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 海を見に行こうかと少し前に言われたのを思い出したのは、車の中に引き込まれてしばらくして窓から海の景色が覗いてからだ。夕暮れの朱色に染まった海の色に、思わず夏目は感嘆の声を上げていた。

「すごい、ほんとに海だ」
「何だと思ってたの、君は」

 苦笑が混ざった声も夕陽に染まった海の色と波の音がすぐにかき消してしまう。
 平日の夕方、とうに夏の終わりを迎えた海沿いの道は空いていた。速度を上げて走る車は何物にも遮られずただ走り続けている。

「でも、どこに行くんですか」
「この先に展望台があるよー」

 寂れてるけど、とのんびりとした声が空気に流れる。ふうん、と頷いてしまうと夏目は窓の外に顔を向けた。海の色に眼を奪われる。強い風が髪を巻き上げて頬を叩いた。
 名取が言った展望台まではそう遠くないようだった。道の途中で展望台までの道を示している標識が眼について、そこには数百メートルほどの短い距離が記載されている。
 けれどやっぱり人気はどこにもなくて、着くまでの間、すれ違った車は数台だけだった。

「着いたよ」

 滑り込んだ駐車場の端に車を止め、名取は夏目を促した。
 車を降りて、やたらだだっ広い駐車場に足を着ける。やはり人の気配はなかった。車さえも一台もなく、入り口の脇に並んだ数台の自動販売機が蛍光灯の強い明かりを発しているだけだった。
 寂れたさみしさを滲ませる景色の中でも、海は変わらずきれいな色をしている。朱色に染まった陽は落ちかけてた。もうすぐ夜が来るだろう。

「海だー」
「だから、何だと思ってたんだい、君は」

 少し弾んだ声で柵の近くまで駆け寄った夏目に、後ろから柔らかい声が掛かる。
 波は荒いようだった。崖の上、駐車場の柵のすぐ近くまで波しぶきが押し寄せている。白い水に混じって潮の匂いが漂った。

「ほんとに海まで来るなんて思ってなかったんですよ」
「そうなの?」
「冗談だと思ってた」
「冗談じゃないよ、君の家からだってそんなに遠くないしね」

 確かに名取の言う通り、家からも学校からもそう遠くはなかった。道は空いていたとは言え、車で走った時間はきっと一時間にも満たないだろう。こんなに近くで海が見られるなんて夏目は知らなかった。

「そうですね、遠くはないですけど」
「うん」
「でも、何でわざわざ今日になって」

 何気ない疑問が口の端から零れ落ちた。
 海を見に行こうと言われたのは確かずいぶん前の冬のことで、夏目はそう言われたこと自体すっかり忘れていた。それにもう夏は終わっていて、泳ぐことも出来ない。それなのに、平日の夕方にわざわざ来るような所とは思えない寂れた展望台に一体何を、と疑問が過ぎる。
 だけどそれは本当はどうでもいいことだったのだろう。夏目も何となく口に出してしまっただけで、特に意味なんてなかった。それよりもはしゃいだ気持ちが勝っていて、髪を巻き上げる潮風の感覚に気を取られていた。
 だから、ゆっくり歩を進めて夏目の隣に立った名取の様子がいつもとほんの少し違っていたことに気付けなかった。

「別に今日じゃなくても良かったんだけど」
「そうですか。おれも今日じゃなくてもいつでも、」
「夏目、陽が落ちる」

 夏目の言葉を遮って、名取は空を指した。西の空に陽が落ちて行って、少しずつ海に沈んで行くのが見える。

「すごいなー、おれ、こういうの初めて見た」

 弾んだ声で空を見る夏目は名取の顔を見ていない。はしゃいだ夏目を止めることもなく、ふいに名取は夏目の手を取った。

「名取さん?」

 引かれた手に顔を上げると、名取はそれはもうきれいに笑って見せた。どこか薄ら寒ささえ感じるほど、美しく笑って彼は夏目の手を引く。
 一瞬、夏目は息を呑んだ。

「夏目」
「は、い」
「今日じゃなくても良かったんだ、いつでも良かったんだけど」
「……はい」
「いつでもいいんだ。いつだって、投げ出したいって思ってるんだよ」

 おれは。
 そう言って、ひどくきれいに笑ったその人はぎゅっと両手で夏目の手を握り締めた。
 唐突に投げ込まれたひどい悪寒に全身が総毛立つ。
 何を言っているのか解らない。名取が告げる主語のない言葉の意味は夏目には理解出来ない。それなのに、名取がきれいに笑えば笑うほど夏目の身体中に寒気が流れてぞっとした。
 息を詰めて、夏目はゆっくりと目線を下に落とす。見てはいけないものを見ているんだって、見てはいけないんだって、そう直感していた。

「君は?」
「……何が、ですか」
「もう何もかもを投げ出したい時はないの?」

 それはひどく柔らかく、甘い声だった。耳障りのいい言葉と美しい響きが混ざって心地良い音を奏でていた。
 頷いてしまいそうになる。夏目の本意ではない答えだとしても、今は彼の望む回答を示してしまいたい。それで悪いことなんてない。いや、彼の望んだことこそが自分自身の真意なのかもしれない。そう、思えてしまう。
 だけど。

「……ありません」

 意識を手繰り寄せ、夏目は固い声で答えた。
 答えてしまっても良かった。そうだと、名取の望む言葉をそのまま与えてしまったって良かった。
 でも、そんな言葉に意味はない。

「本当に?」

 繰り返し問われる、甘い甘い声に逆らうのはとても難しかった。心臓が高鳴って、喉がからからに渇いていく。
 空いた手を握りしめ、夏目は脳から無理に答えを引き寄せた。

「あったとしても、おれは」

 震える声はとても小さくて頼りなかった。強い波と風が響く音の群の中、夏目はかき消されてしまいそうな声を絞り出す。

「おれは、生きて、いたい、です」

 必死の声が落ちた。
 ほんの数秒の沈黙。波音ばかりが響いた中で、名取はふわりと柔らかな笑みを零した。

「そう」

 そう言って笑った顔を見上げて夏目は息を詰めた。
 眼の前で途轍もなくきれいに笑った人に今、もしかしたら生殺与奪の権利を全て握られているかもしれないのに恐怖は湧かなかった。ただ、ひどく悲しいなと思っただけで。


 空は暗くなっていく。海の色が濁り、打ち上げられる波は高くなる。暗くなる世界の中で、波しぶきの白と雨の気配だけが滲んでいる。
 嵐が近付いていると、そう思った。




2009/08/08