田沼→タキ。七夕。
star honey
「ねえ、夏目くん。どっちかなあ」
「わからない。先生、どっちなんだよ」
「…………」
「先生!」
「…………道がわからん」
「何だと?!」
「わからんもんはわからん!」
「開き直るな、このブタ猫!」
ゴンッと小気味いい音が響いて、猫がぐえええと悲鳴を上げた。
暗闇に満ちた山の中、道に迷って立ち竦む子どもたちには懐中電灯の小さな灯りだけでしかない。田沼が握り閉めた懐中電灯の光の輪はどこか心許なく、その光の先では夏目が猫と盛大に言い争っている。
七月七日の夜空は晴れていた。木々の隙間から僅かに星明りが覗いているが、さすがに天の川までは見えない。開けた場所に行けばよく見えるのだろうが、鬱蒼と茂った木々が空を隠していて視界は不明瞭だった。
「先生が星を見るのにいい所あるぞ、とか言ったんだろ!」
「暗くてわからん!」
「猫のくせに見えないのかよ!」
「猫ではないわ!」
「猫だろ! ブタ猫!」
思いっきり罵られた猫がプルプル震えている。
今日の夕方のことだ。学校まで夏目を迎えに来た猫が、今日はいい天気だから星がよく見えるぞ、などと言ったのをきっかけに三人と一匹は夜に星を見ようと近所の山を登っていた。それぞれの家で既に夕食を食べているが、時間はまだ夜七時を過ぎたばかりで宵には早い。
けれど夕闇の帳はとっくに落ちていて、暗闇が子どもたちの周囲を囲んでいる。懐中電灯の灯りだけが、今は唯一の頼みの綱だった。
生命線を預けた丸い灯りの輪の中、猫が震えるのを見てタキが慌てて駆け寄る。そうしてその丸い生き物を抱き上げるとぎゅむっと抱き締めた。
「夏目くん、そんなに怒らないで! 猫ちゃんだって反省してるよ!」
「タキ……! お前はよくわかっておるな、見習え、夏目!」
「どこが反省してるんだ!」
怒鳴る夏目と猫を庇うタキをぼんやりと田沼は見比べている。すると、急に二人と一匹が田沼を振り返った。
「田沼、ニャンコ先生のせいだよな!」
「猫ちゃんだって反省してるんだもん、許してあげるよね、田沼くん!」
「小僧、夏目を止めろ!」
二対一に分かれた二人と一匹に詰め寄られ、困った田沼はうっと息を詰めて首を傾げた。
「いや、ええと……あのさ、何でもいいんだけどさ」
「良くない!」
「良くないよ田沼くん!」
「良くないぞ小僧!」
「おれたち、遭難してるんじゃないか?」
一人冷静な口調でぼそりと呟くと、眼の前の二人と一匹が一瞬ぽかんとした顔をして、それから一気に青ざめた。
「えーっ! 遭難してるのか?!」
「だって、帰り道わかるか?」
「わかんないね……」
「やっぱり先生のせいじゃないか! どうすんだ、家帰れないぞ!」
「う、ぬぬぬ……」
さすがに気まずそうに口を唸った猫をタキから奪い取ると、夏目は猫の襟首をつまみあげて怒りの形相で詰め寄た。
普段温厚で優しい表情ばかりの夏目はこんな顔は滅多に見せない。結構大変な状況で不謹慎だとは思いながらも、田沼は少し笑った。
「田沼くんどうしたの? 笑っちゃって」
「ああ、夏目が怒る所ってあんまり見ないなあって思ってさ。ポン太と仲良しだなあ、夏目」
「どこがそう見えるんだよ!」
「全くだ! 小僧、仲良しではないぞ!」
ぎゃあぎゃあとまくし立てる一人と一匹を見ながら、堪えきれずに田沼とタキは揃って笑った。笑われるのに納得行かない様子の猫と夏目はぶちぶちと揃って文句を言い合っている。そんな所も仲がいいようにしか見えなかった。
くすくす二人で顔を見合わせて笑い合う。同じように口を押さえて笑っていると、とても幸福な感情が染み出した。こんな風に二人で笑える、そんなささやかなことでさえ田沼には大事な一瞬になる。
笑い合う二人の前でしばらくの間一人と一匹は憮然とした顔をしていたが、ふと猫が何かに気付いたように夏目を見上げた。
「おい夏目、お前人形持っておらんのか」
「ああ、紙人形? 持ってるけど」
「それなら、そうだな、塔子でも探せ。そうすれば山は下りられるだろうが」
「あ、そっか。良かった、持って来てて」
「これで帰れるだろうが! 心配して損した」
「先生が言うなよ!」
ぎゃあぎゃあと変わらず言い合う一人と一匹の言葉にタキが不思議そうに首を傾げて問い掛けた。
「ねえねえ、紙人形って何?」
「ええと、人探しの術を使える道具で……これ使えば、山は下りられると思う」
「そんなこと出来るのか、すごいな」
「教わったんだ、この前」
そう、とても大事な話をするように言って夏目は笑った。ぼんやりとした灯りの中でも、その笑顔がひどく嬉しそうなことが解った。暗闇の中、場違いなほど幸福そうな表情が見える。一瞬だけその表情に疑問符が浮かんだけれど、田沼は特に気にもせずに夏目に笑い返した。
そして、その横でタキが少しだけ首を傾げたのは解ったけれど、何に首を傾げたのかは解らなかった。それも気に留めず、田沼は良かったな、と胸を撫で下ろす。
とりあえず下山の方法が見付かったことに全員でほっと息をつくと、猫がひくひくと鼻を鳴らした。
「むむ」
「何だよ、どうした先生」
「お、こっちだこっち! 思い出したわ! 匂いがするぞ!」
「あー、待てよ先生!」
がさりといきなり繁みに飛び込んだ猫を追いかけて、夏目も繁みに飛び込んだ。
残された二人はいきなりのことに顔を見合わせる。タキが先にはっと我に返って、田沼の手をためらいなく掴んで引いた。
「行こう、田沼くん!」
そう叫んで手を握ったタキの声が田沼の耳に残る。
鼓動が一気に高鳴った。心臓がひどく跳ねていて息が苦しいくらいで、それを悟られないようにするのに必死だった。繋いだ手の温度が滲んで、感情が混ざる。
頬に血が集まって、体温が上がる。暗闇に紛れて見えないだろうけれど、見られたくなくて田沼は俯いた。
「夏目くーん、どこー?」
揃って走るが、タキの声に返事は返らない。行き先が解らなくなり、闇の中で田沼とタキは二人で止まって立ち竦んだ。
無意識にか、タキがぎゅっと田沼の手を握り締める。
繋いだ手から体温がゆっくり移って行く。タキの手は田沼の手よりずっと小さくて細くて柔らかい。それなのに確かに存在を示している。確かに、居てくれている。
世界が切り取られたような気がした。今、この瞬間は闇の中で二人だけのようだ。田沼にはそう思えた。心臓が鳴っていて、喉の近くまで言葉が落ちそうになる。
ずっと好きだったんだって、きっと初めて会ったあの時に一目惚れしていたんだって、そう言ってしまいそうになった。
「こっちこっちー! すごいよ、星!」
けれど数秒の沈黙を経て返された夏目の声に、二人だけだった世界はすぐに終わりを告げる。
はっと口をつぐみ、田沼は落ちそうになった言葉を慌てて飲み込んだ。
「こっちかなあ?」
「……うん、こっちみたいだな」
タキは田沼の様子をまるで解っていないまま、手を引いて声のする方へと藪を抜ける。するとそこは木々がなく広場のようになっていた。見上げた空には数多の星が輝き、天の川が広がっている。
「わー、すごいね!」
「すごいよな!」
「だから言ったろうが、なかなかのもんだと」
「猫ちゃんありがと!」
そう嬉しそうに言って、タキはさらりと田沼から手を離した。何も知らない様子で、タキはするりと田沼を放してしまっていた。
離された手の温もりが僅かに残る。嬉しそうに猫と夏目に駆け寄るタキの後ろ姿を眺めながら、田沼は徐々に熱が引き始めた頬に手を当てて空を見上げた。
空には星が光っている。だけど、その美しささえも今は眼に染みるようで。
出口の見えない片想いをしているんだって、そう知ってしまった。
2009/07/19