羊の話
的場はきれいなものには興味がなかった。
物心着いた頃から周囲の大人たちはどろどろとした汚れた感情ばかり的場に見せていて、人とはどろどろした汚い生き物だと思っていたし、妖なんてもっと汚いものだと思っている。かと言って他の物や生物に美しさを見出そうとしても、結局は美しさを見ることは出来ない。周りは全部汚いものだらけだ。
要は、的場はきれいなものには縁がない。それを欲しいとも思わない。興味もない。
「で、何の用件ですか」
さらりと的場がそう告げると、眼の前の男は嫌そうにそのきれいな顔を歪めた。
男は俳優などと言う、的場には存在の意義すら理解出来ない職種を本業としている。妖祓いとして知られる名取家の名を引き継ぎながら、一体何故そんな職種を選んでいるのか的場にはさっぱり解らない。最も、理解するつもりもないのだが。
ただ、彼が見目がいいだけでそんな仕事に就いているわけではないことは知っている。
今も、苦虫を噛み潰したような名取の表情はそれだけを切り取るなら決して美しいわけではないのだろうに、とても人目を惹き付ける。人の顔の美醜になど全く興味のない的場にもそれは理解出来る。
「例の妖。そちらが持って行ったんでしょう。それに呼び出したのはそちらでしょうが」
「ああ、あの。全く、思ったより凶暴でね」
「知りませんよ。とにかく、わざわざ呼び出したんなら、金払ってもらいますよ」
苛々とした口調の名取が勢い良く手を下ろすと、畳にぱしりと彼の着物の袖が触れて跳ね返る。その仕草さえ無駄に優雅に映る。暗い部屋はそこだけ切り取られたようにぼんやりとした明かりが射すようにさえ見えた。
人も妖も見目だけでは計れない。的場はこの世のものとは思えないほど美しい妖や人を掃いて棄てるほど見てきたが、そのどれもが見目の優美さなど何の意味も持たないほど狡猾で手酷く、そして残忍だった。世に美しいと評されるものほどその傾向が強かったように思う。
故に、的場の中での名取の評価はとても高くはあった。見目は良く、甘い部分もあるが賢く狡猾で残忍な面を持ち、何より的場家に関わろうとしない。非常に利口な男だと、そう評価していた。
「金は払いますよ、契約ですからね。どうぞ」
「どうも」
大き目の風呂敷に包まれた札束を差し出すと、名取は遠慮なくそれを取った。後ろに控えている式にそれを持たせ、出された茶を一気に飲み干す。
また袖が畳に触れて跳ね返る。空気がかき回された。
「用件が済んだんなら帰りますよ」
さっと立ち上がろうと畳に手をついた名取の指に黒い影がよぎった。見慣れた家守がまるで挨拶でもするように的場の目線に下りる。嫌そうな顔をした名取とは裏腹に、的場はそれを見て少し笑った。
「相変わらずですね、それ」
「ほっといて下さい」
「気味悪いでしょうに」
「……そうでしょうね」
一瞬だけ、名取は生気を失ったような声でぽつんと声を返す。意外な反応が返って来て、的場は首を傾げた。
彼はこの家守に触れられるのを快く思わない。それを知っていて、的場は彼の心情を逆撫でしてやろうと思っただけだ。いつものようにからかって攻撃的な返答を引き出してやろうとしただけなのに、こんな反応をされてはつまらない。
面白くなかったので、的場は名取をまた別の方向から怒らせてやることにする。
「あの、古井戸の依頼。そちらが持っていったそうですね」
「……何か問題でも?」
「私が請ける予定だったんですがね。まさか横やりが入るとは思いませんでしたよ」
「横やりなんて入れてませんよ」
「依頼主は的場を指名するつもりだったそうですが」
「名取でも構わないと言われましたよ」
「確かに……名取でも構いはしないと言っていましたが」
すっと姿勢を正して立ち上がった名取を見上げる。眼帯に遮られた眼で見ても、彼の姿かたちの全てが整っているのが解る。
何をしていても、きれいなものはきれいだった。
「的場に立ち入るな、名取」
「何がですか」
「お前の都合なんて私は知りませんが、的場にこれ以上損失を与えるつもりなら考えがある」
醒めた声で告げると、名取はぎりっと唇を噛んで的場を睨んだ。
やっぱり面白いな、と的場は思う。この男を怒らせて感情を波立たせるのなんて簡単だ。妙に澄ました美しい顔を崩すのは面白い。
「おれは的場に関わるつもりはないんで。これ以上も何も、最初っから立ち入ってない」
「へえ」
「それだけです。行くぞ、柊、笹後、瓜姫」
かたんと音を立てて、彼は式を引き連れ部屋を出る。さらりと髪が流れる様を見て、遠ざかる足音を聞きながら的場はくつくつと笑った
簡単に汚れるものだ。名取はきれいだけど、いつだって汚れているから面白い。
ただきれいなだけのものになど興味はない。
泥にまみれて汚れた石に宿る僅かな光なら見てやってもいい。いつだって、そんなものしか見ていない。
2009/08/05 [reprinting]