Foundout,everyday
にゃー、と気の抜けた鳴き声が口から零れた。
実に猫らしい鳴き声と共に大きく口を開け欠伸をした猫を振り返り、嫌そうな顔をしながら夏目は持っていたペットボトルの蓋を開けた。
「先生、変な声出すなよ」
「変とは何だ、変とは」
「変だよ。猫みたいな声出してさ。ああいや、猫だからいいのか」
「そうそう……って、違うわ!」
最初は納得していた猫が額に青筋を立ててキーキーと叫び出す。だけど夏目はそれを無視してペットボトルの水を口に含んだ。こくりと喉を鳴らして残り少ない中身を全て飲み干すと、夏目はぐいっと手の甲で口を拭った。
その表情は落ち着いている。いつも夏目の全身から滲んでいた、風に吹き飛ばされそうなか細い儚い空気は薄れていた。
「ったく、猫は猫だろ」
「違うと言っておろうが! まあいい、今日は許してやる」
「何だよ、どうしたんだよ」
「今日はいい土産が手に入ったからな。特別だ」
ふん、と偉そうに鼻を鳴らした猫の背には小さな包みが乗っている。可愛らしいリボンや包装紙でラッピングされた、女の子らしい包みの中身はどうやら手作りのお菓子らしい。
学校の帰り道、夏目を迎えに来た猫を思う存分抱き締めたタキが今度会ったら渡そうと思っていたの、と嬉しそうに猫に手渡してくれた品物だ。きれいな包みをやや誇らしげに背に乗せた猫は今非常に機嫌が良かった。
心音のこと
「レイコさんも、おめでとう」
小さく呟いてぱらぱらと摘んだ花を川に流す。
脇で面倒そうな顔をした猫も小さい手から花を手向けていた。鮮やかな色の花たちが清流の流れに乗り、そのまま流れて遠くへと去って行く。
今年も同じ花を摘めたことに夏目は小さな満足感を抱く。去年も、一昨年も同じことをしていた。同じ花を摘んでは花を空に撒き川に流し、祖母への感謝を呟く夏目と猫だけの小さな恒例行事はいつもすぐに終わる。今年も誰にも見咎められることもないまま無事に花は流れを渡った。
未だに祖母の、レイコの誕生日を夏目は知らない。多分この先もずっと知ることはないだろう。だから勝手に自分の誕生日と同じ日に祝うことにしようと、そう決めたのは二年前だ。勝手に始めた行事は二年経った今も無事続いている。
ただ、今年は昨日大騒ぎしたせいで七月二日の朝にお祝いすることになってしまった。
誕生日当日の昨日は家族と人の友人たちからのお祝い騒ぎが続き、夜になって日付も変わる頃には妖の友人たちからのお祝いでまた一騒動起きた。おかげでさすがに疲れ果てた夏目は朝までぐっすり眠りこけてしまい、一日中にはレイコへの謝辞を捧げることが出来なかった。
だけど、例え日が変わってしまったとしても祝う気持ちが大事なんだろう。夏目は一人でそう納得している。
いつ祝ったってきっと構わない。もういない彼女に言祝ぎは届かない。これはただの自己満足なんだって夏目はよく解っていた。
「ありがとう、レイコさん」
ちいさく感謝の言葉を口にすると猫の欠伸だけがそれに応える。これもいつもと変わらないことだ。
誰も見てはいないし彼女はきっと何も知らない。それでも花は今年も同じ色で咲くし、猫は毎年変わらないだるそうな顔で付き合ってくれる。それだけで夏目には充分に思えていた。
「もういいのか、夏目」
「うん、帰ろう」
立ち上がった夏目の後に付いて、猫もまた短い足でよいせと歩き出す。
歩きだした途端に夏の朝の光が眼に飛び込んでくる。ひどく眩しい光を手をかざして遮って、空を見た。
今日は土曜日で、明日は日曜日。一度家に戻った後、電車に乗ることを考えて夏目は手を握った。
未明のゆりかご
障子の向こうに光が透けて見えていた。
外は夜明けが迫っているのが解る。山の中の宿の周りには街灯などろくになくて、夜の間の外はずっと暗闇だった。そこに差し込んだ陽の光はまだ弱いものの筈なのにひどく眩しい。
今の空は黒から濃紺へと移り変わっている。僅かに明るくなった空から滲んだ青を見て夏目は息をついた。
眠れなかった。名取に連れられて生まれて初めての旅行に来て、たくさん歩いて話して、夜は妖退治をさせられて、ひどく疲れているのに上手く眠れない。
考えることはたくさんあった。知らないことが山のようにあって、隠した夏目の秘密も潜んだ山盛りの謎も、全て容易に解決出来るものではない。わからないこと、言えないことが多すぎる。誰に何を問えばいいのか、何を言ってしまえばいいのかも解らない。
横で眠っている人の気配がその迷いを助長させる。
彼は、名取はどこまで何を知っているのだろう。夏目にはそれが解らず、かと言って問うてしまうことも出来ない。
問えば、夏目が何を抱えているのかも彼に知らしめてしまう。
どうすればいいのか迷って、考え続けて、だけどもう考えても詮無いことだと夏目は思い始めていた。迷ったところで今は答えは出ない。何の材料もないままで答えなど出る筈もなかった。
疲れた脳が休息を要求しはじめていた。青くなる空の色が僅かに部屋に落ちるのを見ながらうとうとと眼を閉じ始めたころ、ふと隣に転がっているはずの猫の温度がないことに夏目は気付いた。
「……先生?」