深層の街から -preview-



 屋上のドアは開いていた。
 見下ろした空の中、陽は既に西に傾いていた。夕暮れの光は強く、辺りを全て同じ色に染めている。空も、田舎道も、田圃や畑も、森も、何もかも全てオレンジ色だ。それに照らされた夏目も強く踏み締めた屋上の床も、全部が同じ色に染め上げられていた。
 休日の学校の屋上には夏目しかいない。普段一緒にいる友人たちも、稀にしか会えない人も、いつも共にいる猫さえも側にいない。
 たった一人きりで夏目は空を見下ろしている。青褪めた顔で、何もかもをひとりで背負っているかのような重苦しい表情でただひたすら何かを探して視線を彷徨わせている。
「……どこに行った」
 その声はきっと誰にも聞こえない

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 闇に紛れて白い人形が空を飛び続けている。
 それを追って走る猫と、猫の後を追う名取の間に少しの隙間が空いていた。僅かに開いた合間を詰めないまま、名取は猫と共に人形を追って走り続けている。
 だが、自ら放ったその人形はあからさまに力が足りていなかった。それは時折夏目の気配を見失ってしまうようで、空を彷徨ってはしばらくしてまた走り出す人形の様子に舌打ちする。
 あからさまに名取は苛立っていた。仕事のペースを崩されたことや、役に立たない猫の暴言にも苛立っているし、勝手にいなくなってしまった夏目にも苛立っている。
 だけど、それよりも違う何かに苛立ちを押さえきれていない。もやもやとした、正体の解らない感情の行方が掴めなくて更に苛立ちが募る。
 夏目を早く探し出してしまいたい。そして少しでも休息を取りたかった。走り続けたせいで重なる疲労により感情がささくれ立つ。
「おっ?!」
 眼前の猫が急に止まる。それに気付かないまま走り続けた名取は猫を踏んだ。
「ふごっ」
「わっ、ごめん」
 間抜けな声を上げた猫から慌てて足を上げる。背中に見事に足跡をつけた猫が恨みがましい顔で額に青筋を立て、名取を見上げて来ていた。
「お、おのれ……何をするか……」
「急に止まるからだよ」
「お前の人形が止まったからだ!」
「え?」
 喚く猫の声に顔を上げると、白い人形は彷徨うことなくぴたりと宙で止まっていた。見下ろすと、見覚えのある学校の門がそこに立ち塞がっている。
「学校、か? 夏目の?」

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「おいこら夏目、待て!」
 猫の制止の声も無視し、ただ眼を醒ませと妖に呼び掛ける。
 ぐっと力を込めると、ついさっきまで夏目に取り憑いていた妖はその声にすぐに反応を返した。
「わっ……!」
 一際強い光が満ちて、ガラスが割れるように球形が砕け散る。その手から妖が抜け出るのを感知しながらも、光に眼が眩んだ夏目にはそれが見えなかった。
「夏目!」
 焦ったような名取の声がした時、紙が破かれるような音がして夏目は無理に眼を開けた。光で痛んだ眼は何も見えなかったが、それでも音のする方に走ろうとする。
 けれどほんの数メートルほどの距離を進んだだけで手を引かれた。覚えのある人の手が強く夏目を掴む。
「夏目、来るな!」
 ぐいっと強い力で身体を引く腕に逆らえず、夏目はそのまま後退させられた。よろけた瞬間に身体を受け止められるが、それが誰の腕かまでは理解出来ない。
 後ろの方で、ポンと聞き覚えのある音がした。
「こんの馬鹿ガキどもが! お前も下がれ小僧!」
 ぐらりと夏目が揺れた瞬間、まだ不透明な視界の端に斑の長い毛が過ぎった。その向こうには崩壊して千切れた人形がいくつも見えていて、もがく黒い妖の姿が僅かに眼に映った。
 さっき名取が施していた術式は失敗し崩れてしまったんだと理解した。だが、半端に施された術はそれでも黒い妖にダメージを与えたようだった。
 それだけが解ったとき、また強い光が走って眼を庇う。馴染みのある感覚に空を飛んで行った斑の気配を感じていた。
「いいから下がれ、世話の焼ける!」
 そのまま斑に蹴飛ばされて、腕を掴む人もろとも夏目は後方に弾かれる。ほんの一瞬の浮遊の後に地面に落ちるが、大した衝撃はなかった。
 掴まれた腕が離される。
「先生!」
「黙って見ていろ! 夏目、小僧を押さえとけ! 本当に死ぬぞ!」
 叫ばれてはっと隣を見上げると、先に体勢を立て直していた名取が地面を蹴って駆け出そうとしていた。猫の言葉に舌打ちする彼に構わず、離されたばかりの手を無理に掴み取った。
「夏目!」