃあない奴が一番手に来た。速い。引き離されかけてやっと本気が出たのか、中盤から千石が追い上げ始めた。二人がほぼ同時にゴールを切る。
「追い抜いた?」
 の視力ではどちらが一着が分からなかったらしい。俺は即答した。
「いや無理だろ。ダセェな千石」
「ダサいとか言わないの、一生懸命走ってるんだから」
 は庇うように言う。俺を責める響きはなかったが、胸の奥に小石が落ちたような感じがした。
 一位は見かけない顔だと思っていたら、隣りのクラスのサッカー部員だという。は夏休み中も部活に顔を出していたから、運動部の顔見知りが多いらしい。あまり面白い気はしなかった。
 千石が結果を聞き、がくっと落ち込んだポーズを取った。記録係の女が、ガキにやるように軽く肩を叩いて励ましてやっている。
 クスリとが笑う気配がした。
「千石、がっかりしちゃって。ちょっと可哀想かも」
「つーか、アイツは構われたいだけだろ」
 つい感情的に言い返したが、は曖昧に頷いただけだった。目線はいまだ千石の方へ向けたまま。
 その途端、積み上がった小石の山が崩れた気がした。
、」
 気が付いたら目の前にあるの髪に触っていた。指の間をさらさらした感触が滑っていく。
「ん?」
「……何でもねー」
「?? どうしたの、亜久津。今日なんか大人しいね」
 振り返るな。俺はそう念じながら、極力平静な声を吐いた。
「別に」
「寝たいなら保健室付いてくから。具合が悪いのなら言ってよ?」
(寝た……!)
 一瞬息が詰まった。前半だけなら全く別の意味に取れる言葉。顔が火照ってくるのを必死で堪える。
「……そんなんじゃねーって。お前も少しは言葉考えろよな」
 は振り返って『?』みたいな顔をしていた。分かってねぇ、コイツ絶対分かってねぇ。
 は感情の読めない目でじーっと俺の顔を見た後、「取り扱い説明書が欲しいな」と訳の分からない事を言い始めた。
「亜久津ってさ、コミュニケーションの取り方が分かりにくいんだよね。千石は雰囲気を読んで上手く合わせてるけど、普通の子にはそういうの難しいんだよ。だから、もう少しコツが分かればいいなぁと思って」
 ……何だ。ややこしい表現はともかく、要は俺と話がしたいって意味か?
 臆面もなくンなこと口に出すんじゃねぇ、だいたい俺はプレイステーションでもアイポッドでもねぇんだから取り扱い説明書は取り消せ。
 だがそう言う前にタイミング良く空砲が鳴ったせいで、はさっと窓に向き直っていた。
 千石は二回目を本気で走っていた。ギリギリというところでさっきの1位をかわして前へ出る。胸のすくような勝利だった。
「今度は勝ったね」
「そうだな」
 千石はクラスメイトに囲まれてやんやの喝采を受けている。馬鹿みたいな騒ぎだが、ああいうのは割と嫌いじゃねぇ。ちらっと隣りを見ると、も自分が勝ったみたいににんまりとしていた。
「顔にやけてんぞ」
「ん? 別にいいじゃん。見てるの楽しいんだから」
「お前、千石が好きなんじゃねーの」
 つい本音が出た。だがは屈託なく答える。
「うん、結構好き」
(こいつ……)
 思わず溜め息が漏れた。幾ら鈍感だとは言え、そういう「好き」が聞きたくて尋ねた訳じゃないくらい分かる筈だってのに。
 けどコイツがそういう態度なら俺にも考えがある。俺はちょっと顔を貸せ、との襟首を掴んだ。
 しぶしぶ振り向いた瞬間、顔を近づける。
 唇を、重ねる。
 は目をまん丸にして硬直していた。
 時間にして二、三秒といったところか――例の空砲の音に驚いて、がぱっと離れる。チッ、いい所だってのに変な邪魔が入った。
 は呆然としていた。暫くして、キスされた、ということにようやく気付いたらしい。さーっと軽蔑しきった目に変わった。
「サイテー……。こういうこと、いつもしてる訳?」
「さぁな。――滅多しねーよ。お前みたいなトロい奴は珍しいから」
 笑いながら言ってやった。はマジで頭に来たらしく、ハンカチで思いっきり口を拭って前へ向き直った。シカトするつもりらしい。
 少しからかい過ぎたかと思ったが、はまだ目の前にいて、他には何もすることが無かった。開け放した窓から風が入って来て、のうなじの髪が少しだけ揺れていた。
 出来心でもう一度触ってみたが、は少しびくりとしただけで動かなかった。指先に絡めて静かに梳いてみる。
 はそれでも振り払おうとはしなかった。
 諦めたのか、意地でも動かないつもりか、それとも。
(――それとも)
 唇をぺろりと舐めて、俺はくくく……と笑いを押し殺した。いい予感がした。

 この日常が少しだけ面白くなるような、そんな予感が。


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2007/07/12 up
ヒロインverから派生した話。
中学生はえろい方向に想像力豊かです。そんな話。

見比べて時間軸が合うように画策しました。