水は甘くはならずとも
夏は暑い。
全く持って当たり前だが、夏と言う季節は暑い。だらりと首すじから汗が滑って背中を伝って行くのが解る。ぬめった水が身体を滑り落ちる感覚は余り心地いいものではない。
藤原家の二階、与えられた自室の床の上で夏目はだれていた。座っているのも暑いし、寝転がっていても暑いし、立っていても暑い。とにかく暑い。
暑さに抗えないまま、夏目はうろんとした眼差しで眼の前に座る人を見る。
「夏目、君、いくら何でもだらけすぎじゃないのかい?」
べん、と軽く頭をはたいて来た人のやたらと整った顔がぼんやり霞んで見えた。
今、夏目の部屋には名取とニャンコ先生と夏目本人、加えて柊もいる。汗などかかない妖の柊は何とか除外するとしても、この人数をこの狭い部屋に収容している以上、ただでさえ暑い部屋が更に暑くなるのは仕方のない事ではあった。
だが、暑いものは暑い。
名前に夏の字を冠しているくせに、夏目は暑さに弱かった。
「ほっといて下さい。名取さんが急に押し掛けてきたから余計暑いんです」
「そうだ、小僧はいるだけで暑い」
「毛むくじゃらの猫ちゃんにだけは言われたくないなあ」
「うん、先生も暑い」
「にゃんだと夏目!」
「うるさい」
騒ごうとするニャンコ先生の頭をはたこうとすると、猫は間一髪で夏目の攻撃を避けた。行き先を失くした手がふらりと宙を舞って夏目はバランスを崩す。
そこに名取の手がさっと伸びる。腕を支えてもらったおかげで、夏目は何とか転ばないで済む。それはありがたかったのだが、支えられる腕から伝わる人の体温は暑い。
普段からもっさりとした毛を纏ったニャンコ先生の存在だけで暑苦しいと言うのに、存在自体が何だか熱源みたいに無駄なきらめきを放っている名取まで加わって暑さは限界だ。
窓は開けているとは言え戸は閉めていて風は通らない。塔子さんには聞かせたくない妖の話、と言われて戸を閉めきってしまった事を夏目は少しばかり後悔していた。
かと言って、戸を開けた所で風など通らないのも解っている。窓から覗く夏空はひたすら青く、雲は白く爽やかで気温も湿度も高くて風はない。揺れる風鈴の小さな音だけが僅かな涼を運ぶが、音ばかりでは汗は止まらない。
「暑い暑いばっかり言っても涼しくはならないよ?」
「そんな事わかってます。それで、ご用件は?」
高い体温を伝える手を離し、ぶっきらぼうに、慇懃無礼な調子で先を促すと、名取は苦笑して持っていた鞄から古びた紙の束を取り出した。ばさりと紙の束が床に落ちる。
「何ですか、これ」
紙の束はどれも古い和紙で、黄色がかった色でがさがさと不快な音を立てている。
一番上に置かれた紙に墨で記載されている文様に見覚えがあった。少し前に、名取と共に妖を封印した時に書いていた陣だ。
「ほら、この前言っていただろう」
「何でしたっけ」
「忘れたのかい、ひどいなあ。妖を封じる系列の陣の図を見たいって言ったのは君じゃないか」
「あ」
非難めいた口調で言われて思い出した。そういえばそうだった。以前、名取と共に妖を封じた際の陣を見たい、と言ったのは夏目だった。
妖から逃れる事が出来ない以上、夏目だって素手以外の武器が有った方がいいし、封印せざるを得ない妖と対峙した時に対抗する術が欲しい。そう考えて、名取に資料を見せて欲しいと少し前に頼んだのだった。
「まあ、ずいぶん前の話しだから忘れていても仕方ないよ。すっかり遅くなってしまって済まないね、大量すぎてなかなか整理できなくてね。とりあえず、今回は魔封じ系列の陣の一部だけだ。簡単には憶えられないだろうから、また今度持ってくるよ」
「……済みません」
「いいや、お役に立てれば幸いだけど。ゆっくり見てくれ、私はもう憶えてしまっているものばかりだから」
柔らかに笑った名取の顔を見上げると、急に申し訳なくなる。
夏目自身はすっかり忘れてしまっていた約束を名取はずっと覚えていてくれた。忙しくて時間もないだろうに、きっと山のようにある資料の中からわざわざ夏目に必要な物を探してきてくれて、とても手間が掛かっただろう。
それなのに、余りいい対応を取らず、邪険に扱ってしまっていた。
申し訳なくて、名取の顔を見上げられなくなる。夏目は眼を伏せて名取の整った顔から眼を逸らした。
「本当に、わざわざ済みません」
「いいんだって。久しぶりに資料の整理が出来て良かったしね」
さらりと手が伸びて、そっと夏目の髪を撫でる。柔らかに、ひとすじの髪を梳いた手はすぐに離れ、流れるように机から麦茶の入ったコップを取った。
何となしにその動きを眺める。高い温度の中、名取も汗をかいている。シャツから覗く首すじから胸元にかけて汗が落ちていくのが見えた。そのまま動きを眺めていると、名取の手の中の麦茶が眼についた。
机に放置してある夏目の麦茶と名取の手の中の麦茶を見比べる。それはどこか違うように見えた。名取が持ったコップの中の茶はひどく涼やかな色をしていて、鮮やかで、そしてとても甘そうに見える。何も変わらない、同じ飲み物が名取の手の中ではまるで違う物のように見えた。
これは錯覚、もしくは名取が纏わせている柔らかな空気のせいなのだろうか。それとも。
「少し時間あるから、講釈でもしていってあげよう。言っておくけど、寝たら柊が怖いよ?」
笑いを混ぜた声にはっと我に返った。名取は夏目の思考などまるで気付かぬままにいつものように優しく笑っている。
どうしてか、それにひどくほっとした。
「お手柔らかにお願いします」
「いいや名取の小僧、ビシバシ鍛えてやれ。夏目は学校では寝てばかりだぞ」
「そうなのかい? 良くないなあ」
「仕方ないだろ! 先生だって寝てばっかりじゃないか」
「ニャンコが寝ていて何が悪い」
「都合のいい時だけニャンコぶるな!」
ぎゃあぎゃあと先生と夏目が言い合っていると、それまで黙っていた柊がすっと刀を抜いた。
「いい加減にしろ。主様も忙しい身だ」
「……はい」
刀をちらつかせられ、青い顔になり正座して頷いた夏目の傍らから大慌てで猫が逃げる。それを追って柊が飛び出した。
「先生! 柊も!」
「あはは、しょうがないねえ。大丈夫、すぐ帰ってくるよ」
「そうですね、ほっときましょうか」
走って部屋から出て行った猫と妖の後姿を見送って、夏目と名取は顔を見合わせて息をつく。穏やかな名取の笑顔は常と何も変わらず、夏目はそれにほっとした。
ことりと音を立て、机に名取のコップが置かれる。それに続くように、今度は夏目が汗をかいたコップを持った。
滑るコップの中の麦茶はもう生温くて、僅かな甘みも消え失せている。元々、茶には大した甘みなどない。名取の手の中で、麦茶がやたらと甘そうに見えたのは気のせいだろうと思う。
乾いた喉が辛く、夏目はコップの麦茶を一気に飲み干す。
また汗が吹き出てきた。
2009/02/25