LaLa本誌2009年1月号ネタバレです



















灯りの価値




 泣き過ぎた瞼が重かった。
 夜半過ぎ。ニャンコ先生はぷーぷーといつもの寝息を立てて眠っていた。いつもと違うのは、もう三日近くの間ほとんど寝ている事くらいだ。
 的場の矢を受けてからずっと寝てばかりなので最初はとても心配したが、名取にも傷の回復を図っているだけだと言われたし、昨日はヒノエが来て様子を見てくれた。あと数日のうちに治るだろうと言われてほっとしたものだ。
 あの石ころの妖に気を付ける事だけ除けば、特に何も心配する事はないのだ。妖の友人たちも協力してくれている。人の友人たちの暖かい心遣いもあった。誰もが優しくて、暖かい。
 自分には勿体無い程の優しさが身に染みる。嬉しいとか、幸福だとか、色んな感情が渦を巻いては涙となって目尻から零れ落ちる。ずっと、涙が止まらなかった。
 また、つうと頬を涙が伝う。半分まどろみながらじっとそれをやり過ごしていると、ふいにかさりと紙の音がした。

「ん……?」

 ニャンコ先生が起きたのかと思い、起き上がって隣で丸くなっている先生を見るが、白い猫は相変わらずぷーぷーと眠ったままだ。眼をこすりながら、夏目はかさかさと紙が動く音源はどこかと手探りで部屋を探す。すると、指先に紙が触れた。
 かさり、と音を立てて紙が夏目の指先に纏わりつく。重い瞼をこじ開けて指先を見ると、小さな紙人形がくるりと指先にくっついて―――燃えた。

「あっちぃ!」

 紙人形は炎を上げて短時間で燃え尽きる。あっと言う間に炭になった紙の破片の熱は夏目の眼を醒まさせるには充分な温度だった。跳ね起きて、布団に炭が落ちないよう手でくるむと何とかゴミ箱に叩き落とす。
 黒い炭色の固まりは布団にも床にも落ちず、上手い事全部ゴミ箱に入ってくれた。
 はーっと息をつく。

「あーこれ……あ!」

 息をついたのも束の間、夏目はその紙人形の主をぱっと思い出した。急いで窓際に駆け寄ると窓を開け放つ。

「名取さん?!」

 案の定だ。窓の下、藤原家の庭先に帽子をかぶった人が立っている。

「こんな夜中に、なんですか!」

 本当は大声で叫びたかった所だが、真夜中で既に藤原夫妻も寝静まっている。夏目は何とか深呼吸をして声量を落として叫んだ。すると、彼はふわりと優雅に手を振った。
 余裕のある仕草の名取に反して、夏目は驚きを隠せない。階段を駆け下りる手間も惜しく感じた夏目は窓の淵に軽く足を掛けるとそのまま窓枠を蹴って宙に飛び出した。

「え?!」

 今、夏目を驚かせたばかりの名取だが、今度は本人が驚く番だったようだ。まさか夏目が二階の窓から飛び降りてくるとは思わなかったのだろう、眼を見張って呆然と口を開けている。
 だが、夏目からしてみたら二階から飛び降りるくらいどうって事はない。夏目はこの家からも、他の場所からも、何度となく高い場所から地面に向って飛び降りている。今もその時の要領で上手い事体勢を変え、簡単に地面に降り立とうとした……つもり、だった。

「夏目!」

 名取が叫び声と共に夏目の真下に走って来る。着地予定地点に名取が来るのを見て、今度は夏目が大慌てになった。

「うわ!」

 体勢を変える事もままならず、そのまま夏目は地面に落っこちる。衝撃を覚悟し、眼を瞑った。
 どさりと地に落ちる。全身に痛みが走った。

「いてて……」

 思ったよりは痛くないが、足を地面に打ち付けてしまったようだ。痛みをこらえ、くるぶしをさすりながら何とか眼を開ける

「……こっちの科白だけどねえ」

 すると、夏目の下から責めるような声がした。ふっと目線を下に下ろすと、夏目は見事に名取を下敷きにしていた。

「うわ! すいません!」

 慌てて足をどかして起き上がる。名取も頭を押さえながら起き上がった。
 お互い色々と打ち付けた場所をさすりながら草の上に腰を下ろす。名取の帽子と眼鏡は外れて草むらに転がっていた。
 苦笑する気配が伝わる。差し込む月明かりに照らされた名取は口の端だけで笑っていた。

「何してるんだい、無茶して」
「名取さんが、急に来るからです」
「それは悪かったけどね、普通に玄関から庭にくれば良かったのに」
「しょうがないです、もう飛び降りちゃったし。……それで、こんな夜中に、どうして」

 当然の疑問を口にすると、名取は足を組んで座り直した。周りに彼の式の影はない。柔らかい月明かりに夏目と名取が照らされているだけだ。

「時間が空いたからね、猫ちゃんの様子見に来たんだ。どうだい、まだ寝てるかい?」
「あ、はい……ほとんど寝てます。でも、昨日ヒノエが……ああ、知り合いの妖なんですけど、診てくれて、もう少し寝てれば大丈夫だって」
「そう、それなら平気かな」

 たどたどしく説明する夏目の声を聞きながら、名取は笑って手を伸ばし、そっと夏目の髪を撫でた。柔らかい仕草の、いつもの行動にとても安堵する。
 ついさっきまで泣いていた夏目の声は掠れている。きっとひどい顔をしているだろうし、泣いていたのも解ってしまうだろう。けれど名取は夏目の涙の跡には触れなかった。解っているだろうに、口には出さない。
 それが却って辛かった。泣いているのを見透かされている、その優しさが染みる。

「妖が診たんなら、私の診断より正確だろうし、心配いらないかな……夏目?」

 耐え切れなかった。ぎゅっと手を握り締めて俯き、夏目は強張った。急に固まった夏目を見て、名取が心配そうに覗き込んでくる。
 その声も、眼差しも、笑顔も、何もかもが優しい。
 最初からずっとそうだ。胡散臭くて、ちょっと鬱陶しくて、面倒くさい人だけど、夏目の事を大事にしてくれているたった一人の仲間だ。優しくしてくれている、夏目にとって大事な人の一人だった。
 今日はたくさん泣いた。大事な人がたくさんいる、今があんまり幸せで、この幸福が信じられないくらいで、でも手放したくなくて、どうすれば守れるのか、そればっかり考えて。
 辿り着いたのは自分の無力だ。何も出来ない事を心底思い知る。

「なつめ」

 繰り返し呼ぶ声は余りにも柔らかい声だった。
 ぱちんと何かが弾ける気がする。強張った腕をぎくしゃくと持ち上げ、夏目は名取に手を伸ばすと力いっぱい抱き着いた。

「うわっ……夏目?」

 また呼ばれた。変わらない、優しい声だ。
 夏目はもう何がどうなっているのかも解らない。ただ、自分の眼からぼたぼたと涙が零れてくるのだけは解った。

「なとり、さん」
「なんだい?」
「おれ、いい子じゃ、ないんだ」
「……そんな事ないよ。夏目は優しい、いい子だよ」
「違うんだ、おれ、いい子じゃない。まっすぐでも、まっしろでもないよ、おれは。気味悪いことばっかり言って、本当のこと何にも言わないで、みんなに心配ばっかりかけて」
「……うん」
「わかんないんだよ、名取さん。おれ、何もしてないのに。おれは何も変わんない、昔からずっと、気味悪いだけの子どもで、なんにも出来ないのに」

 ぎゅっと首すじにしがみつく。涙で霞んだ視界の端、名取の皮膚の上を黒いヤモリが走るのが見えた。

「何でみんながおれに優しいのか、わかんないんです」

 しがみついた肩越し、霞んだ眼に月が見える。柔らかい光を浴びながら夏目は名取にしがみついてぼろぼろ泣いていた。いくら泣いても涙は止まらず、ただ名取の肩を濡らしている。
 そうっと夏目の背に手が回る。緩い体温が移る感覚と共に、名取が夏目を支えるように抱き締めて来ていた。頼るもののなかった背を支えられてほっとする。
 ぴたりとくっついた身体から伝わる心音が少しずつ夏目を落ち着かせる。涙は止まらないままだった。けれど、どうしてか泣き続けていてもいい気がしていた。それを許容されている。
 名取はそっと夏目の背を撫でる。それから、吐息のような小さな声で耳元に問い掛けてきた。

「優しくしてもらえた?」
「……はい」
「心配してもらった?」
「………はい」
「友達がたくさん出来たんだね」
「…………はい」
「そう……良かったね」

 さらりと名取の手が髪を撫でる。そっと髪を辿った手は頬を撫でて涙を拭った。冷たくなった涙が頬から払われる。
 後から後から流れ出す涙を指先が取り払って行く。じっとしたまま、その温もりを受けていた。秋の冷たい風が吹く中、抱き締め合った身体が暖かくて、また涙が零れる。

「よかったね、夏目」

 よかったね。そう名取は何度も繰り返して夏目の髪や背を撫でては涙を取り払う。
 その子供を褒めるような仕草にとても安堵して―――
 好きだと思った。とても自然に、何の憂いも躊躇いもなく、この人がとてもすきだと、夏目はそう思った。
 誰かを好きになるのはとても難しい事のように思い込んでいたのが嘘のように、この人を、友人や家族を、とてもとても好きだと思えていた。




2009/03/01