夜明けのディジット -preview-




冒頭略


------------------------------------------------------------------------

 ガラッと勢いよく窓が開く音がして、夏目はふっと眼を覚ました。
「夏目?!」
「ふごっ」
 見知った声に呼ばれたのと同時に、窓に寄りかかっていた先生がバランスを失って転がってしまい妙な声を上げた。
 夏目は上手いこと床に手をついた為転がらずに済んだものの、先生はそのまま床に転がって弾みでいつもの間抜けな猫の姿に戻った。
「名取さん」
 転がった猫を放ったらかして、夏目は立ち上がると窓際で呆然としている人に手を伸ばした。コートの襟を掴んで引き寄せる。
 そのまま抱き着いた所で、名取がはっとしたように夏目を引き剥がして肩を掴んだ。
「何してたの?!」
「何って、待ってたんですよ」
「おれを? 何でこんな所で!」
「鍵持ってなかったし」
「あーそうだった、あとで合鍵上げるから……いや、そうじゃなくて、もう十時過ぎてる、家の方に連絡して」
「ちゃんと塔子さんには泊まりに行くって話してきましたよ」
「……泊まりに?」
「友達の所に泊まりに行きますって言ってきました」
「誰の所に」
「名取さんとこ」
 そこまで言ってしまうと、名取は深く深くため息をついてしゃがみこんだ。力が抜けたように頭を下げる。
「……夏目、おれ、そんなの聞いてないよ」
「言ってないから当たり前ですよ」
「そうだね……いいや、とにかく入りなさい」
 はあ、と息をついた名取に手を引かれて部屋に入る。靴はベランダに置きっぱなしだ。
「……おい、夏目」
 手を繋いで部屋に上がった所で、背後から非常に恨みがましげな声がした。すっかり忘れていたが、所々薄汚れた猫がそれはもう嫌そうな不細工な顔で二人を見上げている。
「先生、どうした?」
「……もう帰るぞ、私は」
「帰りたいのか?」
「帰りたいわ! お前は本当にバカになったな、全く付き合ってられん!」
「何だよそれ。まあいいけど」
「ええい、もう知らん! 私は帰る! 小僧、お前が夏目を何とかしろ!」
 バシバシ床を叩いてそう叫ぶと、猫はまた斑の姿に戻った。そうしてそのまま床を蹴ると、怒りを抑えきれないように空高く駆け上がって行ってしまった。
「……猫ちゃんも大変だなあ」
「何ですか?」
「何でもないよ。おいで」
 ぽつりと名取が呟いた声はよく聞こえなかったが、問い返す気はしなかった。促されて部屋に入ると、ぱちんと電気と暖房が付けられる。
「いつからいたの?」
「忘れました。夜からなのは覚えてるけど」
「そんなに? 寒かったのに、今日。でも、手はそんなに冷たくないね」
「先生が結構暖かかったんで」
 それを聞いて苦笑すると、名取は繋いだ手から夏目の温度を確かめるようにぎゅっと握り締めてきた。じんわりと体温が移る感触が心地いい。
「でも、良く来れたね。一回しか来たことないのに」
「割と覚えてましたよ。上から見たらよくわかんなかったけど」
「上からって、猫ちゃんに乗せてもらった?」
「そうですよ」
「……ほんと大変だな。でも、どうしたの」
 疑問符と共に、するりと空いた手が夏目のマフラーを取る。自然な仕草でコートのボタンをひとつずつ取られながら、夏目はただされるがままになっていた。
「何がですか?」
「どうして急に来たの?」
 コートがするりと肩から落とされる。ふわりと床に落ちた衣服を気にもせず、夏目は手を伸ばして首に手を回す。抱き着くと、コートについたふわふわとした毛皮が頬に触れてくる。
 誰にも見つからないように、隠れて触れ合っていた感触を思い出す。
 腕に力を込めた。
「夏目?」
「聞いてみたくなったんです」
 するりと背に腕を落とし、小さく息をつく。
 触っているとそれだけでどろりとした熱が溜まる。触れた皮膚に擦り寄りながら、夏目は眼の前の人の髪を緩く引いた。
「何を?」
「何で、しないのかって」
 耳元に問い掛けると一瞬だけ名取はぴたりと止まって、それから深く息を吐いて髪に触れてきた。髪を弄ぶ指先からじわりと体温が染みる。
「……するって、こういうこと?」
 困ったように夏目を見てから、名取はするりと首すじを撫でる。指先がゆっくりと流れていく感覚を享受していると、耳朶を食まれる。柔らかい皮膚を舐めた舌が、そのまま首を這い出した。