today
カーテンの隙間から陽射しが強く差し込んでいる。
窓を開けようと歩み寄ってみたものの、その光の強さが眼に染みるような気がしてやっぱり窓を開けるのを止めてしまった。そういった、強く何かを主張するものを今この部屋に入れても似合わないだろうって、どうしてかそう感じていた。
薄暗い部屋に僅かに差し込んだ明かりだけを頼りに水を取りに行く。途中で落ちていた服を拾い集めて洗濯機に放り込んで、代わりにタオルを水と一緒に持って帰った。棚の上に置かれた時計は見ない。
裸足でフローリングの床を踏むと、あっと言う間に体温が下がっていく感覚がする。冷たい空気に温度が奪われていく季節になった。
そういえば、と名取は思い出す。何でこんな寒い季節にわざわざ生まれたんだろうって、昔からそう思っていた。
寒い季節も暑い季節も好きじゃない。心から好ましいと思える季節なんてないけれど、それでもわざわざこんな凍え始めた日を選ぶことなんてないのに、と時折どうしようもなく嫌になっていた。こんな些細なことでさえも、自分に関する全てが昔から好きになれなかった。
今も自身が好きになれないのは大して変わりはない。大きな意味も価値もまだ見付けられない。それでも、そんな些細なことはもう気にならなくなってきている。
誕生日だとか、記念日だとか、そんな祝い事にはずっと意味を見つけられなかったけれど、今日だけは少しの意味がある気がしていた。
ベッドに戻るとまだ丸くなって眠っている人の隣に座り込む。光が射さない部屋の中でも、闇に慣れた眼には夏目の姿がきちんと映った。
さらりとシーツに流れ落ちている髪を辿って頬に触れると、夏目が身じろぐ。
「んー……」
「おはよ」
掠れた声を上げ動こうとする頭を軽く撫でると、夏目はぼんやりと眼を開けた。まだ半分眠っている顔で欠伸をしながらゆっくり起き上がる。
「おはよーございます……おめでとー、ございます」
焦点の合わない眼で無意識のようにそう言った夏目はやっぱり半分眠ったままの顔をしていて、言い終わったと同時にこくり、と眼を閉じて頭を揺らした夏目がおかしかった。
笑って髪を撫でると、夏目は何度も瞬きを繰り返して何とか起きようとがんばっているようだった。
「ありがとう」
「あー……どういたしまして……」
やっぱり起ききれていない間延びした声で、夏目は何度も欠伸を噛み殺していた。眼が開いていない。
「まだ寝てていいよ」
「んー……起きる……」
寝言にしかなっていない声で呟いて必死に眠気に抵抗しているが、夏目は結局眼を開けられないままぐらぐらしている。不安定に揺れる身体を支えるとずるずるともたれ掛かってきた。
「寝てなさいって」
「…………起きます」
腕の中でしばらくぐらぐらしていた夏目は、何度か頭を振ってようやっと眼を開けた。ぼんやりしたままでそれでも無理にこじ開けた眼を擦り、瞬きを繰り返している夏目の背を撫で、名取はそっと息をついた。
名取にとっては今日はどうだっていい日だった。ひとつ歳を取ることに大した価値なんてない。
それでも、名取にとって意味がなかった筈の今日を大事にしてくれていた夏目のその温度にひどく安堵する。その温度に意味があるんだって、そう解っていた。
少し笑ってまだ瞬きをしている夏目の髪を梳く。
「なつめ」
「……はい……なにか……」
「おれ、誕生日なんて、どうでも良かったんだよ」
そう言うと、夏目は急にぱちりと眼を開けた。一瞬だけ強ばった彼は名取を見上げてすぐに身体の力を抜く。そうして不思議そうな顔をして名取の手を引いた。
「……どうでもいいって、顔じゃ、ない、ですけど」
「そう?」
「……うん。何か……そんな顔じゃ、ない……」
上手く話せない、と言いたげな顔で頷くと夏目は名取の手を握った。寝起きの手は上手く力が入らないらしく、高い体温が伝わってくるばかりだ。
その手を握り締める。皮膚の感触と温度が滲んだ。
「ちょっと前は、どうでもいいって思ってたんだよ」
「……じゃあ、今は?」
「今は、そうは思わない」
そう告げると、夏目は握った手に少しだけ力を込めた。
出会う前は、どうやったって嫌悪しか持てない自分自身と、それでも抱えて生きていくしかない生活とに折り合いを付けていくので精一杯だった。噛み合わない全てを受け入れられなくて、苦痛ばかりの日々を無理にやり過ごすばかりだった。
それが、出会ってからは少しずつ変わっていった。身体に宿る家守も、自分自身も、ほんの些細なことから少しずつ許容出来るようになっていった。
許されて、自分を赦せるようになっていく。
「そうですか」
「うん……そう。ほんとに、ありがとう」
安心したようにちいさく息をついた夏目の髪を撫でる。柔らかい癖のない髪が指先を流れて落ちた。それはいつものように光を反射せず、ただ流れ落ちるだけだ。
部屋は暗いままで光は射さない。でも、それで今困ることなんてない。
窓を開けなくても、光が射さなくても、それで困ることがないならそれはいらないものなんだと解る。
今までは抱えていたものが多過ぎて、苦痛をもたらすものでさえも手放せなくて息苦しかったんだろう。今、それほど苦しくないのは抱えていた重いものを少しずつ手放していけるようになったからだ。
多分、本当に必要なものはほんの少しだけだ。それさえあれば他は手放しても大丈夫だと、そう思える何かを手に入れている。それをもらったことがきっと贈り物であって、もうこれ以上の何かはいらないんだって、そう解っていた。
手を握る。今、必要なものが手の中に在った。
「夏目、キスしてよ」
そうちいさく呟くと、すぐに笑ったような吐息が口元に触れた。
2009/11/12