徒花




 時々、妖の記憶が流れ込んでくることがある。
 心を読まれたり、逆に彼らの記憶を流し込まれたりされる。
 そうやって感情を移されるのは得手ではない。切なさも辛さも悲しみも、まるで自分自身に起きた出来事のように共有してしまうからだ。

「ああ、あれは嫌だよね」

 ぼんやりと疑問を口にしたら同じように納得行かないような反応が返ってきてほっとした。自分だけではなかったのだと知って安心する。
 積み上げられた本の山の中に半ば埋もれるようにして互いに背を向けて目当ての資料を探していた。資料はなかなか見付からず、二人揃って既に飽き飽きしていたがそれでも何とか見つけ出さないと仕事にならない。時折交わす雑談で何とかモチベーションを保つしかなく、埃にまみれた部屋の中で名取と夏目はがさがさと本の山を渡り歩いていた。
 名取の式たちは探索やら何やらで全員出払っている。ニャンコ先生は探し物を始めた最初の数十分くらいまでは一緒にうろちょろしていたのだが、飽きた、の一言でさっさと部屋を出て行ってしまった。呆れた夏目がさっき室内に出てみたら、日当たりのいい窓辺で丸くなって眠っていた。それにため息をついた夏目を所詮猫のすることだから、と名取に慰めてもらっているうちに何だかどうでもよくなった。

「やっぱりあるんですか」
「ああ、たまにね。強い感情や記憶だと流れ込んでくるみたいだ」
「前、知り合いの妖に気をしっかり持たないと心を読まれるって言われたんですけど」
「そうらしいね。でも、ちゃんと自分で防御してれば平気だよ」
「防御って、どうやって?」
「単純だよ。読むな、お前が踏み込むなって、そう気を確かにしてしっかり意識していればいいだけのことだから」
「意外と簡単ですね」
「何でも意外と簡単だよ。特に妖絡みは、自分がしっかりしていれば大抵は何とでもなる」

 そんなもんか、と納得してから夏目は床に座り込んだ。上部の棚はもう全て探索し尽くしていて、あとは床に積み上げられた本以外に探索箇所はない。
 だが、床に積み上げられた本の乱雑さや汚さとと来たら棚の比ではない。げんなりとして、夏目は大きくため息をついた。
 夏目に倣うように、名取も床に座り込む。そうして夏目を振り返って眼鏡を外して笑い掛けた。

「疲れた?」
「そりゃ疲れますよ」
「おれも疲れた。付き合わせて悪いね」
「まあいいんですけど。それにしたって、何だってこんなに汚いんだか」
「掃除する暇がないまま物が増えたんで、適当に突っ込み続けたらこうなりました」
「適当すぎです」

 名取の家の一室、資料室としている部屋の乱雑さと言ったらひどいものだった。古本屋でも開けるんじゃないかと思うくらいの量の本は本棚には入りきらず床に幾つもの山を作っている。足の踏み場もないほど本が積み上げられた室内は埃っぽく、窓を開けていても本に遮られて風が通らなかった。

「休憩しようかー」
「間に合わなくなるんで、ちょっとだけにして下さい」
「えー」
「予定が詰まってます。そりゃもうすごく。今回の仕事の期限は三日後で、それまでに本探して依頼主に渡す資料作らないといけないんです。それに、名取さん明日撮影でしょうが。おれ一人で探すの嫌ですよ、絶対見付かりません」
「君はおれのマネージャーか」
「嫌なこと言わないで下さい」

 売り言葉に買い言葉のような会話をぽんぽんと交わしながら、本の間の僅かな隙間に置かれたペットボトルから揃って水分を摂る。乾燥した部屋の中で身体から奪われた水分を補給をすると少しだけ体力が回復する感じがした。
 息をつくと、夏目はさっきの会話の内容を何となく思い出した。疑問が脳裏を掠める。

「そうだ、さっきの話ですけど」
「うん」
「おれ、ちょっと不思議で。人間同士だったら思考が流れ込んだりしないじゃないですか」
「そうだね、それはないね」
「妖だからなのかな。妖力があれば、人同士でもなったりするのかな」
「ああ、試してみる?」

 そう言って、名取はペットボトルを床に置くとさらりと夏目の額に触れた。髪を掬われる。

「何にも見えないと思いますけど」
「物は試しってやつだよ」

 そう言って髪を持ち上げられ、こつんと額に額をぶつけられた。近くで触れた肌から体温が伝わるが、気にはならなかった。温もりが移る感覚が滲む。

「何か考えてみてよ」
「何をですか」
「うーん、じゃあ晩ご飯食べたいものとか」
「そんなんでいいんですかね……」
「さあ、わからないな。まあ試しだから」

 そう笑ってから、額と額を重ねて名取は眼を閉じてじっとしていた。ひどく秀麗な顔で物憂げな雰囲気さえ纏わせているのに、考えていることは晩ご飯の内容なのかと思うと何だかおかしくて夏目はくすりと笑う。

「笑ってないで考えて」
「はいはい」

 笑い声を咎められたけれど、名取もまた笑っている。
 くすくすと笑い合いながら、夏目も食べたい物を考えようとした。だが、どうしてか眼を閉じる気にはなれず食べたい物も思い浮かばない。そうして、そのまま眼の前の人の顔をじっと見詰めた。
 きれいだな、と思った。いつだって無駄にきれいな人ではあるが、至近距離で見ると余計にきれいさが際立って見えた。
 ふいに、疑問がもうひとつ頭を掠める。
 触ったらどうなるだろう。その、髪や頬や、薄い唇に触ったらどんな感触がするんだろう。
 人に、他人に触るって、どんなことだろう。
 好奇心や、他の何かに動かされる。ゆっくり、ゆっくりと夏目は手を伸ばそうとした。

「見えた?」

 その時、唐突に聞こえた人の声にびくりと夏目は止まった。
 震えた身体を合図にしたかのように、名取はするりと額を離す。ゆっくり眼を開け、ほんの少しだけ離れた距離で夏目を見て名取はまた笑った。

「何にも見えないね」

 当たり前か。そう言って笑った人の笑顔が何だか眩しい。
 諦めきれなくて、夏目はごんっと名取の額に額をぶつけた。ごちんっといい音がした途端、ごろっと派手な音を立てて本の山がひとつ崩れた。




2009/07/20