アナザースカイ -preview-







田沼×タキ要素があります。






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「うわっ」
「田沼くん引いたの?」
「やられた! 夏目に騙された!」
「騙してないよ。て言うか、言っちゃったらだめだろ田沼」
「正直よねえ」
「あっ、バレた……」
「ババ抜きなんだから、ポーカーフェイスしてなくちゃ。田沼くん」
「ほんとだよ」
 呆れたように言った夏目とタキの横で田沼は眼に見えてがっくりと肩を落としている。
 夏の夕暮れ。オレンジの夕陽が差し込む一年二組の教室には夏目と田沼とタキしかいない。この中で二組なのは夏目だけだ。クラスの違う三人は委員会が一緒と言う縁しかないのだが、何故かとても気が合ってよく一緒に遊んでいる。
 今日も委員会終了後に我が物顔で窓際の席を陣取って、たまたまタキが持っていたトランプに興じている。三人なのでとりあえずババ抜きなどをしてみたのだが、妙に正直者の田沼だけが負けっ放しだ。
 ほどなく、田沼は五度目の敗退が決まった。負けが判明した途端、暗い表情でべったりと机に突っ伏す田沼に夏目とタキは呆れたように小さく笑いを零した。
「そんながっかりしないで、田沼くん」
「そうそう、たかがババ抜きだし」
「たかがババ抜きでも五回も負ければ屈辱だよ……」
「田沼弱すぎだよ」
「ねえ、いくら何でも弱すぎよね」

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 水の重みに現実感が滲む。繰り返される妙な違和感と、それから水を滴らせる服との間で自分自身が乖離しているような気がした。
 少しだけ考えてから、夏目はもうどうでもいいような気分になってばさばさと服を脱いでしまうと身体は適当に拭いただけでさっさと借り物の服を着込んだ。乾いた服は暖かくて、思ったよりも身体が冷えていたんだと実感する。
 そのままぱたりとドアを開けて一度だけ通ったことのある廊下を歩いた。たった一度だけの記憶しかない場所を一人で進むのはどこか心許ない。
 冷たい床の上を殊更ゆっくり歩くと、真夏なのに裸足の足先から体温が逃げていくのが解った。
「……あの」
 遠慮がちに居間のドアを開ける。返事が返って来なくて端の方で止まっていると、ぱたぱたと急ぎ足で歩いてきた人が顔を覗かせた。
「あれ、夏目」
 そのまま抱えていたタオルを夏目に被せ、名取はまたばさばさと髪を拭き始めた。白いタオルで視界が塞がれる。
「ちゃんと拭いた?」
「はあ……一応」
「一応じゃだめだって、風邪引くよ。にしても早かったね。お風呂、入らなかった?」
「はい」
「入って良かったのに」
「はあ……」
 気の抜けたような返事しか返さない夏目に、呆れたようにため息をついた名取はしっかりと夏目の髪から水分を拭き取ってからようやっと手を離した。
 離されてから、被せられたままだったタオルをずるりと取って視界を開ける。もう背を向けていた人の後ろ髪はやっぱり跳ねたままだった。
「何してるの? おいで」
 ぼんやりと立ったままだった夏目の手を引くと、名取はテーブルの前に夏目を座らせた。いつの間に用意されたのか、眼の前に置かれたガラスのコップを眺めながら夏目はひたすら困惑したままでいた。
 小さな違和感と、そんなものはどうでも良くなるくらいの大きな困惑や焦りで眼が回りそうになっている。さっきの緊張のなさが嘘みたいに今は心臓が跳ねていた。会いに行けばいいんだって、その思い付きと勢いだけで来てしまったけれど、実際の所会って何を言うべきかなんてろくに考えていなかった。
 何を言って、何が伝えられるんだろう。実際に言いたい言葉は持っているのに、それを上手く声に出して話せるか解らなくなっていた。混ざった感情に夏目はひどく混乱している。
 ことり、と眼の前にもう一つコップが置かれるのを見てはいたが、その光景は脳には入っていなかった。
「それで、どうしたの、急に」
 声を掛けられてのろのろと顔を上げる。心配そうな顔をして見てくる人の眼を見て、短く息をついた。
 やっぱり緊張していたんだって、ようやく解った。喉が強ばっているような感覚がして上手く喋れない。
「夏目?」
 俯いた夏目の髪にさらりと触れて来た手の体温が移る。感触に一度だけ口を開こうとして、でも結局息を吸い込むことしか出来なかった。
 空気を吸い込んだ喉がひどく乾いていた。
「……どうしたの?」
 髪を梳いた手が額に触れる。夏目から落ちる雨水に触れていたせいか、その手には水分を含んだ柔らかさと冷たさが滲んでいた。
 知らず、掠れた声を出す。
「……あの」

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「誰にも言わないでいられる?」
「言いません……言うわけない」
 額と額を重ね合わせた距離でやたらと甘い声が耳に届いていた。笑った吐息が頬に触れるほど近くて、嬉しくて少し笑う。
「大体、おれの言うことなんか誰も信じないから」
 だけど、そうぽつりと言ってしまってから夏目はしまったな、と思う。
 今まではずっとそうで、誰も夏目の言うことなんか信じてくれなかった。何を言っても誰も信じてくれなくて、いつも戯言だって流されていた。
 でも、今は信じてくれる人がたくさんいる。眼の前の人は多分その筆頭だ。それを解っていてどこか自棄な言葉を零してしまったことに後悔を抱く。
 何だか気まずくなって眼を逸らすと、ぎゅっと手を握られた。
「なつめ」
「は、い」
 呼ばれて、応えると額に柔らかい感触が触れた。そのまま何度も口付けられ、そのたびにざわりとした感覚が身体を走る。
「おれは知ってるよ」
 そうして、耳元に囁かれた声にひどい安堵を抱いた。
 そうだった。この人はそんな感覚で夏目を見ていない。
 信じるも信じないもない。夏目にしか見えていないものが在ることを信じようとしてくれるのではなく、同じものが見えて同じ声が聞こえている。正しく同じ視界を共有している。
 今まで誰も見てくれなかった世界を共有する人を見付けた。信じて欲しくて必死で叫んだり、信じて貰えなくて隠し続けていたのが無駄な努力であったかのように、たった一人だった世界にあっさりと彼は入り込んで来ていた。
 夏目が名取を信じた瞬間に、好意も疑惑も何もかも吹っ飛んだ。今まで他者に抱いて来た感情が遥か遠くに霞んで、一気に特別な人になっていた。
 そう、刷り込まれていたんだろう。
「……はい」
 ちいさく頷いて、額から髪に口付けられる感触を受ける。
 信じてくれるんじゃなくて、知ってくれていた。誰にも信じてもらえなかった過去も、今の感情も全部知られていた。
 荒唐無稽な子どもの夢のような、そんなお伽話のような景色だって一緒に見てもらえる。たったそれだけがどれだけ希少なことかはよく知っていた。
「なつめ」
 呼ばれて顔を上げると、頬から唇に口付けられる。唇を舐める舌先に促されて口を開くと、入り込んだ舌に舌を絡め取られて喉が鳴った。