水上曲線 -preview-






 カビ臭い匂いがさっきから鼻につく。
 ほんの一歩人が動いただけで天井から落ちてくる埃と、鼻につくカビの匂いには心底辟易するが、仮にも給料を貰っている仕事なので文句は言っていられない。
 蔵の外では古い桜が淡い色の花弁を舞い散らせていて、散った春の花が小さな池にいくつも落ちて浮かんでいる。その静謐な景色と比較して、余りにも掛け離れた様子の室内にさすがに嫌気が差した。
「なあ、先生」
「呼んだかあ?」
「呼んだ。柊はどこ行ったんだ?」
「小娘なら掃除機を取ってくると言って出てったぞ」
「掃除機くらいで済むのか、これ」
「箒の方がいいんじゃないか」
「だよなあ」
 けほ、と咳込みながら言うと空気が流れて余計に埃を吸い込んでしまい夏目は咄嗟に腕で口を覆った。
 古い蔵の内部は薄暗かった。天井に据え付けられた、明かり取りの小さな窓から差し込む陽の光のラインの上ではたくさんの埃が舞っているのが見えてしまい、夏目は余計にげんなりした。さっきから扉は開け放ったままだし、眼についた窓は片っ端から開いているのに空気が全く入れ替わらない。風が吹く度に埃は舞い上がるが、また室内に戻るばかりだ。
 昼間だと言うのに、懐中電灯を抱えて室内を照らす夏目と猫はそれでも仕方なく蔵の奥へと進んだ。ぼろぼろの木の階段を見付けると踏み抜かないように気を付けながら静かに二階に上がって行く。
「うわあ……」
「何じゃこりゃ」
 猫が嫌悪感丸出しの声で呟くが、夏目もそれには同意せざるを得ない。思わず目線を合わせると、一緒になって嫌そうな顔で頷き合った。
 二階の床の上には古い本や道具がうず高く積まれている。その上にはまるで雪のように埃が積もっていて、一階の惨状よりも更にひどい状態だった。床や棚の上にも埃が降り積もっているのが見える。
 恐る恐る床に足を付けると、ふかっとした感触と共に見事な足跡がついた。猫もちょいちょい、と嫌そうに床を突付いて猫型の足跡を付ける。
 白い床の上に猫と人の足跡が並んでいて、夏目は思わずため息をついた。足跡を付ける猫が不細工な顔で振り返る。
「これをどうにかするのは骨が折れるなー」

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「先生! 何してんだよ!」
 階段の下で、夏目に踏まれた猫がまだ床に転がっている。そのまま転がった猫の片腕だけ掴んで引きずり上げると、夏目は蔵から飛び出した。
 肩に掛けているカバンが重い。突っ込んだだけの本と紙の束が揺れていて、その重みだけで身体が引きずられるようだ。
 左手だけで掴んだ猫を振り回しながら開いたままだった玄関の木戸をすり抜ける。
 その途端、ぱしん、と何かを引き裂いた感覚がした。脳のどこかで名取が仕掛けていた結界を破ったんだと理解したけれど、そんなことはどうでも良かった。
 まだ早朝に近い時間、田舎道には誰もいなかった。
 それを幸いに、全力で走り出した足に荷物が当たって痛む。後ろの方からにゃあにゃあと何か喚いている猫らしい声が聞こえたがそれはやはり無視した。
 重い荷物と重い猫を引きずりながら走っていると、やはりいつもより身体に負担が掛かるのかすぐに息が上がる。だけどそんなことには構っていられなくて、もつれそうな足を叱咤しひたすらまっすぐに藤原家に向かって走り抜けた。
 嫌な予感がしていた。こんな時はとても怖い。予期せぬ何かが自分ではない誰かに触れるような気がしている。
 夏目は、自分に対して不穏な出来事が起こってしまうのはもうそんなに怖くない。それはもう慣れていて対外のことには対処出来るようになったし、普段は全く使えない用心棒も時には守ってくれる。助けてくれる人だっている。
 自分に何かが起きることは対して怖くない。
 怖いのは、自分ではなく周囲の人が危険にさらされることだ。友人たちもそうだが、何よりも何も知らずに自分を受け入れてくれた藤原家に何かが起きてしまうのが怖い。
 考えるだけで、ひどく怖かった。何かの災いを招いてしまう、その原因を持っているのならそれを消し去ってしまいたいほど怖い。
「柊!」
 走り抜けた道の先、藤原家が見えるほどの位置までに辿り着く。すると、見知った妖が空から舞い降りるのを見た。呼び掛けると彼女はちらりと夏目を見たが、それだけで振り返りもせずに駆け抜けていく。
 妖の彼女の速度に夏目は追いつけないが、それでも必死でその後ろ姿に着いて行く。藤原家へ向うであろう彼女を追い掛けた。
 けれど予想に反して柊は藤原家には行かなかった。地面を蹴った彼女は空を舞って山の方に飛んで行く。その影を見失い、夏目は慌てて握っていた猫の手を引っ張った。
「おい先生!」
「な、何だ……」
「いい加減先生も走れよ! 柊を探してくれ!」
 振り回されているせいか、猫は何だかぐったりとした様子だったがそんなことは夏目にはどうでもいい。ぽいっと握っていた手を離して猫を空に放り投げると、慌てた様子の猫が空中で何とかぐるりと廻って上手く地面に降り立った。それから焦った顔をしてフンフンと辺りの匂いを嗅ぐ。
「小娘の、ではないな、小僧の匂いがする」
「名取さんか?」
「うむ。あっちだな」
 そういって後ろ足で立った猫の指し示した方向に夏目は返事もせずにすぐに走り出す。道を示した猫は置き去りだ。
「コラ待てー!」
 大慌てで追いかけて来る猫を後ろに、コンクリートで舗装された道を抜けて山道に入る。かろうじて整備されていた土の道はすぐに終わり、春の草がそこかしこに芽吹く獣道へと入り込んだ。
「ええいこのガキめ! 私を置いていってどうする、小僧の居場所がわかるのか!」
 草を踏むと、猫が急にひょいっと跳ねて夏目の前に飛び出した。木の枝を避け、草を踏みながら猫は夏目を追い越すとその先へと導いた。
「名取さん!」

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 ふいに眼が醒めた。
 重い眼をこじ開けて周りを見渡すが、周囲は暗い。
 枕元で緑色に光る時計は午前三時過ぎを指していた。カーテンの隙間から見える空はまだ暗いが、月明かりが僅かに差している。雨はもう止んでいるようだった。
 枕元には古い本がいくつも転がっている。名取の依頼で探した本は結局渡せないまま持ってきてしまい、それを見ているだけで罪悪感と共に手持ち無沙汰な感覚を感じた夏目は、寝付くまでだらだらとそれを読み耽っていた。妖への対処法や知識を古文で書いてある本は読み辛くなかなか内容は頭に入って来なかったが、それでも何とか読み続けているうちに睡魔に負けたようだ。
 最後に時計を見た時は日付が変わる直前だった。睡眠時間は足りておらず、瞼は重い。もう少し眠りたいところだったが、どうしてか窓の外がひどく気になって仕方ない。
 嫌な予感がざわざわと足元からひしめいているようだ。夏目は音を立てないようにしてそっと布団から出ると、カーテンの隙間から外を伺った。
「……っ!」
 庭が見えた時、思わず叫び声を上げそうになって寸前で口を押さえる。
 窓の下、庭先に見覚えのある妖がうろついていた。
 それはほんの数日前にも庭先で見た妖だ。飛び掛かろうとした獣を結界で弾き、名取を苦戦させたあの妖がいる。それは先日見たときより少し小さくなっていて、名取の術のおかげで多少ながらも力が弱まっているのが見て取れた。
 妖は家の中には入れないらしい。入口が見付けられないようだ。それは多分、名取が張って行ってくれた結界のおかげだろう。家の周囲に微かな壁のようなものが張られているのが夏目にも何となく解った。
 守っていて貰っている。
 ひどい後悔が急激に夏目を襲った。もう夏目なんて彼にはどうだっていい筈なのに、最後の最後まで守護を落として行ってくれた。
 だけど、もうお礼も言えないんだ。
 ぐらりと思考が回るが、うろうろと庭をうろつく妖が何かをぼそぼそと呟いているのが眼について意識を引き戻す。
 声は聞こえない。だけど、夏目を、友人帳を探しているのだとすぐに理解した。解ってしまえば考える暇なんてない。
 名取が落としてくれた守りだけでは完全にはこの家を守れない。今この家を守れるのは夏目だけだ。
 他には、誰もいないんだ。