タキと田沼と夏目と先生











グラスホッパー




 タキは自分でも自分の事を割と温厚な方だと思っていた。女の子同士のちょっと陰湿な諍いにはあまり首を突っ込まないし、さほど悪口も言わない方だ。ましてや、人に手を上げたことなんて憶えている限り一度もない。それ以前に、あまり怒った事がない。
 それが、今。

「な、夏目ー?!」

 田沼の慌てた叫び声と青ざめた顔が視界の端に映る。
 タキに力いっぱい殴られた夏目がものの見事に地面に沈んでいる。女の子の力とは言え、手加減なしの渾身の一撃は結構なダメージを与えられたようだ。呆然とする夏目の白くてきれいな頬が赤くなっていて、それに少しだけ気が晴れた。
 だけど、そんな気持ちとは裏腹に涙がぼろぼろ溢れてくる。

「お、おい、夏目……」

 田沼と同じくらい青ざめた猫が恐る恐る夏目に近寄る。短くて小さくて可愛い手がプルプル震えながら夏目の足をぽんと叩いた。
 途端、タキはぶちんと切れた。

「え、う、わー!!」

 田沼の悲痛な叫び声が田舎道に響いた。タキは田沼の腕をひっつかむとぼろぼろ泣きながら猛烈な勢いで走り出した。
 夏目と猫に背を向け、田沼を引きずりながらタキは全速力で田んぼの脇道を走り抜ける。どこをどう走っているのかも解らないまま、ひたすら必死に走った。

「タ、タキ、いい加減……!」

 息を切らした田沼の悲壮な声がするが、タキは止まらない。田沼と同じように息を切らし、ぼたぼた涙を零しながら全力疾走する。夕方の道には人気がないのがせめてもの救いだった。

「タキ、もう、頼む、止まれー!」

 ぜんぜえと肩で息をしながら、痺れを切らしたように田沼がぐいっとタキを引っ張った。今までずっとタキに引きずられていたとは言え、やはり男の子の力で引っ張られれば女の子のタキでは敵わない。
 ぐらりと身体が傾き、タキは道の脇に逸れて草むらに足を滑らせる。田沼を引きずったまま、タキは草の上に転がり落ちた。

「わーっ!」

 相変わらずの叫び声で田沼も一緒に転がる。
 草むらに二人で落っこちて、タキは見事に一回転してからようやっと止まった。眼が回る。
 くらくらする頭を押さえながら起き上がると、隣で田沼が同じように眼を回して転がっていた。

「いってー」

 そうして頭を押さえながら起き上がった田沼を見上げると、さらりとした烏の濡れ羽色の髪から緑の草がぱらぱら落ちた。その脇で緑色の虫が驚いたように跳ねて逃げていった。多分バッタだろう。緑の草と緑の虫が黒い少年の姿に映える。
 どこか牧歌的な光景は田沼によく似合っていた。その姿は絵になる。
 夏目とは全く違った系統ではあるが、田沼もまたとてもきれいな顔立ちをしている。そんなのいつも見ているんだから解っている。解っているのだが、無性に腹が立った。

「タキ、どうしたんだよ……」

 打ち付けたらしい頭をさすりながら、心配そうに問い掛ける田沼に返事なんか返してやらない。ぎゅっと手を握ってから、タキはまた声を上げて盛大に泣き出した。慌てたようにおろおろする田沼なんか見てやらない。
 タキは夏目が好きだ。決して彼に恋をしているわけではないが、特別な友人だ。田沼もそうで、同じくらい好きだ。そこに恋は見えないが、大好きなのには変わりない。恋みたいな、そんな甘ったるい感情ではなく乾いた感情でさらりと好きだ。同じ特別な秘密を分かち合っている、大事な友達だ。
 でも、夏目にとってタキと田沼は特別なのかと考えると、それは少し違うと思う。
 解っている。夏目に必要なのはタキや田沼のように半端な力を持った子どもではなく、もっと先を歩いている、彼を導ける人だ。そんな大層なものにタキはなれやしない。田沼だってきっとそう。夏目を導けたりなんかしないだろう。
 そもそも、たかだか高校生の子どもが人を導けるわけなんてない。二人ともどう足掻いたって夏目の運命の人にはなれそうもない。
 でも、それが悲しいわけじゃなかった。
 タキが悲しいのは、夏目が多分まだ運命の人に出会えていないことだ。
 いつもそれが悲しいと思う。自分が夏目にとって運命の人になれないのが悲しいのではなく、大事な夏目にそんな人がいないのが悲しい。
 ずっと、そう思っていたのに。

「落ち着いてくれよー」

 心底困ったようにしている田沼が差し出したハンドタオルをタキは遠慮なくひったくった。力いっぱい涙を拭き、ついでに鼻もかんでおく。小さなハンドタオルはあっという間にびしょ濡れになった。
 今日、帰り際の校舎で、タキが大好きな可愛い猫を連れた夏目を見た時、一瞬で沸騰するほど腹が立った。あんまりにもきれいな顔をした男の子に頭が煮え立つほどの怒りが湧き起こった。
 タキだって女の子だ。それも思春期まっさかりで、可愛いものが大好きな真っ当な女の子だ。
 そして女の子である以上、きれいになりたいし可愛くなりたい。いくらタキが普段男の子の友人にばかり囲まれているからって、その願望が消える訳はない。
 だと言うのに、タキの周りで同じ秘密を抱える友人共ときたら、男の子のくせに揃いも揃って大層きれいな顔をしやがって。
 特に夏目ときたら、女の子のタキでさえも時折見惚れるくらいきれいなのに、ここ最近更にきれいになりやがっている。今日なんて本当に、今までになくきれいだった。完璧すぎて、頬に殴った跡のひとつも付けてやりたくなるくらい。
 今、訳のわからない怒りで泣きじゃくる自身の醜さと比べると、まるで天と地の差があるかのようにきれいだった。
 ああそういえば、とタキは思い出す。以前、夏目がこの人も見える人なんだよ、と言って写真を見せてくれたあの俳優さんも本当にきれいな顔をしていた。
 どう考えたっておかしい。何だってみんな揃ってあんなにきれいなんだ。男の子のくせに。きれいなんて言われたって、何の役にも立たないくせに。

「もう……」
「もう?」
「あ―――もう!!」

 タキが半泣きの声で野原に吠える。田沼がびくっと固まって何故かその場に正座した。
 夏目のきれいに少しずつ磨きが掛かって行くのがどうしてかタキは解っていた。
 誰か、大事な人が出来たんだ。それは多分、タキにはまだ解らないとても暖かい感情を夏目に与えられる人で、夏目に必要な特別な人だ。
 田沼も、タキも、誰もがなれなかった夏目の運命の人に彼はきっと出会えたんだ。
 今日、どうしてかそれを確信した。その途端、ものすごい怒りと共にものすごい嬉しさが沸き起こって、混乱したタキは思わず夏目を殴っていた。
 嬉しくて、嬉しくて、泣きながらぶん殴ってしまうくらいに嬉しかったんだ。

「夏目くんのばか―――!!」

 思いっきり叫んだ声にエコーが掛かった。青ざめた顔の田沼は正座したままこちこちに固まっている。
 良かったね。本当に良かったね。そう、タキは心中だけで繰り返し夏目に呟く。本当に、まるで自分に大事な人が出来たかのように嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、涙が止まらない。
 でも、夏目にまた会った時には良かったね、なんて絶対に言ってやらないんだとタキは心に誓っていた。
 女の子のプライドに賭けて、自分よりずっときれいな男の子の友人がこれ以上きれいになるなんて到底許せるわけがない。女子には女子の意地ってモンがある。どんなに夏目が好きでも、幸福そうな様子が嬉しくても、さすがにこれだけは譲れない。
 噴火した怒りを散らすように叫んでからぐずぐずと鼻を啜っていると、田沼が恐る恐ると言った風情でタキの頭に手を伸ばした。

「タキ、戻ろう。夏目に謝ろうよ」

 ぽんぽん、と優しくそう言って頭を撫でた田沼の手が暖かくて、タキはまたうわーんと声を上げて泣いた。
 何にも解っちゃいない。どんなにきれいでも所詮男の子は男の子。デリケートな女の子の気持ちなんてこれっぽっちも解っちゃいない。何てだめな生き物なんだ、男の子ってやつは。
 謝ってなんてやらない。その代わり、問い詰めてやるんだ。

 ねえ、好きな人出来たでしょ? って。




2009/04/26