風は強く
風の強い日の事だった。
猫はいつもようにぽてぽてと道を歩いていた。ただし背中には怒りを漂わせている。
本日も、ブタ猫だとかぶさいくだとかいい加減痩せろだとか、散々な言われようをされながら夏目に殴られ(家のエビやらイカやらを黙って食ってしまったせいなのだが)ふてくされた猫は家から飛び出して怒りながら歩いている。こんな時よく絡んでくる自分より格の低い妖の知り合いたちにも今日は会わない。
秋の道には人の気配も妖の気配もない。ただ強い風が木々の葉を揺らす音ばかりだ。
「なーんじゃ、イカくらいでうるさいやつだ」
ばさばさと葉が揺れる音に紛れながら、猫はぷりぷり怒りながら歩いている。そこに、急に強い風が吹いた。
「おお?!」
途端、ばさりと枯葉の束が猫を打ちつけた。葉に埋まり、猫は暫くの間道から見えなくなる。
「ぶはーっ! 何じゃこれは! うおお!」
猫がようやっと顔を上げると、また風が吹き付けて葉が猫の顔に当る。窒息しそうになってもがきながら、猫は短い手足で何とか葉を引き剥がした。
「なんちゅう風だ。寒いし、敵わんのー」
すっかり枯葉に埋もれていた猫がぴょんと葉の山から飛び出した。辺りを見回してから、汚れてしまった自身の白い毛皮を撫で付けて綺麗にしようとする。だが、短い舌は背中に届かない。
少し格闘したが、また風が吹き付けてばさりと埋もれてしまう。再度起き上がるとさっき綺麗に身繕いをした部分もまた汚れていた。
「……帰るか」
そうして、あっさりと気持ちが折れた猫は家出の決意を翻して来た道を引き返す事にした。
道の途中ではまたも風が吹き付けてきて、猫は何度も葉っぱやらゴミやらに埋もれた。その度にむくっと起き上がり、汚れて苦労しつつも、暫くして何とか見慣れた家路に着く事が出来た。
「む、この匂い」
藤原家に近付くと見知った匂いがした。たまに夏目に会いに来ては面倒くさい仕事の手伝いをさせる、胡散臭い小僧の匂いだ。
角を曲がり門から中を見ると、案の定、藤原家の玄関先に猫に背を向けた名取と彼に向き合った夏目がいる。
猫はため息をついた。遠目から見ても、少し堅い表情の夏目が見えたからだ。
「全くどうしようもないのー」
猫は呟いてからぴょんと威勢良く跳ねると、名取の脇を通り越して夏目の隣に行く。
「あれ、猫ちゃん。いたんだね」
いつものように帽子をかぶり眼鏡をつけた名取は普段よりはまともだった。にこにことした胡散臭い笑顔を振り撒いてはいるものの、あの新手の妖気としか言えないオーラは潜んでいて、ごく普通の人間の顔をしている。
猫には人の顔の美醜はよく解らない。人間にしてみたら見惚れるような笑顔も、猫にとってはただの人の笑顔に過ぎなかった。多少きらびやかな感じがするのは認めるが。
「お帰り、先生。どこ行ってたんだよ」
名取に背を向けて、猫は夏目の肩によじ登る。さっき大喧嘩したばかりだと言うのに、そんな事はすっかり忘れてしまったらしく怒るでも責めるでもない。夏目はどこか上の空だ。
猫は名取を振り返ってため息をついた。べーと嫌そうに眼を細めると、ぶっと名取が吹き出した。
「変な顔しないでくれよ、面白いじゃないか、猫ちゃん。ご機嫌斜めなのか?」
「当たり前だ、ばかもん。私はお前は好かん」
「こら先生、失礼だろ。済みません、名取さん」
「気にしてないよ。ああ、そろそろ行かないと」
名取がいつもつけている腕時計から小さなアラーム音が響く。時計の音を止めると、名取は夏目の髪をくしゃりと撫でる。
「寒い中悪かったね」
「いいえ……おれこそ、お茶も出さなくて」
「何だ小僧、もう帰るのか」
「今日は時間がなくてね。たまたまロケで近くに来ただけなんだ。また来るよ。じゃあね」
「はい、また」
ひらりと手を振って、名取は夏目たちに背を向ける。強い風が吹いて飛ばされそうになる帽子を押さえながら、名取はくるりと門を回って出て行く。
コツコツと規則正しい足音が聞こえる。
強い風の音に紛れた音が人気のない道に響いている。ゆっくりとそれは遠ざかる。夏目はじっと玄関に立ったままだ。
じきに足音は聞こえなくなる。俯いた夏目はそっと肩に乗った猫を撫で、何も言わず戸を開け家に入った。猫もまた何も言わず、じっと肩についているだけだった。顔を上げない夏目の身体からどんよりとした空気が零れていて、猫はため息をつく。
多分、これは特別な好意である筈なのだ。本来なら、人が一番幸福であるべき瞬間を見ている。きっと夏目にとってとても大事な想いを猫は見ている。
けれど見上げた夏目はいつでも辛い顔をしている。しょぼくれた、湿っぽい顔をして、ため息をつく事さえ我慢して、じっと身の内に彼への感情を押し込めていた。きっと今までもこうやって耐え続けて来たんだろう。そして、これからも。
夏目は少し変わった。出会った頃より少し前向きになり、昔の心の傷のようなものも少しずつ癒えて来ているのだろう。
だけど、結局今、夏目はまた傷を増やしている。
全くダメなやつだと猫は思う。どこから見たって上手く行くわけがない恋を、手助けも出来ない想いを何度も見てきたくせにちっとも学習しない。ただ傍らで見守るだけしか出来ない悲恋をいくつも見てきたのに、本当にバカなやつだと殴り付けてやりたかった。
けれど猫は何も言わない。言わずに、ただ夏目の肩で大きく欠伸をした。
人とは何とも面倒な生き物だ。だが、そんな人をただ見守るだけの自身も、また酔狂なモノであると猫は心中で呟いた。
廊下を過ぎ、階段を昇る夏目の肩の上で猫は本日何度目かのため息をつく。夏目には決して零せない、諦めと哀愁がそこにある。
2009/03/01