彼の名前はザンザスといった。ザンザスの家はお金持ちで、住んでいる家は屋敷というほどに広かった。その屋敷の中には、黒いスーツを着た大人がいつもたくさんいた。そんな少し特殊な環境で生まれ育ったことと、元来人見知りをする性質だったせいか、ザンザスには同年代の友達といえるものは、一人もいなかった。屋敷にいるたくさんの大人達の中にも、親しい人は少なく、自分の身の回りの世話も、気を許したメイド以外にはさせなかった。 ザンザスの中で親と言えるべき存在は、父親しかいなかった。自分を産んだ母親は、顔すら知らない。ザンザスの父親は優しく温厚で、決して暴力に訴える事はない、とてもよく出来た人間だった。彼は片親ということで、ザンザスにはできる限りの愛情を注いでいた。心の底から彼を愛し、厳しく叱った。ザンザスもまた、そんな父親を一番に愛していた。 ある日のことだった。ザンザスは、いつものようにメイドに起こされ、いつものように着替え、いつものように一日の始まりをぼんやりと過ごしていた。朝食を済ませたらラテン語の勉強が待っている、その次はピアノのレッスン……指をおりおり予定を確認しながら、ザンザスは窓の外を見た。とても晴れ晴れとした青空が広がっていた。屋敷の周りは森で囲まれており、小鳥が木々の間を縫って飛ぶ影が、とてもきらきら輝いて見えた。 きっかけは単純だった。メイドには体調が悪いと伝えて、部屋で一人ドキドキしながら、隙を見計らってトイレの窓から屋敷を脱走した。ザンザスがこんな事をするのは初めてだった。屋敷の大人達は皆、ザンザスがこんな事をするとは考えていなかったのだろう、ザンザスの脱走は、驚くほどうまくいった。 不思議な力はザンザスをいつ何時でも苦しめていた。幼い頃は時々人の心が分かったりしたが、ここのところは、知りたくもないのに、身近な人間の考えていることや、気持ちがほとんど分かるようになってしまっていた。 例えば、今日起こしに来てくれたメイドなんかは『ザンザス様、平気かしら? 自室にこもってらっしゃるばかりで体調が心配だわ』そんな事を考えていた。部屋のドアをノックしてきた時に、その声が聞こえてきて、メイドが起こすより先にザンザスは目を覚ましてしまった。まだこんなのは可愛いほうで、ザンザスの部屋の扉近くに、べったりとくっ付いている専属のボディーガードなんかは『あの女の胸、でかかったなぁ』やら『後一時間で飯だ。ガキのお守りも大変だぜ』やら『このクソガキめ。死んじまえ』なんて考えていたりする。自分に対しての敵意は当たり前、ザンザスが分かってしまう人の気持ちの多くは、汚い感情ばかりだった。そして、自分に全く関係ないことでも、近づくだけで分かってしまう事もあってか、ザンザスは一日のほとんどを自分の部屋に一人きりで過ごすようになっていた。 そんな中で、ザンザスが屋敷から抜け出したのは至極当然だったのかもしれない。 ザンザスは、屋敷の周りの森の中を足早に駆けていた。屋敷を抜け出した罪悪感と解放感の入り混じった気持ちを抱えながら、心を弾ませていた。自分の着ている洋服を枝に引っ掛けて破いたりだとか、転んで泥がついたりだとか、今何処を進んでいるのか、そんなものは気にならないくらいザンザスは興奮していた。そのうちに疲れてきて、ぴたりと足を止めて振り返ると、木々の向こう側に、小さく見える屋敷がザンザスの瞳に映った。ザンザスはなんだか嬉しくなって、ふふふ、と小さな声をあげて笑った。そして一息つくと、また走り始めるのだった。 そんな事を何回か繰り返しているうちに、木々の向こう側に見えていた屋敷は、もう跡形もなくなっていた。敷地内の森が広すぎて、自分が何処を歩いているのか、いよいよ本格的に分からなくなってしまったのは計算外だったが、あの重苦しい空気の中から外に出れただけでも、今のザンザスにとっては幸福だった。 今何時か、何処にいるのか、段々と不安な気持ちが大きくなっていく中、ザンザスは森の中をふらふらとした足取りで進んでいた。喉も渇いたし、少しお腹もすいてきた。屋敷を抜け出してきたことを後悔し始めたその時に、ふと、焼き菓子を焼いているような、香ばしい香りがザンザスの鼻をくすぐった。ザンザスは不思議に思って、神経を研ぎ澄ませながら、匂いの漂ってくる方向へと足を進めていった。 辿り着いたところは、森の中とは思えないほど開けた場所だった。森の中の平野のようなその場所は、まるで童話の中の小人が住んでいるような不思議な場所だった。周りに咲いている花は、手入れがされているようで、全身に水滴をまといながらきらきらと光っていた。その真ん中に、円錐と、左右に直方体を合わせたような形の小屋が建っている。小屋は、赤レンガ色の壁に、渋いグリーンの窓枠、チャコールグレーとホワイトのまだら模様の屋根が印象的に見えた。まるでミニチュアの家をそのまま大きくしたような小屋だ、とザンザスは思った。煙突からは煙が出ていて、すぐ側には、四メートル四方ほどの畑があった。こんな小屋の中に、誰が住んでいるのかと周りを見渡しながら、ザンザスは胸をドキドキさせていた。そして、お腹が減ったのも忘れて小屋の中へと吸い込まれるように入っていったのだった。 入ったそこは別世界だった。ジャムや香辛料の置いてある棚、木製テーブルの中央に飾ってある花、レースのついたテーブルクロス。そして、大人達の剣呑な空気の変わりに流れる、落ち着いた空気。混沌とした屋敷に比べて、ザンザスにはこの家が華やいで見えた。生活感のある風景。ザンザスの目に映るどれもこれもがきらきらと輝いて見えた。全てが屋敷にはなかったもので、まるで秘密の家みたいだ、とザンザスの胸はまたドキドキした。 「あらあら、小さなお客さんね」 ザンザスがびくりと肩を震わせて振り向くと、そこには品の良さそうな老婆が一人立っていた。 「あ……」 「何処から来たの?」 「あの……」 「ふふ、言えない所なのかしら」 「すみません、勝手に入ってしまって」 ザンザスがやっとのことでまともな答えを返すと、「ボンジョルノ。可愛いお客さん」と老婆はさして気にする様子もなく、ザンザスの方へゆっくりとした足取りで近づいてきた。老婆は、大きな丸い玉のイヤリングに、お揃いの玉のネックレス。小花柄のワンピースに、黒いケープを巻いていた。まるで童話に出てくる魔法使いのようだとザンザスは思った。 「あなたのお名前は?」 「ざ、ザンザスです」 「ザンザスね。私はよ。スコーンがもうそろそろ焼きあがるところなんだけれど、一緒にいかが?」 勝手に入って怒られると思っていたザンザスは、この品の良さそうな老婆、の突然の誘いに戸惑った。戸惑ったが、今更大騒ぎになっているだろう屋敷にも、戻ることもできないし、お腹もすいて喉も渇いていたので、この誘いを快く受ける事にした。 ****** 招かれたお茶会は、本当に二人でするのかと疑うほどに、たくさんのお菓子が用意された。先ほど言っていたスコーンはもちろん、クッキーやチャンベローネ、カンノーリ、スコーンに塗るためか、クロテッドクリームと並んで木苺、マーマレード、等々のジャム達まで。机の上が食べ物でいっぱいになっている。その間を縫って、ティーポットとティーカップが並べられる。 「どうぞ、温かいうちに食べて」 机の上のお菓子の多さに驚きながら、ザンザスは勧められるまま、まだ温かいスコーンに木苺のジャムと、クロテッドクリームをたっぷりつけて頬張った。スコーンの香ばしさと、甘酸っぱい木苺のジャム、そしてとろりとした口当たりのよいクリームがほどよく混ざり合いながらザンザスの口いっぱいに広がる。そこへがカップへ紅茶を注いでくれる。カップからは白い湯気が立ち上り、注がれていく透き通った赤茶色の紅茶が、爽やかな香りをザンザスの鼻腔に運んできた。「どうぞ」というの声に、ザンザスは「プレーゴ」と返して、スコーンと一緒に紅茶を飲み込む。すると体がぽかぽかと温まって、ザンザスは何だか幸せな気分になった。 「お砂糖とミルクはここにあるわ。あ、エスプレッソやカプチーノがよかったら遠慮なく言ってちょうだい。コーヒーはまだ早いかと思って勝手に紅茶にしてしまったのよ」 「大丈夫です」 「ゆっくりしていってちょうだいね。もう主人も子供も、誰もいなくなってしまって、退屈していたの」 「あの、ここにはお一人で住んでいらっしゃるんですか?」 「いらっしゃるだなんて、あなたは礼儀正しいのね。いいのよ、気を使わないで楽にして」 「はい」 そうは言われたものの、実際ザンザスはどうしていいか分からなかった。父に、そして屋敷中の男全員に、『女の人は大事にしなさい。例え赤ん坊であっても老人であっても、優しくして、敬意を払う事を忘れるな』と口を酸っぱくして言われていたからだ。 「子供の所で暮らすのも悪くないのかもしれないけれど、私はここを離れたくなくて……」 目を伏せて話すの様子から、ここが大変気に入っているのだろうという事が伺えた。ザンザスはどう答えていいか分からなくて、ずっと紅茶を飲み続けていた。 「あなた、マンマはいるのかしら?」 「いません」 「ふふふ、やっぱり。女の人と話すの、慣れていないように見えるもの」 の言葉に、ザンザスは眉をしかめる。 「ごめんなさい、怒らせちゃったかしら」 は肩をすくめて紅茶に口をつける。 「あなた、何か困ってる事でもあるの?」 「え?」 「顔が困ってたわ。今は怒っているけれど」 は無邪気に声をあげて笑った。そして、ザンザスの目をじっと見る。の視線は心を見透かすようで、ザンザスはいたたまれずに、視線を逸らした。 「まだ若いんだから、あまり悩みすぎては人生がもったいないわ。よかったら、話して」 がポットに手をかけて、空になってしまったザンザスのカップに、まだ温かい紅茶を注ぐ。カップの八分目まで紅茶を注ぐと、ザンザスの話を待つように、はにこりと笑った。 「プレーゴ」 ザンザスはカップを両手で包みながら、口元に持っていく。白いカップの中の茶色い水面に、自分の沈んだ顔が映っている。 「悩んでいるのは何かしら? ……人の気持ちが読めたりとか……なんてね」 「えっ」 ザンザスは思わず声をあげていた。 「あら、当たりかしら」 は当たるとは思っていなかったのか、目を大きく見開いて、びっくりしている。ザンザスは、話しかけた手前、止めることは出来ないと、口ごもりながらもぞもぞと話し始めた。 「…………皆、話してるのに、違うこと考えてたり、いいよって言ってるのに、本当はダメだって思ってたり……し、死ねって思ってたり……皆の声が聞こえてきて、」 ザンザスが最後まで話きれずに、顔をあげる。向かい側のは、穏やかに笑ったまま黙っていた。ザンザスは、黙っているを見て、条件反射でドキリとしてしまう。相手が黙っているときは、聞きたくない声が、はっきりとザンザスに聞こえてくるからだった。 「あの、気にしないで下さい。すいません……」 ザンザスは謝罪の言葉をもぞもぞと口の中で転がした。……多分変な子だと思っているに違いない、そうザンザスは思うと、また胸が苦しくなった。聞きたくない声がすぐに聞こえてくるんだ、とザンザスは無意識に奥歯を噛み締める。 「……感受性が強いのね。可哀相に。辛いでしょう?」 がそう言いながらザンザスの頭を撫でる。ザンザスは反射的にぴくりと肩を震わせた。いつも追いかけてくるように頭に響く声は聞こえず、変わりに、「大丈夫よ」という優しい声がザンザスの鼓膜を揺らす。 「僕、どうしたら?」 「おまじないをするのよ。ひとつ、ふたつ、みっつ、数を数えて、深呼吸するの。嫌な気持ちもその時に吐き出せるわ」 「吐き出して、どうなるの? 嫌な気持ちなんて溜まっていくばっかりだ……絶対に追いつかない」 「そんなことないわ。ほら、やってみて」 半信半疑で、ザンザスは言われるまま、肺いっぱいに空気を吸い込む。 「はい。いち、にぃ、さん」 掛け声に合わせて、吸い込んだ空気を一気に吐き出す。 「頭がくらくらする」 「でも、嫌な気持ち、出て行ったでしょう?」 「はい……でも、皆の声がまた聞こえてきたら……」 「皆正直なだけよ。そして、あなたはちょっと、人より鋭いだけ」 ザンザスの体に染み渡るようにの言葉が響く。周りの大人達に同じような事を言われた事があったが、その裏側の言葉が聞こえてきて素直には聞けなかった。けれど、に言われると、何故だかザンザスは納得できた。 「あなたも素直になればいいのよ。我慢する必要なんてないわ。言葉が聞こえてきたら、思ったことを言っておやりなさい」 「うん」 両手で包んだままだった紅茶をザンザスは一口飲む。少し冷えた体がまた温まって、心がとろとろと溶かされていくようだった。 「そういえば、さんは何のお仕事をしてるの?」 「私? 私は、魔女よ」 ぱちり、とウィンクをするはとてもお茶目に見えた。可愛らしいという言葉がぴったりだとザンザスは思った。 「じゃあ 1月 5日には良い子にお菓子を配るの?」 「ふふふ、そうよ。悪い子には炭も用意してるわ」 「僕はお菓子貰えるかな?」 「さあ? どうかしら」 ザンザスはと話を続けていて、こんなに楽しく話をしたのはパパン以外では初めてだと思った。温かい紅茶も、食べきれない程のお菓子も、確かに屋敷の中で見たこともあったが、今とは全然違って見えた。 からは、話している言葉以外に余計な感情が一切ないように感じた。気持ちが読めないのだ。こんな事は初めてで、ザンザスは不思議に思ったが、の言葉一つ一つが、ザンザスの頭に優しく響くようで、全く嫌味は感じなかった。むしろ、一緒に居て穏やかな気持ちになっていた。 「また、来てもいいですか?」 「ええ。いつでもいらっしゃい」 とザンザスがお茶会を終える頃には、空がオレンジ色に染まり始めていた。帰り際にザンザスは、「チャオ」とに両頬にキスをされたのだけれど、ザンザスは父親以外にそんなことをされた事がなく、とてもびっくりした。けれと、それと同時に心にぱっと火が灯ったようで、嬉しくもあった。 に教えられた道を歩きながら、ザンザスは振り返って小屋を見る。なんだか小屋自体がきらきらと輝いて見えて、そこだけ絵本の中から抜け出してきたように見えた。 自分の悩みを一目で見抜いたり、おまじないを教えてくれたり、もしかしたらが魔女というのも、あながち嘘ではないのかもしれない、ザンザスはそう思いながら屋敷への帰路を辿るのだった。 ザンザスが屋敷を抜け出してからというもの、元々厳重だった屋敷の警備が更に厳重になった。ザンザスは常に専属のボディガードに監視されるようになった。帰ってきてすぐ、ザンザスは父親にこってりと絞られたが、『気づいてやれなくてすまなかった』と最後に一言、謝られた。『いいんだ、パパン。僕も勝手に抜け出したりしてごめんなさい』そうザンザスが謝ると、父親は目を細めてザンザスをぎゅっと抱きしめてくれた。 ボディガード達はというとザンザスに対して何も言わなかったが、彼が通り過ぎる度に、心の中で不平不満の声をあげていた。『お前のせいでオレが怒られたんだ!』『このクソガキ! 心配かけやがって……!』そんな言葉が聞こえたような気がした後は、ごめんなさい、とザンザスは素直に謝った。そんなザンザスにボディガード達は皆目を丸くして、一瞬の後に「どうしたんですか?」とバツが悪そうに聞いてくるのだった。ザンザスはそれを愉快だと思った。 に会ってからというもの、ザンザスは前ほど自室にこもったり、嫌な気持ちを溜めることはなくなった。そして、嫌な事があると、あのおまじないをするようになった。 ****** 二回目の屋敷からの脱走が成功したのは、ザンザスが初めて屋敷を脱走した日から、ゆうに一年は経っていた。 に会いたいと思って、ザンザスはあれから何度も脱走を試みたが、その度に見つかってしまい、叱られた。の事を言えば、許してくれたのかもしれなかったが、ザンザスは自分だけの秘密にしておきたいと、の存在を誰にも言わずに居た。あの時の思い出は、ザンザスの胸の中で今でもきらきらと輝いていた。 「こんにちは、さん。僕です、ザンザスです」 「あらあら、ずい分久しぶりね」 あれから一年程も経っていたというのに、は相変わらずにこにこと穏やかに笑って、温かく迎えてくれた。ザンザスはそれがとても嬉しかった。そして、あの時と同じように、たくさんのお菓子を二人テーブルで囲みながら、お茶会が開かれた。は、今度は紅茶ではなくて、エスプレッソを用意してくれた。 「エスプレッソが飲めるなんて、あなたも少し大人になったのね」 「カプチーノが嫌いなだけです」 「じゃあやっぱり紅茶の方が良かったかしら」 再会の挨拶もそこそこに、二人で声をあげて笑う。そのうちにまたが「あなた、また困った顔をしているわね」とウィンクをした。 「なんでもお見通しなんですね」 「ふふふ、私は魔女よ」 確かに、ザンザスはに会いたいとも思っていたが、それ以上に話を聞いてもらいたいとも思っていた。あの日から一年経った今でも、ザンザスが頼れる大人は、父親しかいなかった。そして、そんな話をしてもいいと思える大人はだけだった。 「父がなんていうか……あまり僕と話をしてくれないんです。最近、何度も日本に出かけていて、疲れているようだし……なかなか機会もなくて……」 「……ふふふ、構ってくれなくて、日本に焼きもちを妬いてるのね」 「ち、ちがいます!」 それは、本当のことだった。けれどザンザスは認めたくないようで、自分はただ単に寂しいだけなんだ、と思い込んでいた。 「じゃあどういうことなのかしら?」 「ピアノの先生に褒められた事とか、友達が出来た事とか、そういうこと、話したいだけ……」 「話してみればいいじゃない」 「言えないよ」 「あら、どうして?」 「だって、大変そうなんだもの」 「そうかもしれないけれど、あなたが我慢する必要はないはずよ」 「……僕の話なんか聞いてる暇、パパンには絶対ないんだ」 は笑顔だった顔を歪ませてから、心配そうにザンザスの目を見つめる。 「言いたくないの?」 「――――っちがう!」 ザンザスは自分でもびっくりするぐらいの声をあげていた。一瞬、沈黙がこの部屋を支配した後に、 「正直に言えるじゃない」 と、の優しい声が部屋の空気を震わせた。自分にうろたえるザンザスとは対照的に、は落ち着いてにこにこと笑っていた。ザンザスの胸中では言葉にできない思いがぐるぐると渦巻いていて、に何を言っていいかわからなくなっていた。 「すみません」 「こんなお婆ちゃんでよかったらいくらでも話を聞いてあげるわ」 しまいにはザンザスは謝罪の言葉しか浮かばなくなっていた。 「すみません」 「ほらほら、深呼吸しましょう。はい。いち、にぃ、さん」 そう言ってザンザスの背中を撫でるは、まるで母のようであった。 「さん……ぼ、ぼく……」 堤防が決壊したように、ザンザスの目からは涙が溢れた。ザンザスはの胸で声を震わせて泣いた。 「すみません」 「謝らなくてもいいのよ。誰だって人にすがりたい時はあるもの」 「すみません」 ザンザスは泣き止んでからも、ずっと謝り続けていた。 「大丈夫。ほらほら、あのおまじないしましょう? はい。いち、にぃ、さん」 の掛け声に合わせて、ザンザスは深呼吸をする。 「ありがとう、さん」 はにっこり笑って、ザンザスの頭を撫でた。 ****** あれから、ザンザスはに会いに行かなくなった。会いに行けなかったという方が正確なのかもしれない。屋敷の警備が、蟻一匹入り込めないほど、そして抜け出せないほどに厳重になったのもそうだが、ザンザスは学校に通い始めていた。ザンザスは学校に通いながら、ベファーナの日になると必ず、を思い出していたが、それ以上に自分の生活が忙しくなっていた。 何度か春を迎えたザンザスは、少し大人になっていた。分別もついて、例の不思議な力も悩むほどではなくなっていた。自分の事を僕からオレと言うようになったのもいつだったか、ザンザス自身も覚えてはいない。 ある日学校で、自分の中の大切な人に手紙を書きましょう、という内容の授業があった。鉛筆を握るザンザスの頭には、自分の父親と、屋敷の大人達と、が浮かんでいたが、そんなものを真面目に書くほど、ザンザスは幼くはなくなっていた。 その帰り道だった。ザンザスはふと、の家へと行こうという気になった。ちょっとした出来心で、挨拶をしたら帰ろうと思っていた。獣道を歩きながら、ザンザスはゆっくりと幼い頃の記憶を辿っていく。は、とても魅力的な女性だった。こんな自分に、まるで母親のように接してくれた。おまじないを教えてくれたり、頭を撫でてくれたり、キスをしてくれたり。ザンザスは思い出して何だかむずがゆいような気持ちになっていたのだが、それはけっして嫌な気持ちではなかった。 ザンザスがに会えたのはたったの二回きりだ。それも、大分昔の事。けれどザンザスは、いつでもが温かく迎えてくれる、そんな自信がどこかにあった。あの人は変わらずにあそこにいるんだ、と。 辿り着いたそこは、荒れ果てていた。庭と呼んでいた場所には、ザンザスの身長半分ほどの草がぼうぼうと生えていていて、ザンザスの視界を遮っている。畑は草のせいで何処にあるかもわからない。家の壁は所々がはげ、そこへ蔦が屋根まで絡み付いていた。 「さん」 ザンザスは声を掛けながら、草を踏み分けて小屋へと近づいていく。けれど、期待している返事は返ってこない。 「さん」 ザンザスは何度も声を掛けながら、家の周りをぐるぐると回った。声をあげる度に、ザンザスの声は木々の間に吸い込まれていく。 少し寂しい思いをしながら、小屋のドアに近づくと、茶色いドアからはみ出る、クリーム色の紙がザンザスの目に留まった。ザンザスが端を掴んで引っ張り出したそれは、封筒だった。四隅が少し茶色くなっていて、長年の風雨にさらされてか、表面は少しボコボコしていた。表には『ザンザスくんへ』と書いてあり、裏返すと、『より』と丁寧な字で書かれていた。封筒のフラップをゆっくりと開くザンザスの手は、少し震えていた。 『ザンザスくんへ ちゃんとさようならを言えなくてごめんなさい。足が悪くなってしまって、ここでは暮らしていけなくなってしまいました。こんな体で皆に迷惑をかけるわけもいかないので、息子の家にやっかいになろうと思っています。 このお手紙を呼んでいる今、あなたはまた少し大人になっているのでしょうね。学校にはもう行っているのかしら? 宿題はちゃんとやっていますか? 多分ザンザスくんにはお友達もたくさんできていることでしょう。あなたには人を惹きつける魅力と、カリスマ性を感じます、なんてね。きっとあなたは真面目でいい子だから、こんな心配はいらないのでしょうね。 忘れないで。お父さんはあなたの事をきっと愛しているわ。衝突しても、ちゃんと話し合ってみて。 P.S.おまじないを忘れないでね。 より』 この他に手紙には色々書いてあったが、湿気でにじんでしまっていて、これ以外は読むことが出来なかった。読み終えてから、ザンザスはいてもたってもいられなくなって、手紙を乱暴に鞄に詰め込むと急いでドアを開けた。開けて、ザンザスは目を覆いたくなった。壁や床に、クローゼットやテーブルが置いてあった痕跡は残っているものの、人はおろか、物は何もなくなっていた。ジャムや香辛料の置いてある棚も、木製のテーブルも、レースのついたテーブルクロスも、何も。ザンザスには受け入れたくない現実が目の前に広がっていた。そのうちに、がひょっこり現れるんじゃないか、そんな気がして、ザンザスは部屋一つ一つを覗いてまわったけれども、やっぱり誰もいなかった。 「さん」 ザンザスの声は、がらんどうになってしまった小屋の中で小さく響いた。 小屋の中から出る間際、ザンザスは振り返ってもう一度部屋の中を見回した。けれど、シミのついた壁や床以外は何も見えなかった。あの時きらきらと輝いて見えた景色が、薄暗い中で、ただ埃をかぶっているだけだった。 (END) |