箱庭にて -preview-




本編「箱庭にて」はwebに記載したものから加筆修正。現在web上には記載しておりません

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[マスターピース]


 初めて入った部屋は、もうがらんとしていた。
 片付けられて纏められたダンボールが部屋の端に積まれていて、数少ない家具の中身はすっかり空になっている。まだ付けられたままのカーテンが窓から流れる風に揺れる微かな音と、シーツが敷かれたままのベッドだけが人の生活の痕跡を残していた。
 余り広くはない筈の一人暮らし用の部屋が妙に広く感じる。
 ベッドを背に、床の上に残されたクッションの上に座り込んで夏目は部屋を見渡す。積み上げられたダンボールのほとんどに走り書きで本と書かれているのが眼に着いた。
 眼に映る物の、そのひとつひとつにどことなくさみしさが滲んでいた。
「夏目? どうしたの」
 ぼんやりと部屋を眺めている夏目の前に人影が落ちて、見上げると名取がペットボトルを二本持って立っていた。
 はい、と渡されたお茶を受け取ると名取も床に座り込む。
「ぼーっとして、どうしたの」
「いえ……その、本当に引っ越すんですね」
 少し沈んだ声で呟くと、名取は困ったように笑って夏目の髪を撫でた。
 そんな顔をさせるつもりじゃない。そう思っているけれど、やはりさみしいのは事実でそれを隠せない。
 困らせたいわけじゃない。だけど、どうしたって何も隠せないし、それでいいんだと教えられている。
 きっともうこの人の前では何も隠せないんだろう。今まで押し込めてきた感情が少しずつ表に晒されていって、それを受け止めて貰えることを知っている。そうやって解放されていくことで、身体も、内側に詰め込んだ重い感情も楽になっていくのを夏目は感じていた。
 少しずつ遠慮をなくし、さらけ出して行く。
「ここにずっといても不便だからね。寮に入れるみたいだし」
「そうなんですか?」
「うん。前いた事務所がまた使ってくれるって。舞台の端役の話も貰ったし」
 そう安心したように名取が言った言葉の意味は、夏目には正しくは解らなかった。
 夏目には名取が選んだ道の困難さがまだ理解出来ない。元々演劇に興味があるわけでもなく、テレビもろくに見ない夏目には名取が身を置こうとしている業界のことなど朧気にしか解らない。
 そして、名取もそれを丁寧に説明しようとはしなかった。ぼんやりとした言葉で濁すように、これから先の忙しさを伝えるだけだった。
 そうして、夏休みが終わったら教職を辞めること、この小さな田舎町から引っ越して利便性のいい都会に移ることを夏目だけにそっと教えてくれた。
「そうだ。今日、遅くなってごめんね」
「仕方ないですよ、急に言い出すから」
 そうため息をつくと、名取は決まり悪そうな仕草で頭をかいた。
 夏休みの半ば頃、名取は夏目にだけ学校を辞めてしまうことをそっと教えてくれた。
 だが、当たり前だけれど彼は他の生徒たちには誰にも何も言っておらず、夏目の他には数名の教職員のみが彼が退職することを知らされているだけで、他には誰も何も知らされてはいなかった。
 そうして今日の朝になって、教卓に立った名取本人によっていきなりそれを知らされた一年二組は大騒ぎとなり、収拾が付かなくなって他の教師が騒ぎを収めなければならないほどひどい騒動となってしまった。
 それは演劇部でも同様の事態となったようで、別れを惜しんだり引き留めたりする生徒たちに囲まれ続けた名取が学校から抜け出せたのは陽がとっくに落ちた頃のことだった。
 夏目は始業式が終わってすぐに帰宅してしまったので、クラスの中の様子はともかく、演劇部の様子まではよく知らなかったが。
「でも、なんて言ったんですか?」
「ん? 何が?」
「何で辞めるの、とか聞かれなかったんですか?」
「ああ、散々聞かれた。学生に戻るって言っておいたよ」
「何それ、うそつき」
「嘘じゃないよ。研究生になるんだからさ、間違ってはいないよ」
 くすくすと笑い合っていると、名取はこつんと夏目の額に額をぶつけてきた。柔らかい髪が触れて、少しだけ鼓動が跳ねる。
 夕方、学校から一度家に帰り、藤原家の家族に今日は泊まるからと断りを入れてまた家を出てきた時に感じていた、妙な違和感が蘇る。むずがゆいような感覚がおかしくて、身体に力が篭った。
 夏休みの間も二人は学校だけでしか会っていない。一度だけのキスと、誰もいない場所で近い距離で話して手を繋ぐのが精一杯の短い触れ合いだけが夏の日々の全てだった。
 そのままで、たったそれだけで離れてしまうのかとぼんやり思っていた頃、いきなり合い鍵と共に名取が住んでいるこの家の住所を渡されて夏目はひどく驚いた。九月一日に泊まりにおいで、ときっちり日まで指定されて取り付けられた約束を破ることなんて夏目には出来ない。夏目は約束に従って、今日の夕方頃から閑散とした部屋で名取を待っていた。
 そのときも特に何も考えていなかった。ただ、妙な違和感だけを持っていた。
「夏目」
 ふいに強ばった夏目を安心させるように、ひどく優しい声が耳に落ちる。
 何かが怖いわけじゃない。けれどその声を聞いていると、反射のように安堵する。夏目はそうっと息を吐いて身体の力を抜いた。
「ごめんね、呼びつけて。でも、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
 ゆっくりと伸びた手が夏目の髪を撫でる。柔らかい声に反して、手はどこか不安そうな気配を伝えてきていた。
「まだ、聞いてなかったから」
「何ですか?」
 促すが、名取は息を呑んで声を濁した。顔を伏せ、夏目の肩にことんと頭を預ける。
 触れてくる髪からは、もうかぎ慣れてしまった匂いがした。
「……おれは夏目が好きだよ。でも」
 少しの沈黙を経て、名取がゆっくりと声を繋ぐ。固い声は彼の緊張や重い思慮を伝えて来ていて、湿った空気が声に合わせて震えていた。
「多分、おれたちが一緒にいるのは、普通じゃないから」


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[天気予報の嘘]


「夏目ー、今日屋上行こうぜー」
「屋上?」
「うん、田沼と北本が天気いいから外で食おうぜ、だって。さっき言ってきた」
「わかったー」
「おれ購買行くから、先行っててくれよ」
「おう」
 昼休みの鐘が鳴った途端、勢いよく振り返って夏目に告げた西村に了解して手を上げると、カバンから取り出した弁当を持ち夏目は席を立った。西村が後でな、と手を振って教室を出る。その後で、夏目も荷物を抱えて教室から出た。
 廊下の窓から覗く空は晴れ渡っていた。日差しは暑く照りつけているが、窓から吹き抜ける風は温度も湿度も下がっていて心地いい。
 眼の前で夏が過ぎ去ろうとしている。
「夏目くんー」
 ふと声を掛けられて振り返ると、後ろから多軌が走り寄ってきていた。小さなカバンを抱えた多軌の手には、カバンの他にもいくつかのクリアファイルが握られていた。
「多軌」
「西村くんから聞いた? 屋上行くって」
「うん、聞いた」
「一緒にいこー。田沼くんたち多分先に行ってるよ、今日四限が美術なんだって」
「ああ、美術室近いからか。荷物持ってったのかな」
「そうそう」
 他愛ない会話が過ぎていく。階段を並んで上りながら揺れる多軌の髪を見て、夏目はぼんやりと最初に彼女と話した初夏の日を思い出した。
 あの時は何もかもに戸惑っていた。何の意識もせずにごく普通に話しかけてくれた多軌や田沼と上手く話せず、普通の受け答えが出来ずに緊張しきった短い会話だけが精一杯だった。
 それが、いつからこんな風に自然に話せるようになったんだろう。いつの間にか何気ない会話を何気ない仕草で自然に交わせるようになり、小さな沈黙も気にならなくなっていく。
 もう一緒にいるのが当たり前のようになっている。初めて友達と呼べる人が出来たこの場所に居てもいいんだと、今の夏目は解り始めている。
 初夏の日に手を引いてくれた人の、その温度を思い出す。あの日背を押してくれた手がなければ、きっとこんな未来はなかった。
「わーいい天気!」
 階段を上る間のほんの数秒の沈黙はすぐに過ぎ去った。屋上にたどり着き重い鉄製のドアを開けると、そこには青空が広がっていた。
「おー、来たかー」
「もう食べてるぞー」
 コンクリートの床の上で、北本と田沼がひらひらと手を振っていた。それぞれの手には既に食料が握られている。
「早いねー」
「美術室だったからな」
「そうそう。西村は?」
「購買行ってから来るって」
「今から購買かよ、絶対売り切れてるな」
「だよな、今頃大変だぞ」
 けらけら笑った二人の脇で夏目は多軌と揃って座り込む。すると、多軌はぱしんと勢いよくクリアファイルを床に置いた。軽い透明のファイルが小さな風を起こす。
「それよりさ、うちのクラスの子なんだけど」
「演劇部の? 多軌の他に三人くらいいたよな」
「そうよー、みんな揃って辞めるって! もう退部届け出してるのよ、どうしよう」
 はー、と多軌が重いため息を吐くと、北本と田沼も揃って沈んだ表情になった。晴れ渡った青空に似合わない重苦しい空気が流れて、本当は関係ないはずの夏目でさえも事情を知っているせいで気まずく黙り込む。
 ため息と共に北本が後ろの柵に寄りかかって重く口を開く。
「でもさー、何で辞めんだ?」
「先輩が厳しくてーとか色々言ってるけど、結局せんせーなのよ。ほら、名取先生いなくなっちゃったから」
 脳に刻み込まれた名前が聞こえ、心臓が跳ねた。それを隠して何気ない仕草を装い、夏目は広げた弁当だけを見つめて食べ物を掴むと口に放り込んだ。
「先生? 何で先生?」
「あーそっか、男子はそんなに知らないよね。女子にすっごい人気あったんだよ、名取先生。ほら、最後の日だって大騒ぎだったじゃない」
「そういえばあの日凄かったな」
「怖かったよな、あの日。女子が殺気立っててさ、おれら挨拶も出来なかったぞ」
 なあ、と北本に同意を求められて夏目は曖昧に笑い返した。
 ほんの一月ほど前の日の話題が上り、何も言えない夏目は平静を装って笑いながら黙って弁当を食べるしかなかった。決して言葉は出さないよう、不自然でない程度に食べ物を次々と口に放り込む。
 今、あの日の夜のことを思い出してしまって動じずにいられる自信なんてない。三人が会話に夢中になっているのをいいことに、夏目は空を見上げて気を紛らわした。
「でも先生ってそんなに人気あったのかー。全然知らなかった」
「なあ、知らなかった」
「そうよ、一年生は半分は先生目当てだったからなあ……先生がもうちょっといてくれたらなあ」
 ため息をついた多軌の声が耳に届かないよう、夏目は殊更時間をかけて口の中の食べ物を噛み砕く。今、話を振られて冷静に返せるわけなんてなかった。
「てことは、更に辞めるのかなあ、女子」
「辞めそうなのよー。ほら一組の子、あの子たちもどうしようって言ってきたもん」
「でも引き留める理由とかねーよなー」
「そうなのよ! それでね、夏目くん」
「あ?」
 もごもごと食べ物を噛み砕きながら夏目は適当な返事を返した。多軌はその詰まった声など気にもしないように身を乗り出して夏目の顔を覗き込んだ。跳ねる心臓の音が聞こえてしまわないかと不安になるほど近付く多軌に、夏目は思わず身を引く。
「夏目くんさ、名取せんせーの連絡先とか知らないよねえ」