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「名取さん?」

 知った声が真後ろから聞こえてきて、思わず息を呑んだ。
 ゆっくり振り返ると、学制服の夏目が傘を差して立っていた。濃い色の傘が雨を弾いていて、ぽたりと滴が伝って地面に落ちるのが見えた。
 傘の下の夏目は濡れてはいなかった。それにほっと息をついた。

「何してんですか、傘は?」

 僅かに笑った名取に反して、夏目はひどく慌てた様子で名取に駆け寄ってきた。びっしょりと雨を被った名取に傘を差し出す。

「びしょぬれじゃないですか、もう」
「傘忘れてね」
「それなら家に来れば良かったのに。こんな濡れるまでふらふらして、どうしたんですか。あ、家に誰もいなかったんですか?」
「いや、君の家には行ってない」
「そうですか。何か祓いの仕事でも?」
「……違うよ」

 そう首を横に振ると夏目は不思議そうに名取を見上げた。
 夏目の疑問は解る。表や裏の仕事でもなく、夏目に会いに来たわけでもないなら名取がこの町に来る理由はない。名取の住んでいる場所からずいぶんと遠いこの田舎町に一体何をしに来たのかと、表情が問いかけていた。

「それじゃあ、何しに?」
「……何も、ないんだ。別に」
「じゃあ何で……ああいいや、それより家に行きましょう。風邪ひきますよ」

 夏目は一瞬納得が行かないような顔をしたけれど、それより先にびしょぬれの名取をどうにかしないといけないことに気付いたらしく、慌てて名取の手を引いた。
 体温が滲んで、温もりが移る。びくりと身体が震えた。

「名取さん?」

 手を引かれても動かない名取に夏目が困ったように振り返る。
 会いたかったのは確かだ。会いに来たのは事実だ。だけど、同じくらい会いたくもなかったから違うとしか言えなかった。
 ひどく疲れていた。たくさんの嫌なことが少しずつ降り積もって心身が疲弊していて、会いたくなって来たけれど、その疲労をぶつける相手は彼じゃないのも知っていたから会いたくないとも思っていた。
 矛盾した感情に流されてどうしていいのか解らなくなる。雨の滴がひとつ零れ落ちたのを見ながら、名取はそっと夏目の手を振り解いた。

「何してんですか」

 解かれた手にどこか困惑したような顔をしながら、夏目はもう一度手を伸ばす。伸ばされた手が指を掴んで、もう一度体温が移った時、口の端から言葉が落ちていた。

「なんで」
「え?」
「何で、おれを放っとかないんだ。構うんだよ」

 矛盾した言葉が過ぎる。会いに来たくせに、会いたくて来たくせに、会いたくないと言わんばかりの科白が滑稽だった。
 それでも声は止まらない。自嘲気味に笑おうとしたけれど、上手くは笑えずに表情が強張るのだけ解った。

「おれは君のことを利用するよ。君はひどい眼に遭うし、嫌なことしか起きないよ。何も上げられないし、大したことは教えられない。いいことなんて何もない。それで、君に何の理由があるんだ」
「名取さん」
「おれと、なんて」

 何を言っているんだろう。
 そう思っていて、脳のどこかは声を止めようとしているのに止まらない。言いたくなかった言葉ばかりが溢れて止まらない。
 何でなのか解らない。会いに来ても振り解かないで、気に留めてくれて、一緒に居てくれる理由が解らない。
 積み重なった小さな混乱が溢れていた。それを止める術が名取にはなくて、だらだらと声が落ちるだけだ。
 俯いて深く息を吐くと、夏目は繋いだ手をそのままに、空いた手をそうっと名取に伸ばした。
 彼がいつも名取からそうされているように、柔らかく髪を撫でる。

「ねえ、名取さん」
「……なに」
「そんなこと自分から言う人が、おれに何をするって言うんですか」
「……なつ、め」
「大丈夫ですよ。悪いことばっかりじゃない。いいことだって、たくさんありましたよ。だから、これからも」

 ひどく柔らかい声が間近に語りかけている。肩にもたれかかった夏目の髪がふわりと頬を撫でていた。名取の耳に届く声は暖かくて、その温度が染みていくようで、じんわりと冷えた身体の温度が上がった。
 見透かされてるって、そう思った。
 突き放して、嫌われて、もう何もないように関わらないようにした方がいいってそう願っている裏側で、本当はもっと強く強く願ってる。
 優しくしたいし、大事にしていたい。そうして好きでいて貰いたかった。側に居て貰いたかった。
 誰よりも、眼の前の彼に。




2009/07/22