夏目誕











shoulder




「少し早いけど、おめでとう」

 そう耳元に囁くと夏目は不審そうな顔をして身体を離した。
 何を言っているのか解らない、とでも言いたげに眉間に皺を寄せて考え込むような表情をしている。その顔がおかしくて少し笑うと、彼は嫌そうに眉を顰めた。

「何言ってるんですか」
「ん? わからない?」

 わざとからかうように言うと、夏目は更に嫌そうな顔をしてぺしりと名取の額を叩いた。衝撃に思わず眼を閉じる。

「いてっ」
「何言ってんのかわかりません。何ですか」
「ほんとにわからないの?」
「わかんないから聞いてるんですけど」
「誕生日。もうすぐだろう?」

 そう言うと、夏目はぽかんと口を開けた。しばらくそうして考え込むようにしてから、ようやっと名取を見上げる。

「何で?」
「ん?」
「何で知ってんですか」

 また嫌そうな顔をするのに苦笑を隠せなかった。少し前に聞き出した時、何気なく意識もしていないかのようにさらりと答えたことをすっかり忘れているようだった。

「誕生日、明後日だろう? 七月一日。違う?」
「違いませんけど、何で」
「ちょっと前に聞いたよ。忘れちゃった?」
「……憶えてません」

 夏目は少しの間黙って記憶を探るような顔をしたけれど、結局は思い出せなかったらしく不満そうな顔をして俯いてシーツをいじっている。
 ベッドの上に座った二人の間に流れる空気の湿度は高かった。夏は近付いてるが梅雨はまだ明けない。湿った冷たさと反する暑さが混じった空気が流れる季節の中、近くで触れる肌もどこか湿っていた。

「……すいません」

 ふと、俯いたままの夏目が困ったような声を上げる。首を傾げて柔らかく髪を梳くと、夏目はシーツの端をぎゅっと強く握り締めた。

「何で謝るの?」
「いえ、あの……おれ、誕生日とか……おめでとうとか、言われたことなくて」
「……うん」
「その……何て言えば、いいのか」

 ひどく困惑したような言葉を遮ることなく流して、名取はゆっくりとひとすじの髪を梳いてそのまま下ろし、それから頬に触れた。柔らかい皮膚の感触が直に伝わる。

「何だっていいよ。嬉しかったらお礼を言えばいいし、そうじゃないならそのままで」
「はあ、そうですか」

 困ったような顔をしたままの夏目の頬から首すじを指先で辿り、鎖骨までを撫でると身体に力が入る。シーツを強く掴んだ手に手を重ね、額に額を重ねた。
 夏目は自分のことをそうたくさんは話してくれない。藤原家に来るまでの過去にどんなことがあったかもそうそう教えてはくれない。けれど、誰かから毎年誕生日を祝ってもらえるような日々ではなかったことは容易に想像がつく。祝われることに慣れてはいないだろう。
 でも今は違うだろう。生まれてきたことを祝ってくれる人はきっとひとりだけじゃない。もっとたくさんの人が、それを祝ってくれるだろう。

「でも、何で今言うんですか」

 不思議そうに問い掛けた声に笑いながら、重ねた額を離して代わりにそこに口付ける。柔らかい感触が落ちた途端にびくついた身体を宥めるように背中を撫でた。

「明後日は行けないから、今のうちに言っておきたかったんだよ」

 そう囁いてから耳朶を食むと、息を呑む音が聞こえた。夏目の体温が上がっていて、空気の温度も僅かに上がったような感覚がする。
 誕生日の当日には何も言わず傍にもいないようにしようと、ずっと前から名取はそう考えていた。だから、今日会って告げておきたかった。きっと言われなければ自分の誕生日なんて夏目は気付かないだろうから、先にそれを知らせておきたかった。
 今知って欲しいことは眼の前のただひとりの人だけではなく、他にもたくさんの人が夏目に愛情を与えてくれようとしていることだ。他意のない、他愛のないささやかな愛情をたくさん貰うとそれだけで解るようになることがある。
 それを解って欲しかった。

「そう、ですか」
「うん、ごめんね」
「いいえ……仕方ないですし」

 零れた声は素っ気なさを装いながらも残念そうな響きを隠しきれていなかった。それが少し嬉しいような気もしたけれど、それでも撤回しようとは思わない。そうやって生まれた日をふたりだけで祝うのはもっとずっと先でいい。
 今、必要なのはもっと違うこと。

「ごめんね。でも、ご家族や友達がお祝いしてくれるだろう?」
「ああ……どう、だろう」
「してくれるよ。楽しみにしてなさい」
「そう、なのかな」
「そうだよ……本当に、おめでとう」

 もう一度繰り返すと、夏目はくすぐったそうにしながら手を伸ばして名取のシャツを握った。
 恋のように強い感情じゃなくても、愛情はどこにでも転がっていて、意外と簡単に手に出来る。ただの子どもに与えられる、ささやかな無償の愛情が彼に必要なものだった。
 けれど、いつか今与えられているささやかな愛情は彼に与えられなくなってしまうかもしれない。知らぬ間に彼から離れていってしまう人もいるだろう。それは時の流れと共に起こりうることで、どうしようもないことだ。どうしたってそれを留めることは出来ない。
 それでも、どんな時もきっと自分だけは夏目と一緒にいるんだろうな、と名取は確信している。
 多分、ずっとこうやって一緒にいるんだろう。
 だから、急ぐことなんてない。今、夏目に必要なものを正しく上げたいと願っていた。

「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」

 顔を見合わせて少し笑ってから、手を握る。そっと口付けても、もう抵抗はなかった。
 今、たくさんの誰かが夏目を好きでいてくれることを知っていて欲しかった。
 きっと、それが今の夏目に必要なことだった。





2009/07/01