サボタージュ

[その男、凶暴につき]


 空砲の音が弾ける。

 横一列に並んだ5人が一斉に走り出した。
 スタートダッシュで左端の子が一気に前へ出て、ぐんぐん他の4人を突き放していく。その隣り、オレンジ色の頭の千石は2番手。千石も負けていなくて、ゴールまで後半分というところでじわじわと差を詰め始めた。
 手が届くほど距離が縮まる。歓声が上がる。
 2人はほぼ同時にゴールを駆け抜けていった。
「追い抜いた?」
「いや無理だろ。ダセェな千石」
「ダサいとか言わないの、一生懸命走ってるんだから」
 亜久津はフンと鼻を鳴らした。亜久津こそ走ってくればいいのに。折角足が速いのに勿体無い、そう思ったが口には出さなかった。
 教室に残ったのは私と亜久津だけだった。
 正確には私が貧血で休んでいるところに、亜久津が大遅刻で登校してきたのだ。二人とも窓際の席なので、しぜんと体育の授業を観戦するような形になる。
 珍しく亜久津がぼそっと尋ねてきた。
「今の一位、誰だ?」
「うーん、多分だけど、隣りのクラスの子じゃないかな。ほら、サッカー部の副キャプテンの……。サッカー部は足の速い子多いね」
「……ふーん」
「夏休み中も結構走り込みしてたから、良く見かけたよ」
 千石が自分のタイムを聞きに、記録係の女子に近づいていく。
 ガクッと膝に手をついた。やっぱり2位だったらしい。大げさな落胆ぶりに、ついクスリと笑みが漏れた。
「千石、がっかりしちゃって。ちょっと可哀想かも」
「つーか、アイツは構われたいだけだろ」
 それは大いにありうるので、私は首を小さく縦に振った。
 じっさい記録係の女の子がポンポンと千石の肩を叩いてあやすようにしている。ああ、あの手のタッチは私もよく部活中にやっていたな。主に後輩の子が頑張った時だったけど。
、」
 すいっと、うなじ辺りの髪を掬い上げられた。
「ん?」
「……何でもねー」
「?? どうしたの、亜久津。今日なんか大人しいね」
「別に」
「寝たいなら保健室付いてくから。具合が悪いのなら言ってよ?」
「っ! ……そんなんじゃねーって。お前も少しは言葉考えろよな」
 頭の中を疑問符でいっぱいにして振り向くと、亜久津はあからさまに目を逸らした。色白の額に若干赤みが差している。
 やっぱり熱がありそうだな。しかし、これ以上重ねて注意すると怒り出すのが明らかなので、どう言うべきか悩みどころだ。まったく扱いにくいことこの上ないと思う。
「……取り扱い説明書が欲しいな」
「あ?」
「亜久津ってさ、コミュニケーションの取り方が分かりにくいんだよね。千石は雰囲気を読んで上手く合わせてるけど、普通の子にはそういうの難しいんだよ。だから、もう少しコツが分かればいいなぁと思って」
「俺と話すコツ?」
「そう」
 亜久津は押し黙った。
 またかんに障ったのかと思ったけど、眉をひそめたその表情は、何だか戸惑っているように見えた。亜久津が動揺したところなんて滅多に見られないので、ちょっと感慨深いものがある。いやそういう問題じゃないか。
 その時わぁっと大きな歓声が上がった。
 思わず校庭に目を戻すと、二度目のスタートが切られたところだった。千石がまた1位を競ってデッドヒートを繰り広げている。2人の速さはほぼ互角。だがゴールの瀬戸際で千石が一歩前へ出た。
「今度は勝ったね」
「そうだな」
 亜久津はもういつも通りの平淡な態度に戻っている。
 記録係や、先にゴールしていたクラスメイト達が、千石の背中を遠慮なくばしばし叩いてねぎらっている。どうやら隣りのクラスとちょっとした対抗戦のような雰囲気になっているらしい。
 馬鹿馬鹿しくも平和な光景に、貧血で滅入っていた気持ちが少し和んできた。
「顔にやけてんぞ」
「ん? 別にいいじゃん。見てるの楽しいんだから」
「お前、千石が好きなんじゃねーの」
「うん、結構好き」
 勿論それは友達として、という意味。
 亜久津が溜め息をつく。意趣返しのつもりだったのだろうけど、その手のからかいは私には通用しない。幸運なことに、亜久津の方も私の取り扱い説明書は持ってないらしい。
「……お前、ちょっと顔貸せ」
「は、何で?」
「いいから貸せ」
 ぐいと襟首を掴まれていやいや振り向いたら、その途端に亜久津の顔がどアップになった。
 柔らかい。
 え、なにこれ。もしかしてキス……してる? 私が、亜久津と?
 ぱぁんという空砲の音に驚いて顔を離した。
 亜久津は平然としていた。遅まきながら何をされたのかやっと飲み込めてくると、上昇しかけていた気分が一気に下降曲線を描いた。
「サイテー……。こういうこと、いつもしてる訳?」
「さぁな」
 亜久津はクククと悪魔みたいな憎たらしい笑い声を立てると、嫌味ったらしく言い直した。
「滅多しねーよ。お前みたいなトロい奴は珍しいから」
「ああそう、そうですか」
 私はポケットからハンカチを取り出してごしごしと力いっぱい口を拭うと、前に向き直った。
 体育の授業はまだ続いている。
 歓声が徐々に大きくなり、途切れて、次の空砲の音が弾ける。
 早く授業が終わればいいのに。
 うなじがくすぐったい。亜久津がまた髪を弄っているらしい。私は徹底無視を決め込んで目を閉じた。
 どうせ、すぐに飽きて止めるに決まってる。
 黙って受け流している理由なんてそれだけ。他には何も無い。
 亜久津に触られるのが嫌じゃないなんて――そんなこと絶対に認めない。気付かれたくない。


だけど微かな忍び笑いが聞こえて、心の中が静かにかき乱されていく。


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2007/07/12 up
「サボタージュする」≒「サボる」
サボタージュという言葉が気に入って書いた話。
何か語感が可愛いじゃないですか。コーンポタージュみたいで。

珍しく亜久津がちゃんとエロくなってくれました。
もっと雰囲気的に色っぽい夢が書きたいです。精進します。