idea's sweet soul
三月程前の事だ。周一の苗字は「名取」になった。
その前の苗字はもう忘れろ、と言われているので周一は決して口には出さない。
でも、やはり「名取」と呼ばれるのには慣れない。その時も「名取くん」と呼ばれてなかなか気付けなかった。
「名取くん?」
「あ、はい! すみません!」
こちこちに緊張していた周一は強張った仕草で顔を上げた。居並ぶ大人たちはくすりと僅かな笑いを浮かべ、どこか微笑ましげにその顔を見た。
笑顔にほっとする。口元が綻んで、周一からも笑顔がこぼれた。
すると、大人のうちの一人がはっとしたように周一を見た。じっと周一を見つめ、さらさらと手元の紙に何か書き込んで行く。きょとんとする周一を尻目に、大人たちのうちの何人かが眼を見合わせている。
ほーっと口を開けている周一の顔を見ながら、年嵩の女性が優しげに周一に声を掛けた。
「そうね、それじゃ名取くんの自己紹介から始めて貰いましょうか」
「はい! 名取周一です。高校一年になります!」
以前教わったように、名前と年齢から始める。はきはきと答える名取を眺めながら、数人の大人たちは紙に手を滑らせた。
「お疲れ様、良く言えてたね」
帰り際、つい最近入ったばかりの芸能事務所の男性スタッフと一緒に道を歩きながら、周一は深く息をついた。
「すごい緊張しましたよ。オーディションってあんななんですか?」
「うーんそうだね、今日は割とラフな感じだし自己紹介だけだってけど、演技を要求されるものもあるからね。そういう時は大変だよ」
「そうですか」
「まあでも、今回は……っと、待ってね」
スタッフの携帯電話が鳴る。ピリピリとうるさく鳴り響く電話のボタンが押され会話が始まった。
「はい……、はい、僕ですが。ええ、はい……え?! いやあ早いですね、即決じゃないですか……はい、わかりました。伝えます。これから戻りますので」
ピッと簡潔な会話のみで電話は切られたが、スタッフの声はどこか上ずっている。喜びを隠しきれない様子だ。
「名取くん、おめでとう! さっきのオーディション合格だってさ!」
「え?! ……早すぎじゃないですか?」
「そうだね。名取くんが最後の一人だったんだけど、監督がこの子にするってすぐ決めたんだってさ。いやあ良かったね、初仕事おめでとう」
喜びにはしゃぐスタッフと違い、名取は何となく呆然としていた。
名取家に引き取られてまだ三月。余り血の繋がっていない親族が、こいつは顔はいいから、と言ってツテを頼って入れさせた芸能事務所に所属してまだ一月。こんなに良い結果が残せるとは思っていなかった。
少し前まで誰からも疎まれて、誰も周一を見たりしなかったのに。
「名取くん、大丈夫?」
「……ああ、はい……何か信じられなくて」
「だよねえ、わかるわかる! とりあえず事務所に戻って社長に報告しよう。仕事になったら現実味も沸くよ」
はしゃいだスタッフの声がどこか遠くに聞こえる。
一瞬で、名取家に来る前までのモノクロの日々が遠くに吹っ飛んで行くように思えた。誰にも大事にされなくても負けたくなんてなかったけれど、今はもっと強くそう感じる。
負けたくない。本当はきっと何だって出来るんだ。抑えつける必要なんかないんだ。
まだ幼い名取は、それでもその身体に決意をみなぎらせて、立ち上がった世界の先を見ようと顔を上げた。
2009/03/01