遠く遠く




 風が吹いて眼の前の人の髪を巻き上げるのを眺めながら、夏目は目線を空に移した。
 秋の空は高く、群れた魚のような白い雲が流れて行く。半袖のシャツから伸びた腕をなぞって行く空気の冷たさが染み込んだ。

「夏目?」

 呼ばれて、目線を空から地上に戻す。
 眼の前で何か問いたそうな表情をしている名取の、その金色に近い色の髪が風に流されている。それを眺めながら、夏目はぎこちなく笑い返した。意味のないごまかし方だって、そう解っていて、それでもそうやって笑ってみる以外に方法がない。

「どうしたの、ぼんやりして」
「何でもないです。すみません」

 くせのようになっている謝罪を口にすると、名取はそう、とだけ短く答えて髪を押さえる。シャツの袖口から覗いた腕には家守の尻尾だけが見えていた。
 家守はその位置から動かない。今、それが見える人は名取と夏目しかいないのに、姿は見せない。黒い尻尾だけがその存在を示していた。

「で、小僧、用件は何だ」

 地面に座り込んで毛繕いをするニャンコ先生がそう偉そうに問いかけると、名取は笑って手に持っていた厚い封筒を夏目に手渡した。猫にはもうひとつ、違う紙袋を渡す。

「前言ってた本。返すのはいつでもいいからね。猫ちゃんのは前約束してた酒と、あとつまみはおまけ」
「ありがとう、ございます」
「よし! 気が利くな、小僧」
「どういたしまして」

 どこかぎこちない礼を言って夏目は封筒を受け取る。猫も嬉しそうに短い手で紙袋を抱えると、よいせ、と年寄り臭い掛け声と共に袋を背中に背負った。
 手渡された本は重く、猫が背負った袋もどこか重そうだった。ずしりとした重みが腕に響く。夕暮れの道、学校帰りの夏目にはその重みが辛かった。
 帰り道、北本や西村と別れた後にいつものように何の前触れもなく紙人形が現れた。それに連れられ家の近くの川原まで来てみると、そこでは名取が本を読みながら座っていた。川原に風が吹き抜けていて、本のページが煽られてぱらぱらとめくられる。そんも姿にどうしてか夏目は声が掛けられず、遠目で見ているとふっと顔を上げたその人は夏目を見付けてとてもきれいに笑いかけた。
 待ってたんだよ、と言って笑った人はいつもの帽子も眼鏡もしていなかった。促され、人目がない夕暮れの田舎道を歩きながらどうしたんですかと問うと、表の仕事の休憩時間なんだと答えた名取はやはりいつもと同じように笑っていた。
 その表情を見ながら夏目は気付かれないように息をついた。
 朧げだった記憶が修正されていくのに安堵していた。どれほど努力しても、滅多に会えない人の姿は少しずつ記憶から消えて行く。あんまりにも会わないから、声も表情もゆっくりと脳から失われていってしまう。それを取り戻すのには会うしかなくて、だけど会えなくて忘れて行く。
 忘れたくなんか、ないのに。

「それ読むの大変だと思うけど、がんばって読みなさい」
「大変なんですか」
「現代語じゃないし、厚いし、読みにくいよ。でも、ためになるのは保証するよ」
「……はい」

 まるでいつもと同じように、変わりない表情の人の声が上手く耳に入らない。ひどく重い紙袋と、それよりもずっと重い感情に苛まれている。記憶を取り戻したいのに、取り戻せない。見上げていたいのに、見ていられない。
 けれど夏目の心情など何も知らぬように、名取は俯いたままの夏目を見ていない。それが今はありがたかった。
 風が流れていて、眼の前の人の服の裾が翻る。風の流れに合わせるように名取はくるりと身を翻して夏目の方を向いた。
 告げられるであろう言葉を予測して、夏目は口を閉ざす。

「ごめんね、今日はもう時間ないんだ」
「そう、ですか」
「もう戻るよ。急でごめんね」

 そう言ってやっぱり笑った人はいつものように手を伸ばして柔らかく夏目の髪を撫でた。その感触さえ、どうしようもない焦燥感を煽る。
 何ひとつ言えやしない。何も告げられはしない。それでも、意味のない言葉が溢れそうになるのを夏目は必死で呑み込んだ。

「じゃあね」
「……はい。また」

 さらりと手が離れていく。そのまま手を振った人はすぐに夏目に背を向けて歩き出した。振り返りはしない。
 その背を見送りながら、夏目はその場に立ち竦んだ。風が髪を巻き上げて、ばさりと頬を叩いていくが痛みは感じない。風の冷たささえも感じなかった。

「よし夏目帰るぞー。今日は酒盛りだ!」

 そう浮かれた口調で鼻歌交じりに猫もまた反対方向に背を向けて歩き出す。道の真ん中で、
もうずいぶん小さくなった名取の背を眺めながら夏目はぎゅっと手を握り締めた。
 混乱した感情が揺れている。何かを叫んでしまいたいけれど、何を言いたいのかさえも解らない。どうすればいいのか解らない。
 乱れていく感情が耐えがたく、夏目は地面を蹴ると一気に走り出した。

「お、おい夏目?!」

 唖然とした様子の猫を追い抜き、そのままわき道に逸れて、夏目はでたらめな方向に走った。猫の焦ったような声が後から聞こえてくるけれど耳に入った音さえも脳には届かない。焦燥や困惑に駆られ、夏目は走り続けた。
 息が切れた。走り続けた足がもつれそうになって夏目は夕暮れが迫る道の真ん中でようやっと立ち止まった。追いかけて来ているはずの猫の気配さえなくなっている。見たことのない、知らない道で夏目はふらつく足を押さえてうずくまった。

「……どう、して」

 荒く乱れた息の隙間から声が落ちた。
 解ってる。これはひどい我侭だって知っている。
 誰にだって様々なしがらみや都合が合って、何もかもが簡単に自分の思い通りになるわけはない。そんなの知っている。今までだって思い通りに行った試しなんてない。
 それでも、解っていても、どうしようもない感情に潰されそうになっていた。
 無茶な我侭だって解っていて、それでも思ってしまう。
 どうしてあんなに遠く、遙か彼方に見えるんだろう。どうして何ひとつ届いていないようにしか見えないんだろう。
 何で、側にいてくれないんだろう。
 せめて、また明日と言える距離に居てくれたら、こんなにも息を切らすことなんてないのに。




2009/08/01