空の真似事 -preview-
「名取くん、名取くん。ねえ、名取くんってば!」
何度も呼ばれてようやっと気が付いた。
ぼんやり顔を上げる。見上げると、顔見知りの女の子が声を掛けていた。同じゼミを取っている子だ。
でも、知っているのはそれだけで、妙に甘えたような仕草のその子の名前なんて知らないし、聞いたとしても覚えるつもりもない。名取は誰にでも通用する同じ笑顔で彼女に笑い掛けた。
「なに、どうかした?」
「ねえねえ、明日ってヒマー?」
「ああ、どうだったかなあ」
「ねーヒマじゃないの? ご飯食べに行こうよーみんなで!」
みんなって誰と誰だ。
心中だけでため息をつきながら、名取は携帯電話を取り出してカレンダーに搭載されているスケジュール帳を眺める振りをした。
もちろん、そこに何か予定が記入されているわけではないのだけれど。
「あ、ごめん。明日仕事ある」
「えー、仕事なのー? 明日、名取くんの、」
「悪いね、また今度」
適当にそれだけ言ってしまうと、名残惜しそうにする彼女の言葉を遮って名取はカバンを抱えて席から立ち上がった。有無を言わせぬ笑顔で手を振ると、そのまま講堂から出て行く。
キャーキャーと甲高い声で友人らしき人に何かを叫んでいる彼女の声が聞こえたが気にもしない。音は名取の耳に入らず、空気をすり抜けて行く。
明日の仕事、と言うのは確かに嘘ではない。
名取が大学生となって早二年が経った。高校生の頃から続けている俳優業もだいぶ忙しくなってきており、最近では端役とは言えきちんと名の付いている役や、レギュラーで貰える仕事も増えている。頭の中に仕舞われているスケジュール内容はそういった仕事で埋められることが多くなって来ており、それなりに名も売れてきている。それくらいの自覚は持っている。
そして、学内では名取がそういった仕事を抱えた役者の端くれであることを知っている人も多い。そのせいで無遠慮に近付いてくる人も多いが、それもまた仕事の名の下に突き放すことも出来るようになってきた。
尤も、明日の仕事はそんな表稼業のものではなく、誰も知らない裏稼業の仕事ではあったが。
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「的場」
呼ばれて、的場は髪を流して振り返った。部下は、呪術を施された紙を絡み付けた細い糸を引きながら的場を呼んでいる。
「ああ、掴まえましたか」
「はい。だいぶ暴れましたが、何とか」
ずるずると紙と糸を引きずりながら的場に近付いた部下は、それをそのまま手渡してくる。糸の先には、先ほど祠を破壊して捉えた妖の姿が在った。
鳥のような羽を背負い、面を付けたその姿はどこにでもある妖の姿だった。的場にとっては、人よりもずっと見慣れているものだ。
ただ、多量の血を流し、死んだように黙ってうずくまっていることだけがいつも見ている妖とは違っていた。
「あまり暴れないで下さい。ちょっと聞きたいだけですよ」
いつものように、どこか慇懃無礼な口調で何事もなかったかのように妖にそう語り掛けるが、静かな声にも妖は反応しない。ぼたぼたと羽から流れ落ちる血もそのままに、ただじっとうずくまっている。
首に付けられた糸を引き、的場は妖の首を締めたがやはり反応はしなかった。
「死んでいるわけじゃない。そうですね」
「はい、勿論です。生きたまま捉えました」
「それなら喋れるでしょう。何か話してくれませんか?」
口調だけは穏やかにそう語り掛けるが、妖はやはり返答を返さない。元々気の短い的場はすぐに焦れると、糸を強く引いた。
「……う……」
「喋れないわけじゃないでしょう? まずは名から教えて貰いましょうか」
更に首が絞まり、妖は小さな呻き声を上げる。その断末魔のような声を聞きながら的場は妖のすぐ傍まで近付いた。
その次の瞬間、的場はすぐに一歩を引くことになる。
「的場!」
叫んだ部下の声が一瞬聞こえなかった。何かに導かれるように的場は身を僅かに横にずらす。
そのすぐ脇で、妖の爪が空を引っかいていた。
「下がってください!」
走り寄る部下の声を理解していながら、的場はそのまま下がることなく妖の首に巻きついた紙と糸を引く。妖がひどく苦しげな悲鳴を上げた。
「逆らわないで下さいよ。それとも、違うもので縛りますか?」
手足を振り回し、自我を失くしたように暴れ出した妖にそう言ったところで意味はない。わかっていたが、的場はいつもの癖でそう話し掛けてしまう。
勿論、返答など返る筈もないのだが。
当たり前のように答えが返されることはなく、ばしりと妖は周囲の木々を蹴り飛ばし土煙を上げる。空間が衝撃で歪むような感覚がし、的場がしまったと思うより先に、糸を引いた腕の力が緩んでしまった。
「的場!」