湖の美しい ベラヌールの街で
ふたりめの王子様は 突然病に倒れてしまいました
その日、若き竜王の額には稀に見る苦悩の皺が刻まれていた。幸か不幸か最もそれを見られたくない旅の道連れは床に伏し、
未だ隠世の淵を朦朧と彷徨っているさなかだったが。
「……まったく…二百年商売やってきて、こんな手荒い客も初めてさね」
「無駄口きくんじゃねえ、皺に沿って切り刻まれたいか」
古木の住処から半ば無理矢理連れ出されて来た老魔女がぶつくさと文句を漏らす。しかし、流石にというか---彼女は
トンヌラの常人とは異なる肉体を目にしても動じなかった。
「昔から居るんだよ、母親の胎内でアレをしまい忘れてきちまう粗忽な娘は」
娘、か。やはりそう見えるだろうな。コイツの耳に届いていたら、躍起になって否定するだろう---そう思って一瞬笑いをかみ殺す。
…それでも、トンヌラの意識は戻らなかった。
全身に浮き出た黒い痣は、いびつな古代文字を象っている。ズィータはそれに見覚えがあった。
あの忌々しく矮小な神官、ハーゴンのかけた呪詛。神による調伏の証だ。
「だが、こいつは…人間には効かないモンだって聞いたけどねぇ。それともこの娘…女神サマか何かなのかい?」
「…………」
ロンダルキア、邪神が住まう呪われた極寒の地。どういうわけか、ここベラヌールの街には
彼の地へと続く空間の歪み---旅の扉が口を開けていた。幾重にも張られた結界が魔物の侵入をかろうじて
拒んではいるが、万一に備えて長は街の全域に呪詛を張り巡らせていたのだ。
「悪いけど、アタシにこれを解くことはできないね」
「なんだと……!? 巫山戯るのはそのツラだけにしろ、婆あ!!」
「ちょっ、年寄りに乱暴は……キィィッ」
怒りに我を忘れ、ズィータは皺首を締め上げる。魔女は鶏のような声をあげて足をばたつかせた。
「……………………ッ」
横たわるトンヌラがぴくりと身を動かす。
「トンヌラ……!?」
しかし、それきりだった。サマルトリア王子の呼吸は再びか細く規則的なものに戻って行く。心無しか、それは
先程までよりさらに浅いものへと変わっているようだ。
「…畜生…………」
ズィータは放心したように呟き、魔女を其の手から解放した。魔女はげほげほと耳障りな咳をしながらよろつき、
捨て台詞のように言い放つ。
「ああ、それとね、アンタ気づいてるかい?その娘、身籠ってるよ」
「なに…!?」
「アンタの子なんだろ」
意識のない白い横顔を見つめ、そうか、と呟く。そういうことか。
神の膝元でその魂を宿らせるまで、胎芽はただの器だ。異教徒の不出来な呪詛に戒められるも道理。
今はまだ無力な胚を戒める忌々しき言の葉---それが、母体であるトンヌラの命を脅かす原因だった。
「じゃ、アタシはこれで…役に立てなくてすまないね」
「待て」
そそくさと帰り支度をはじめる魔女の襟髪を掴んで引き寄せる。
「な、なにさ!?解けないと言っただろう」
「おまえが解く必要は無い。方法くらい分からないのか」
「なにさ、ずいぶんとご執心じゃないか。そんなにこの娘に惚れているのかい?」
「…………」
ひひひ、と笑う魔女の頸をズィータはふたたび無言で締め上げた。
「おま、お待ち!!げほっ、言う、言うよ!!」
床に下ろされた魔女は古びた布袋から手の平程の大きさをした金属の壷を取り出した。先細りの蕾に似たそれは、
奇妙なことに不安定に揺れながらも掌でバランスを保っている。
「こいつは…?」
「雛鳥の練金壷、いにしえより受け継がれて来たあたしらの商売道具さ。
この娘の呪いを解く薬を作るには、世界樹の葉をこいつで練成すれば……」
「---婆ぁ、トンヌラを見てろ」
「は!?ちょっとお待ち!薬は…………」
疾風のように宿を飛び出したズィータの耳に、老魔女の声はすでに届いていなかった。
「厄介なもんに捕まっちまったね、アンタもアタシも」
深いため息をつき、魔女はトンヌラの身体に布団を掛け直した。
王子様は 船を繰り
世界樹の小島で貴重なひと葉をつみとりました
「…こいつを湯浴みのときに一束、桶に入れてみな。身体もようく暖まって、じき子宝も授かるじゃろ」
「ありがとうございます」
「次はアンタ、肌を白くしたいって?それなら……ヒャッ!!」
ごうっ。魔女をかこむ女達のかたわらを、激しく渦巻く風が通り過ぎる。
彼女らが瞼をあげた時には、紺青の鎧に身を包む長身の男がそこに居た。キメラの羽根のひとひらが空中に舞って消える。
「てめえ、なにしてやがる!トンヌラについてろといっただろう!?」
「アタシだって、客がいるなら商売もしたくなるじゃないのさ!」
「あんたらもさっさと行った行った、もう店仕舞だ」
居合わせた人妻たちは、突然現れたズィータの精悍な横顔にひそかな溜息を漏らした。それに気づかぬ本人は
至って無造作に彼女らを追い払う。
トンヌラの顔色はますます血の気を失い、透き通る蝋細工のような白さを見せていた。
ズィータは不安げな面持ちで乳房に触れる。そこはまだかろうじて上下していた。
「まあ、よくも一人であんな所まで行って来たね…アンタ何者だい」
摘み取られてなおみずみずしさを失わない世界樹の葉を掌に載せ、しげしげと眺める魔女。
「なんだっていい、早く練成を始めろよ」
魔女は上目遣いに依頼主をながめ、しばし言い淀んだが---
「ああ……そうだね。じゃあひと月ほどお待ち」
「はあ!?てめえ、戯言ぬかすと承知しねえぞ!!!」
「だ、だから、ちゃんと話を聞いてからお行きと……!!」
ちがった効能を持つ薬を生み出すには壷の魔力をもってしても長い時間が掛かるのだ、と魔女は息切れしながら語った。
「ひと月だと……!!そんなに待てるか!あいつの命の火は、今にも……」
おわりまで言えず、ズィータは唇を噛んだ。
信じられるか。いかなる時でも求めればそこにあったやわらかな肢体が、もうじき手の届かない場所へ行ってしまうなど。
「壷の縁をドラゴンの血で満たせば一気に反応が進むけどね。アンタは腕が立ちそうだけど、また今から
ドラゴンを狩りになんて行ってちゃそれこそ間に合わないだろ。せめて最後まで傍にいておやり」
気を利かせたつもりか、魔女は再び帰り支度をはじめる。その腕を掴み、ズィータは厳しい口調で質した。
「婆ぁ、今何と?」
「そんなに惚れた娘なら、最後はアンタが看取っておやりと……」
「違ぇ!!何の血がいるって!?」
苛立ち混じりというより全開の形相に、今度こそ老いた頸をへし折られるのではないかと魔女は慌てて答えを変えた。
「ドラゴンだよ、ドラゴン」
すると---どうしたものか、男の表情に余裕が戻った。
「なんだ…それで良いのか」
がちゃん、と音をさせて手甲がはずされた。防刃のグローブも脱ぎ、拳を強く握りしめる。
「婆あ、壷を持ってろ。こぼすなよ」
「は?」
不敵な笑みを浮かべた竜王の末は、病床の連れ合いにちらと視線をうつす。
「俺の許しもなく、死なせてはやらねえぜ」
そのまま、尖った犬歯で己の手首を噛み切った。
「アンタ!!何をして…」
「動くな!!」
迸る鮮血はみるみる壷に満ちて行く。一瞬の間ののち、世界樹の葉のふちからこまかな泡が立ち上って来た。
ふちまで溢れた血はやがて激しく沸騰し、壷自体が回転をはじめる。それを確認すると、魔女はそっと壷をテーブルに戻した。
「…いいみたい、だな」
なおも血の吹き出す手首を押さえたままズィータは椅子に身を預けた。
「アンタは……アンタらはほんとうに…………人間じゃないのかね」
「うるせぇな…なんだっていいだろ。グダグダ言わずにホイミでもかけろ。金は払ってあるだろう?」
治癒魔法は傷を塞ぎこそすれ、失った血液まで戻すものではない。流石にその口調にも言葉ほどの勢いは感じられなかった。
そうする間に練金の壷は徐々に回転数を落とし、やがてゆるりと動きをとめた。妖精の鳴らす鈴のような妙なる音とともに、
壷の口から湯気があがる。中身はいつの間にかすかに緑がかる透き通った液体へと変化を遂げていた。
壷を覗いた魔女は満足げに頷き、それをズィータへと手渡した。
ズィータはトンヌラの身体を抱き起こした。心なしかふっくらと、さらに女性寄りの肉体になった気がする。この胎内に赤子が居るのか。
(……俺の子、か)
おかしな気持ちだった。『それ』は只の、復讐の道具でしかない筈なのに。生まれる前から邪神の戒めを受け、おそらくひとの姿を
してさえいないであろう我が子。…トンヌラは、それでもその子を愛するだろうか。
(どうかしているな、俺は)
頭を振り、馬鹿な考えを追い出す。
老魔女に背を向けて壷の中身を口に含むと、ズィータはそっとトンヌラに唇をかさねた。
トンヌラは夢を見ていた。見たこともない城の中庭で、自分は降る雪を掌に受けている。
そっくりな顔をしたふたりの幼子が、左右から笑いかけていた。
(キミ達はだれ……?)
知らない顔、けれど、とてもよく知っている気もする。……そうだ。ズィータによく似ている。
ふいに背中から抱きしめられて振り向く。そこには自分を暴力で犯し、人格もないほど苛んだあるじである筈の男が---柔らかな笑みで立っていた。
……その顔。あなたのその顔が僕はずっと見たかった。その笑顔をときどき見せてくれるなら、どんなことをされてもいいよ。
はにかみながら見守る双子の前で、トンヌラは愛する男と優しいくちづけを交わした。
「…………おなか…………へったな…………」
肉体の欲求のままにつぶやく。
「お前、目覚めて最初の言葉がそれかよ」
呆れたような、また、ほっとしたような声。目を開くと、いつもの不機嫌そうな顔のズィータがベッドサイドに腰掛けていた。
その手首に巻かれた包帯に目をとめ、トンヌラは声をあげた。
「どうしたの!?誰がそんなこと……」
並の魔物が彼に傷を負わせられる筈もない。自分が意識を失っている間になにがあったのか。
「別に」
しかし主はつっけんどんな答えを返すだけだ。
全身を隈取っていた痣も消え、己の身がどんな状態であったのかトンヌラ自身にさえもう分からなかった。
「僕……ずいぶん迷惑をかけたんじゃない?」
長いこと床についていた気がする。その間どれだけ主人に煩わしい思いをさせたのだろう。
だが、意外にもズィータの声は穏やかだった。
「そのことはもう訊くな」
「でも……」
「命令だ」
そう言われてしまうともう何も言い返せない。トンヌラは黙って頷いた。灯りの加減か、彼の顔はどことなく上気しているようにも見えた。
(きっと気のせいだよね)
「お前はちょっとばかり寝過ごしただけだ。何も考えるな」
ベッドテーブルの上に、ハーブ入りのパンとシチュー、卵の焼き菓子の皿が置かれる。
「え」
「腹減ったんだろ、しっかり食え」
「ズィータ様は?」
「いいから食え」
どういう風の吹き回しか。いつもは主が食べ終わるのを待って、ひととおりの奉仕を要求されるのに。
「い、いただきます」
カエルのシチューはあたたかくほっとする味で、失った体力を取り戻してくれるようだ。
「しっかり食っとけ、腹の赤ん坊の分もな」
「あか…」
スプーンを持った姿勢のまま固まるトンヌラ。
「お前の腹の中に、俺の子が居るんだとさ」
腕組みのまま逸らしたズィータの表情は、ベッドの上から窺うことはできなかった。しばらく放心したように
口をつぐんでいたトンヌラだが---
「…そう」
短く答えただけで、ふたたびスプーンを動かし続ける。
「あんまり驚かないな」
「……驚いてるよ。でも、どうもできないじゃない。僕はあなたの言いつけに従うしかないんだから」
先程の夢の意味がおぼろげながらわかった気がする。トンヌラはそっと下腹に触れた。…あなた、ううん、あなたたちだったんだね。
ズィータは意外な面持ちで供を見やった。
「まあ、そういうことだ」
…母親になると肝が据わるというが、こういうことなのか。
シチューを綺麗にたいらげたトンヌラは、パンの切れ端で丁寧にボウルをぬぐいながら問うた。
「次の命令は?」
「俺のために良い子を産め」
トンヌラは男の命令に、はじめて心からの笑顔で応えた。
「御意」
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