会いにいく




 道の傍らに夏の花が咲いている。
 学校と藤原家を往復するいつもの道を歩きながら夏目は視界に入った花の色を眺めた。夕暮れの帰り道に人気はない。夏目とニャンコ先生の歩く音が狭い道に響いている。何の変哲もない帰路を歩いている一人と一匹の光景は静寂そのものだった。規則正しい僅かな音だけが存在している。じっと黙って歩いている夏目にはその静けさが心地良かった。
 だが、その静寂は一枚の紙人形に破られる。

「うわっ」

 ヒラヒラと蝶のように飛んできた紙人形に纏わりつかれ、驚いた夏目はそれを捕まえようと手を伸ばした。
 紙人形は夏目に捕まる前に眼の前に止まる。単調に挨拶だけ書かれた紙人形を手に取ろうとすると、それはいつものように簡単に燃え尽きた。

「あちっ」
「なんだ夏目、名取の小僧か」
「うん……そうだな」
「何用だ、小僧は。来るのか?」
「そうじゃないかな」
「残念な事に私はこれから呑み会だ」
「何が残念なんだよ」
「あいつはどうも胡散臭くていかん。またどついてやろうと思ったのに残念でたまらんぞ」
「やめてくれよ、また名取さんの式とケンカになるだろ」
「ふん、身の程知らずな奴らめ。まあいい、私は呑みだ。行って来る」
「行ってらっしゃい」

 手を振ると、白くて太った猫はさっと地面を蹴って草むらに消えた。数秒がさがさと音を立てて草を踏む音がしたが、すぐに気配は遠ざかる。

「ほんと、用心棒の意味ないよなあ」
「そうだねえ」

 ぽつりと呟いた独り言に返事が返ってくる。その声の主はもう解っていたので、夏目は慌てる事もなく後ろを振り向いた。

「どうも、名取さん」
「こんにちは、久しぶりだね」
「久しぶりな気はしませんね」
「そうかい? 結構久しぶりなんだけど」

 人を食ったように笑った彼の笑顔を見ると、夏目は気が沈むのを感じる。
 どうしてこう、いつもタイミングが悪いのだろう。ため息をついて夏目は鞄を抱え直した。
 いつも、どれほど眼を凝らしていてもこの道に名取の姿はない。だから安心しきって、じっと黙って思考を巡らせていたのに、今、この瞬間に来るとは何と言う皮肉だろう。

「何か用ですか」
「用事ってほどの用事じゃないかな」
「じゃあ何で来たんですか」

 さり気なさを装って歩を進める。家とは方向の違う、人気のない道に誘うように夏目は歩き出した。

「たまたまオフになったから散歩がてらに」
「散歩でこんな田舎まで?」
「大して遠くないよ」
「そうですか」

 適当な会話を交わしている自覚は有った。夏目は小さく息をつく。歩を進めた先に何もない事を知りながら、それを知らない振りをして歩き続けるのはどこか滑稽だと解っていた。

「それで、どこ行くんだい?」

 そう問われると思っていた。覚悟もしていた。
 息をつき、意を決すしか選択肢はない。仕方なく、くるりと身を翻して夏目は名取に向き合った。
 夕暮れの道には人気はない。ただ鮮やかな色をした花が二人を見ているような気がしていただけだ。他には何もない。人も、妖も。
 それを認識してから夏目は重く口を開く。

「名取さんは、何でおれのところに来るんですか」
「どうしたの、急に」
「答えて下さい」

 夏目の硬く強張った声に反して、名取は相変わらず暖かくて優しい声で応じる。
 きっとこの優しさに付けこむ事になるだろう。だけど、夏目はもうこの重苦しい憂いをなくしてしまいたかった。どんな時も重い気持ちを抱え続けて、息が苦しくなっている。

「色々あるよ、用事もあるし。顔が見たいだけの時もあるし」

 予想通りの当たり障りのない答えだった。
 苛立ちが隠せない。ぎっと唇を噛み締め、夏目は背すじを伸ばした。

「おれは、あんたに会いたかったんです」

 自分でも唐突な一言だと思う。眼の前で立ち止まった名取も困惑している。それが直に伝わって来ていた。
 けれど、夏目にしてみればそれはずるいとしか言いようのない態度だった。
 いつだって夏目は馬鹿みたいに彼のことを考えては立ち止まっていた。一緒に居れば隠しようもない感情をぶつける時もある。けれど、それを見ない振りをされ続けている。知っているくせに、気付かない振りでごまかされてばかりで、名取の都合のいいように流されてばかりだ。
 ずるいと思う。夏目には耐え切れなかった。いつも胸が重くて苦しくて、息が出来ない。

「夏目」
「あんたは、おれを、何だと、思って」

 途切れ途切れの抗議はきっと意味を為さないのだろう。解っていても夏目は名取に噛み付きたかった。何でこんな想いをしているのかと、叩き付けてやりたかった。
 名取はとても困ったような表情でいつものようにそっと夏目の髪を撫でる。それに余計苛立った。手を叩き返してやりたかった。

「……君はさみしいだけだよ」

 けれど結局手は振り払えず、とてもさみしそうに告げたその声に言い返せない。夏目はぎゅっと拳を握り締めた。

「さみしさを妖で埋めなくなったのはいい事だよ、だけど」

 静かに歩を進め、名取は夏目のすぐ眼の前に立った。

「普通の家族の中で、普通の友人を作って、普通の恋人を作って、普通の生活をした方がいいんだ……ねえ」

 ふわりと柔らかい温もりが覆いかぶさる。名取に抱きしめられていた。

「これじゃ、まるで同じ事になってしまうんだよ」

 わかるだろう? と小さな声がした。
 違う、と言いたかったが喉が固まってしまったように声が出ない。
 名取の温もりが染みる。暖かさはまるで普通の人のようで。
 何が同じだって言うんだろう。名取は妖とは違ってとても暖かい。けれどその温もりでさみしさを埋め合わせるつもりなんてない。
 そうだ。本当は、もう。

「いいえ」

 強張って掠れた声が落ちた。柔らかい温もりに反して、夏目の声は冷たく硬い。
 決意を手繰り寄せる。何を言いたいのか、何を告げたいのかはもう解っていた。あとはきっと、どれだけ伝わるかだ。
 強く手を握った。震える声帯を落ち着かせるように、夏目は必死で息を継いでからもう一度口を開いた。

「いいえ、おれはもう、さみしくはありません」
「……夏目」
「さみしくは、ないんです」

 強張った声が落ちていく。
 伝わるだろうか。本当の意味で、本当の気持ちで、これからも会えるのだろうか。
 こんな言葉如きで、どれだけ届くのだろうか。




2009/03/22