光について -preview-






 夏目とニャンコ先生が初めて踏み込んだ名取の部屋は、それはもう恐ろしい状態だった。


「……名取さん」
「……おい、小僧」
 ごく小規模の部屋数の少ないマンションの最上階、他に部屋のない階の廊下にいる段階ではそこはごく普通のマンションだった。きれいに掃除された廊下も表札のない玄関先も考えていた通りそのままで、夏目はそれを見ながら何となく安心した。見目は全く違うものの、今まで住んでいた藤原家の、古くとも居心地のいい空間とそれほど変わりないように見えたからだ。
 けれど、部屋に入れられてすぐに夏目とニャンコ先生は揃って見事に絶句する羽目になった。
「あはは、ごめんね。片付ける暇が全然なくて」
 悪びれなく笑う名取に一人と一匹の冷たい眼が向けられる。
 まず入った居間は結構広い。藤原家の居間よりも広いと思われる。
 だが全く広さなど感じない。壁には天井まで届く本棚がいくつも連なり、全てにぎっしりと本が詰まっている。床にもいくつも本の塔が積み上げられ、一部は雪崩を起こしていた。更にその隙間を縫って書類の束、束、束。黄ばんだ古い和紙から真新しいコピー用紙の束まで紙が山になっている。唯一、小さなテーブルの上だけが何もなくきれいな状態だったが、その周りにはやはり無数の本と紙が散らばっていた。
 床に落ちていた古びた紙を踏みそうになり慌てて摘み上げる。そこには夏目が見たことのある陣が描かれていた。
「だから汚いよって言っただろう?」
「いくら何でもここまでとは思ってませんでした」
「最近はちょっとひどかったからなあ。忙しすぎて」
「それは知ってますけど」
「これはないぞ、名取の小僧」
「ここなんてまだマシかも。寝室はこれどころじゃないんだよね」
 ははは、と笑う顔を見ながら夏目は眩暈がするようで眉間を押さえた。ニャンコ先生の言葉ではないが、これはいくら何でもないだろう。
「まあこっちにおいで。猫ちゃんは夏目の肩に乗ってた方がいいよ」
 促されて部屋に入るが、足の踏み場などない。先生を肩に乗せた夏目が本や紙を避けて何とか部屋の奥へ進むと、名取は室内の東側に位置する引き戸を開けた。
「この部屋を使いなさい」
 引き戸を開けた先には六畳ほどの和室が在った。藤原家の夏目の部屋より少し狭いくらいの部屋は居間の惨状と反して全く物が置かれていない。床には数日前に夏目が送ったいくつかのダンボールが置かれているだけで他には何もなく、驚くほどきれいだった。真後ろの居間の様子と比べると余計きれいに感じる。
「あ、はい。ありがとうございます……でも、何で」
「ここだけきれいかって? ここだけ、結界を張ってないんだ」

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 息が切れた。
 ふとあの夏の日を思い出して夏目の意識が飛んだ。あの日も確か、喉が痛むほど走り続けていた。駆け上がった坂の途中、千切れて落ちていたひまわりの花の色をひどく鮮明に思い出す。夏の日の空は青く、花は眼に痛むほど鮮やかな黄金色だった。
 その景色とは全く違う景色の中を走りながら、喉の痛みやもつれそうになる足の重みをあの日に重ねていた。
 夜の山中の暗さは街中の比ではない。真っ暗な闇の中、いつ見失ってしまってもおかしくない小さな紙人形を追って夏目は走り続けている。そんな所もあの日と同じだった。闇に囲まれた空と眼の醒めるような青空は全く違うけれど、どうしてか今あの日のことばかりを思い出す。
 息が切れるほど走り続けることなんて、いつものことなのに。
「おい、夏目!」
「先生!」
 空の上からニャンコ先生が本来の斑の姿で夏目を呼んだ。見上げた夜空に白い獣が浮かぶ。ぜえぜえと荒い息を吐きながら夏目はほっと安堵する。
 ようやっとこのとんでもないマラソンを終わらせられると思ったからだ。先生が背中に乗せて連れて行ってくれると夏目は信じて疑わなかった。
 だが、その背に乗せてくれる筈だった獣はあっさりと夏目を追い抜いて飛んで行ってしまう。
「ええ?! 先生どこ行くんだよ!」
「今は助けてやれんぞ、一人で走れ!」
「待て、乗せてってくれよ先生ー!」
「無理だ! そのまま、まっすぐ行けよ! 小僧はそっちだ!」
 無情な一言を残し、真っ白の獣はそのまま夜空を駆け抜ける。
 本当に夏目を置いて獣は去ってしまい、夏目が落胆した次の瞬間、人のものとは思えない悲鳴が響いた。
「……妖、か?」
 ぎっと唇を噛むと、夏目は改めて紙人形を見上げた。猫のことは忘れて、先を走るそれを追いかけて藪をかき分けて行くと、その先にぼんやりとした光が見えた。それに向けて飛び降りる妖の姿も眼につく。
「柊?!」
 叫ぶと妖が顔を向けた。見覚えのある面を確認すると、夏目は藪を蹴って一気に茂みを跳ねた。
「あ」
 その途端、夏目は呆けたような声を上げる羽目になる。
「うわっ!」
 藪を抜けた先で名取が手を合わせていた。危うくぶつかる寸前で、夏目を認識した名取に強く腕を捕まれ引っ張られる。
「わーっ!」
 腕を捕まれたおかげで何とかスピードは緩んだものの、夏目はそのまま地面に転げ落ちる。ザッと大きな音を立てて足が地面を擦り、一瞬の痛みが走った。眼が眩む。
 だが、夏目が状況を飲み込めていない状態のままで名取は掴んだ腕を強く引いた。そうして引かれた手に呪符を掴まされると、力を込めて地面に手を押し付けられる。重ねられた手がひどく強い力で夏目を掴んでいた。
「名取さん?!」
「集中していろ、来る!」
 いつもの柔らかさなど欠片もない、荒い声で名取は夏目の手を更に強く握った。掴まされた呪符が淡い光を放っている。
「先生?」
 名取の頭上、見上げた夜空に白い獣が見えていた。元の姿に戻った斑が追っている妖は資料で見たものとよく似ている。今回捕獲する妖に違いないと、夏目もまた確信した。
 叫び声を上げる妖は斑と名取の式たちに追われて落ちてくる。
 眼の前の地面に大きな妖が落ちた。途端、描かれた陣が光を放つ。
「夏目!」
 頭上で名取が呼ぶ声がして、夏目は慌てて呪符を握る手に力を込めた。
 集中すると脳裏にイメージが沸く。妖が陣に絡め取られ、封印が施された呪具に吸い込まれていく様子がひどく鮮明に脳裏に浮かび、夏目は、はっと顔を上げた。

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 小さな問い掛けを聞くと、猫は眉間に皺を寄せた。そうして嫌そうな顔をして、ふああ、とわざとらしく大きな欠伸をする。
「愚かだな、小僧。それを私に聞いて答えると思ったか?」
 突き放すようにそう告げると、猫はまた小さな手を身体の下に隠して丸まってしまう。それを見ながら、名取は大きく息をついた。
「……いいや。聞いてみただけだよ」
 予想していた回答はそれでも思っていたよりずっと大きく名取の心中に突き刺さる。
 知っていた。猫はいつだって二人を見ているだけだ。稀に夏目を助けることはあっても、名取にも夏目にも将来の行先やその回答を示すような真似はしない。自分の道は自分で決めろと、猫はいつもそう示している。
「ふん」
 鼻を鳴らし、猫は眼を閉じる。
 猫ともそれなりに長い付き合いを経ている。
 夏目と名取が過ごす日々の中で、猫は柊と同じようにいつも側で二人を見ていた。それは妖にとってはひどく短い時間なのだろう。けれど人にはそれなりに長い時間が経っている。人である名取と夏目には長く感じられる年月を、二人は猫や柊や他の妖たちと共に過ごして来ていた。
 そして、この数ヶ月の間によりその密度が濃くなったように名取は感じている。人と会う機会は多い筈なのに、夏目と話して触れている記憶ばかりが身に染み付いている。二人と妖だけが名取の記憶に残っていて、名取は少しずつそれに危機感を感じている。
 二人と妖だけ、と言う単位はいいものではない。名取にとっても、夏目にとっても、二人だけではない他者と過ごす時間が必要だ。
 それを夏目に与えて上げられていない。夏目に必要なものを、上げられていなかった。
 確かに、余り多くはないけれど名取はいくつかを夏目に渡した。それは技術であったり物であったり住む場所であったりしたけれど、そんなものが本当に夏目に必要だったのかどうか名取には解らない。
 名取の側に夏目の居場所を作ってしまったけれど、そして彼はもうそれに慣れてしまったようだけれど、それはもしかしたら、不必要な、余計なものだったのかもしれない。
 きっとそうだろう。それは夏目に本当に必要なものじゃない。そんなものは大した役には立たない。彼の為にはならない。
 でも、だからと言って夏目に本当に必要なものを上げられない。夏目の役に立つ、彼に必要なものが何か解っていても、それを上げることが出来ない。
 今の名取は全くの役立たずだ。妖を見る力をなくした自分が一体夏目にとって何の役に立つんだろうと、そう思いながら何も出来ない。
「全く、お前も夏目も」
 ぼんやりと考えながら猫を撫でていると、眼を閉じたままの猫が口を開く。どこか遠くでその言葉を聞いていた。
「全て理解しているくせに、何故そうもまどろっこしい真似をする。私にはお前らがわからんよ」

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「夏目、私は呑んで来るからな! ええい呑まねばやってられん!」
 そう言うと猫はまたベランダに出て、獣の姿に戻ると空を飛んで行く。夜空を優美に飛んでいく獣の後姿を見送りながら夏目はぐらぐらと揺れる頭を押さえた。
 ひどい頭痛は治まらない。動かない足で、夏目は柊の示した方向に歩いた。
 息を詰め、寝室のドアを開ける。
 かたりと小さな音と共にドアは簡単に開き、一歩踏む込むと何か資料のような紙を踏んでしまった。
 窓から差し込む月明かりしか明かりはない。ただそれだけの明かりでも、この部屋がかなり散らかっているのが解った。普段は余り踏み込まないでいたせいか、居間と違い掃除は行き届いていない。床には相変わらず本がうず高く積まれていた。
 本の山に埋もれるように置かれたベッドの上で、小さくなって眠っている人を見た途端また頭が痛んで夏目はずるりと座り込む。ベッドの端にぼすりと頭を預けた。
 どうしてなんだろう。どうして何ひとつ上手く行かないんだろう。
 離れたくないのに、出口は見付からない。時間は刻々と過ぎ去ってしまい、一歩を踏むごとに取り返しが付かなくなる。それでも何ひとつとして答えは見付からない。それどころか、決定打を叩き付けられて打ちのめされるばかりだ。希望は何も見えない。
 もし、今、夏目自身も見えなくなれば離れずにいられるのだろうかと、有り得ないようなことさえ考える。
 けれどそんなことは叶うのだろうか。
 ずるずるとシーツの上で頭を振った。
「……夏目?」
 衣擦れの音と共に声が掛かり、夏目は重い頭を上げた。
 眠っていた筈の人の掠れた声が聞こえたが、重い眼はその姿を上手く認識してくれなかった。何度か眼を擦り、ベッドの上に起き上がった人をようやく見上げる。
「すいません……」
「……何で謝るの」
「起こしたから」
 そう言うと、くしゃりと柔らかに髪を撫でられた。いつもと変わらない仕草が却って痛むような感覚がした。
「……今日、学校行ってた?」
「いえ」
「そう。どこ行ってたんだい?」
 静かな声でそう問われ、もう何も隠すことなどないと思った。何をどうすべきか解らず、出口の見付からない現状はきっと名取も変わらない。
 彼が知っていることを、知りたかった。
「的場さんに、会いました」
「……的場に?」