一万フィートの逃走 -preview-




 天井を見上げた。
 見慣れた壁紙はいつもと同じように白く、大きな汚れはない。見渡した部屋もいつもと変わりはない。床に積まれた本や、壁に無造作に立て掛けられた呪具の類にも特に異常はなかった。まるでいつもと同じ自分の家の寝室のベッドの上だ。何も変わりはない。
 変わりがあるとすれば足元の感覚だ。ほんの少しだけ痺れが走る足にかさついた何かが纏わりついている。その流れに沿って不自然な痺れが走っていた。そして気付かないほど僅かな違和感がそこから身体中に走っていた。
 シーツの上で仰向けに転がり、名取はじっと部屋中に視線を巡らせてからようやっと足下を眺めた。
 視線の先には、ある意味では予想通りであり、また別の意味では予想外のものが絡み付いている。
 嫌になるほど見覚えのある人形の群が右の足首を取り巻いていた。ぐるりと三周ばかり、確りと足に巻き付いた人形の群の端は僅かに開いたドアの隙間から寝室の外に続いていた。
 瞬きを何度か繰り返し、天井と壁、そして足へと幾度か目線を往復させてはそれを眺め、名取は息をつく。
 何度眺めてみても何も変わりはない。足首に巻き付かれた人形以外の物は何ひとつ変わらない、自室の寝室だった。その無機質さは夢でも何でもなく、現実そのものだ。
 二度ほど深い呼吸を繰り返してから腕を振り、名取は仕方なく起き上がった。繋がれた足を引くと人形の群はずるりと流れてそのまま足に纏わりつく。何かの術が施されているであろうそれは少しばかり足を振り回しただけでは到底離れる筈もなく、ひたりと乾いた冷たさで足に絡みつくばかりだ。カサカサと紙が擦れる音が妙に乾いて聞こえ、人形の動きがやけに重々しい。


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「大丈夫だから待っていろ。離れていていい」
 そう小さく呟くと、呼応するように隣の夏目がうっすらと眼を開けた。
「……名取、さん」
 まだ夢を見ているかのような朧気な口調で呼んで、夏目は眠たそうに眼を擦る。
 その腕は闇の中でもすぐに解るほどあからさまに細くなっていた。
 小さな身じろぎをするだけでかさりと紙が動く音がする。布と紙が擦れる音がやけに大きく室内に響いていた。
「何か……」
「何でもないよ」
 目覚める前に名取が式に話し掛けた声を聞いたのか、彼はぼんやりとした声で問い掛けてきたが、質問を先回りして遮ってしまうと夏目はそのまま口を閉じた。まだ眠ったままのような夏目はそれには大した疑問は抱かなかったようで、瞬きを繰り返しながら緩く頭を振っている。
 柔らかい髪がぱさりと頬に触れ、匂いが鼻先を掠めた。
 そのまま、ついいつものようにそっと頭を抱え込んでしまう。そうすると、夏目がびくりと震えた。
「ああごめん、起きる?」
 身体に力を込めた夏目の様子から、彼が抱いている恐怖や怯えを思い出す。まだ夏目は名取に触れられるのも何かを話し掛けられるのも怖いのだろうと察し、今は手を離した方が無難だと感じた。
 けれど抱え込んだ柔らかい髪から離れようと手を離すと、焦ったように夏目は服の裾を掴んで引っ張る。そうしてそのまま腕の中に潜り込んで来た。
「……なつめ?」
 ゆるりと頭を振り、短い息を何度も吐いて甘えたようにすり寄ってきた夏目の仕草からそこに篭もった熱がざわざわと移る。ぞわりと背を這い上がった感覚は多分同じで、掴まれた指先の温度が高くなるようだって思った。
 殊更ゆっくりと髪を撫でると、余計に強くしがみついてくる。指先を流れた髪を落とし、額に口付けるとぎゅっと服を掴んだ手を解いて肩に回して引き寄せた。