遠雷、その端に -preview-




 既に雨は止んでいた。
 蛍光灯の灯りの下、夏目はぷーぷーと寝息を立てるニャンコ先生の傷口を拭いて新しい布を巻いてやる。傷むだろう傷口に触れたり、転がしたりしても、猫は一向に目覚める気配がなかった。眠ったままだ。
「先生、起きないのか?」
 そう、小さく問い掛けても返事は寝息だけだった。
 ひどく沈んだ気持ちだった。的場一門が去ってから件の女性を病院に連れて行って預け、それから宿に戻るともうすっかり陽は落ちてしまっていた。名取に勧められるまま、宿の風呂で汗や泥や血に汚れた身体を洗って用意されていた清潔な浴衣に着替えても、心情はどんよりと沈んだままだ。
 矢に射抜かれた腕は不思議と痛まなかった。まるで何もなかったかのように、血なんて流れていないかのように痛まない傷の感覚が却って気味が悪かった。
 とても疲れていた。ごろりと猫の横に寝転がるとぷーぷーといつもの寝息が間近に聞こえて、夏目は大きく息をついた。ふかふかとした柔らかい毛の感触に少しだけ安心して、同時に深い後悔に苛まれた。
 何で。
 何で、あの時先生の言葉に従わなかったんだろう。羽の妖に対する義理も義務もなかった。ただおせっかいで首を突っ込んでしまっただけで、こんなことになるなんて思っていなかった。
 甘かったんだと心底思う。ただ自分の自己満足で誰かの為になりたくて走っただけで、けれど結局誰の為にもなれなかった。他者に迷惑を掛けただけだった。
 やっぱり誰の役にも立てない。いつでも無力を噛み締めているのに、改めて突き付けられるのはひどく辛い。
 深く深く、夏目はため息をついた。
「夏目、ただいま。寝ちゃった?」
 からりと戸が開く音がして、裸足の足音が聞こえた。畳を踏む音が直に響く。
「……お帰りなさい」

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「おれも、ひとつ言ってみてもいい?」
「何ですか?」
 問い掛けに答えず、柔らかに笑った顔で夏目を覗き込むと名取はそっと片手で夏目の眼を塞いだ。暖かい手のひらの感触がする。
「名取さん?」
 問い掛けても答えはない。代わりに、もう一度額に柔らかい感触が落ちた。
 今度は何となく解った。多分口付けられている。体温と柔らかみがそれを示していた。
 薄い皮膚の感触が心地よくて、夏目はされるがままになっていた。感触が額を滑って眼の縁を辿って、頬に触れても気にならない。流れて口の端に触れても、気持ちいいと思っただけだった。
 口の端に触れた唇がずれて、そのまま唇を重ねられてもうろたえもせずにそれを受け入れていた。
「なつめ」
 触れただけの唇はすぐに離れ、名取は困ったような声で夏目を呼ぶ。
 視界を塞いでいた手も離れた。身体が離れると体温が遠ざかるようで、息苦しい感覚が戻ってしまう。
 短く息をつぐと、名取はそうっと夏目の髪を撫でた。
「嫌じゃないの?」
「なにが、ですか」
「こういうふうにしても、平気?」
 するりと頬を撫でられ、また額に口付けられる。柔らかい感触は心地いいばかりで、拒絶しようなんて思わない。
 嫌だとは思わない。
 何も嫌悪なんてなくて、そう言いたくて夏目はゆっくり口を開いた。
「……平気、です」
「嫌じゃない?」
「嫌じゃ、ないです」