anyhow




 水面には夕方の光が満ちていた。
 空は少しずつ色を変えて行く。青からオレンジ、赤へと移り行き、そしてまた青へと戻り、やがて黒い闇を連れて夜が来るだろう。陽射しの温もりは消え失せる時間だった。
 空の色を眺めながら、夏目は川原を歩く名取の後ろについて歩いていた。学校帰りの制服姿で鞄を持った夏目と、帽子をかぶって眼鏡をつけて気配を潜めている名取以外、川原には誰も居ない。
 名取は式を連れてこなかったし、ニャンコ先生はどこかに呑みに行ってしまっている。傍には誰もいない。二人だけだった。
 こんな事は珍しい。いつだって二人の傍には誰かがいた。それが妖であろうと、人であろうと。
 そして、いつも誰かが居たからこそ、堰き止めていた感情が有った。脳の奥底にしまい込んでいた感情が夏目の眼前に立ち塞がる。

「名取さん」
「なんだい?」

 小さく呼んだ声にも名取は振り返らない。風に飛ばされそうになる帽子を抑える腕に黒い影が這って行くのが見えたが、その影の姿を正しくヤモリだと判別するのは難しかった。空が暗くなると、真っ黒のヤモリの影は見えにくくなる。
 それがただの影なのか、名取に棲みついている妖なのか解らなくなる。

「……いいえ」

 少しの逡巡を重ねて、夏目はそっと首を横に振った。

「何でも、ないです」
「そう? ならいいけど」

 優しい声で答える、名取の表情は夏目には解らない。背を向けたまま、顔を見せない名取の心情など何も解らない。

「気になることでもあるのかい?」

 繰り返し、夏目にそう尋ねる言葉は柔らかな響きを持っていた。きっと他の誰かが聞いたなら、その声音だけで安堵を得るだろう。それはひどく優しくて、甘い。
 けれど、夏目には。

「何でも、ないんです。本当に」

 堅くなった声でそう返す。
 振り向かないままの名取は痛みを隠し切れない夏目の表情に気付かない。いや、きっと解っていて振り向かない。
 知っているのだろう。夏目の迷いも諦めも、全部知れているだろう。知っていて、名取はそれを見ない振りをする。

「そう。じゃあ帰ろうか」

 帽子を押さえた手を下ろし、名取は歩を進めた。夏目もまたその後をついていく。
 歩幅は同じままで、決して縮まらない。同じ距離を同じ速度で歩く二人の間に流れる空気が少しずつ冷たくなる。温度が遠ざかって行く。
 手を伸ばせない。背中に触れたいと、髪に触りたいと、気が遠くなるほどそう願っても無理だと解っている。名取の優しさは、裏を返せば明らかな拒絶であるのだ。あの笑顔と優しい声で、名取は夏目を近付けようとしない。決して触れられない線を保ち、そこから先には夏目は踏み込めない。今、決して縮まらない歩幅のように、これ以上は近付けない壁がある。
 きっと、何があろうともこの差は縮まらない。そんな気がしていた。


 名取の首すじを這っていたヤモリの痣がしゅるりと姿を消す。まるで暗闇に紛れて行くようだ。
 夜は近い。やがて、全てが見えなくなっていくのだろう。




2009/02/25