Rainy



〔あのとき雨が降らなかったら
 私たちはきっと居場所を知らない子供のままで、〕


 私はテニス部の部室でひとり泣きじゃくっていた。涙が後から後から溢れて止まらない。まだ昼前で授業がたくさん残っていたけれど、教室に戻る気には到底なれなかった。

――そもそも一限の先生があんな昔話をするからいけないんだ。

 うっかり今の自分と重ね合わせてしまって、感情のセーブがつかなくなった。授業が終わるなり教室を飛び出して、雨の中誰にも見つからないよう部室棟まで走った。それからずっとここにいる。
 パツパツと屋根のトタン板が無数の雨音を奏でる。ひどく静かだった。

――この雨ならどこの部活も、昼休みの練習で部室棟を使わない。

 放課後までは誰にも会わないでいられる。私はそう安心して、部室に篭もっていたのだけれど。




 唐突にがちゃりと部室のドアが鳴った。
「ああ? 誰だ、そこにいるヤツは」
 はっと顔を上げる。亜久津だった。
 部室荒らしか何かだと思ったのだろう、亜久津は荒々しく部室に踏み込んでくると、私の顔を見てぎょっとしたように目を見開いた。
 泣き顔を晒しているのに気付いて慌てて下を向く。

「な…、…お前、」

 予期せぬ遭遇に、私は混乱した。なぜ亜久津が? きっと授業をサボりに来たに決まっている。どうしよう、出て行った方がいいだろうか。でも入り口には亜久津がいるし、今更出て行ったところで他に隠れる場所もない。
 お互いに硬直したまま数十秒が過ぎ、亜久津が動いた。私から少し離れたところに来て、どすんと腰を下ろす。まるで俺が出て行ったんじゃ負けだと言わんばかり。
 また沈黙が降りた。ノイズのような細かい雨音が余白を埋めるようにして流れる。

「なぁ」

 やがて、亜久津が口を開いた。

「……誰にやられた」
「え?」
「誰にやられたんだって訊いてんだよ」

 どうやら亜久津は、私が苛められたか何かだと思っているらしい。
 選りにも選って亜久津がそんな事を気にするなんて予想もしていなかったので、私は思わず小さく吹き出した。

「チッ、何笑ってやがる」
「あ、ううん、ごめん。亜久津が心配してくれるなんて思わなかったからさ」
「心配なんかしてねぇって」
「――母が再婚するの」

 ぴたり、亜久津の動きが止まった。
 私は涙が零れないよう、天井を見上げた。ざぁざぁと雨が屋根にぶつかって無数の音を奏でている。

「うち、離婚して母子家庭なんだ。母ひとり子ひとりってヤツ。…昨夜知らない男の人を連れてきてさ、いずれ再婚したいって。あんまり突然だからびっくりしちゃった」
「……父親は生きてんのか」
「生きてるよ。結構ちゃらんぽらんな人だけどね」

 売れない画家のくせに酒好きの遊び好き。母が愛想を尽かした時も、正直仕方がないと思ったものだ。
 父のことは嫌いではなかった。ただ、一緒に暮らしていくのがとても大変な人ではあったと思う。夜半過ぎに帰って来て、心配し過ぎてヒステリーになった母に叱られることなんてザラだった。

「でも母はまだ父が好きなんだろうって思っていたから、結構ショックだった」
「フン」

 亜久津はポケットから煙草を一本出して、ライターで火を点けた。私もそれを止める気にはならなかった。
 何だか静かな雰囲気だった。雨のせいかも知れない。世界にふたりだけ取り残されたような、そんな錯覚に陥る。
 ふと視線を感じて振り向くと、亜久津は私の手に目を向けていた。手の甲には火傷の痕がうっすら残っている。

「それも親父にやられたのか」
「ああ、火傷のこと? これは自分で、灰皿に置いてあった吸いかけにうっかり触って火傷したの。何せ小さかったから、触ったら熱いって分からなかったんだよね」
「馬鹿だな」
「……そうだね、馬鹿だったかも」
「手ぇ見せろよ」

 亜久津は床で煙草を揉み消すと、私の手を掴んで持ち上げた。
 亜久津の手は硬くて、手というよりグローブか何かのようだった。喧嘩慣れした彼らしく、あちこちに無数の小さな傷が残っている。そんな亜久津が小さな火傷の痕ひとつに拘るなんて何だか可笑しかった。
 何となく亜久津の顔を見たら目が合った。色素の薄い虹彩。目つきは悪いけどこの琥珀こはく色の瞳はきれいだ、と思った。
 ぐっと何か堪えるように目が細められる。

「あく、」

 次の瞬間、視界がぶれた。
 どん、と肩にやわらかい衝撃を受ける。

「亜久津…?」

 抱きすくめられたのだ、と気付くまでずいぶんかかった。
 ヘアスプレーと煙草と、男の人の匂いがした。頬に、がちがちに固めた亜久津の髪が触れている。密着した首筋や胸の生温かさに一気に頭に血がのぼる。
 控えめに身じろぎすると、背中に腕が回されてしっかりと引き寄せられた。亜久津は体温低いな、と頭のどこかで場違いなことを思ったのは、あまりにも混乱していたせいかも知れない。

「なぁ」

 少ししてから、くぐもった声が耳元でした。ゾクリと背筋が粟立つ。

「逃げなくていいの?」

 低い声は掠れていて、ほんの僅かな彼の迷いと気後れを、私に伝えた。
 私は頭の中で三つ数える位の間、考えて、答える代わりに彼の背中に自分の腕を回した。

 聞こえるのは二人分の微かな呼吸と、覆い隠すような雨の音。
 それが私たちの始まりの日。


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2007/07/12 up
梅雨にうだうだしながら書いた話。
部室や特別教室の埃っぽい匂いが大好きです。何かドキドキしませんか?