元来スペルビ・スクアーロという男は見た目の通り乱暴で、横柄で、衝動的ともいえる行動がしばしば見られた。それは彼の上司ととてもよく似たところであったが、ただ一つ決定的に違うのは、どこまで自分本位かの度合いであった。 愛情表現にしても、何にしても、相手が嫌がる素振りを見せれば、彼は無理強いはしなかった。時たま彼のサディスティックな性質が、意地の悪い行動をさせたりもしたが、基本的に、自分の手中にあるものは壊すことはなかった。 それから、彼は一つのものに固執する癖があった。剣士だから、と言ってしまえばこじつけのように聞こえるが、彼の上司への忠誠心然り、律儀に八年間も切らなかったという髪の毛然り、彼は一途な男だった。 二. という女は、彼にとって、とてもとても可愛い女だった。一見気丈に見える女だったが、つつけばすぐに崩れ、泣いた。気丈さという盾を一皮剥いてしまえば弱い所だらけで、彼女は典型的なか弱い小動物だった。彼には、何かするたびに自分の手の平の上で、くるくるころころと容易に転がる彼女が愛しいと思えた。ある種サディストとマゾヒストのような、そんな性質が合致したのだろうか。いつの間にやら彼のすぐ側にぴったりと彼女は居るようになった。彼女の存在は、彼の嗜虐欲と、庇護欲と、独占欲を満たしていた。 彼は満ちたりた毎日を送っていた。 三. 彼女が死んだという知らせを聞いたのはいつだったか。 彼は頭をトンカチで力いっぱい殴られたような、そんな気分だった。頭の中のものが吹き飛んでしまい、彼は言葉も出なかった。彼にとって彼女は永遠不変の存在であり、突然雪のように溶けていなくなるなどという事は、これっぽっちも考えてはいなかった。 だが、彼女は死んだ。 死体はなかった。彼の上司が言うには、爆発に巻き込まれて全て燃えてしまったという話だった。燃え尽きた後からは灰しか出ず、彼が遺品代わりに渡されたのは、白い紙に黒いインクで印字された箇条書きの死亡報告書だけだった。 彼の空っぽになった頭の中には、嘘というただ一文字だけが浮かんでいた。 四. 彼女が居なくなってからの数日、彼は肩透かしをくらったかのように、日々を過ごした。嘘の言葉が頭の中を回遊し尽くした後は、夢という文字が代わりに頭の中を泳ぐようになっていた。 ――そのうちに自分は目が覚めて、すぐ隣で白いシーツにくるまって眠る彼女を見つける。またあの日常が始まるはずだ。 だってベッドの中には彼女の匂いが残っていたし、腕の中の感触だってありありと思い出せた。あの柔らかな唇だって、苦しそうに目を細める仕草だって、胸を押し返す弱々しい手の平だって、全て、全て。だが、彼女がいないのだ。いや、どこにだって彼女の居る痕跡はあるのに、彼女の姿だけがないのだ。ただそれだけなのだ。 彼はそう思い込んだ。 五. そうしてどのぐらいたっただろうか。ある日、彼はふと、彼女の匂いが薄くなっている事に気が付いた。彼の部屋に持ち込まれた彼女の私物は、嫌と言うほど部屋の風景に溶け込んでしまっていた。彼女の姿が消えた直後は、それが改めて異物であると再認識させられた。だが、少し経つと、持ち主の居ない日用品の数々は、彼の部屋のインテリアと化し始めていた。 同僚の口から、自発的に彼女の名前が出ることも少なくなった。彼がその名前を口にすれば、皆はっとした表情をするか、悲しそうな顔をした。周りも彼女の事を忘れ始めている。自分の部屋からも、彼女の匂いが消え始めている。 彼は言いようもない喪失感や焦燥感に駆られていた。 六. 数日経った頃、彼は夢を見た。今まで見なかった事が不思議なくらいに、今の彼の願望をそのまま映した内容だった。周りの景色はぼんやりとしてはっきりはしないのだが、たった二人きり、彼と彼女が居る夢だった。ただそれだけ、特別なことなど何もない内容なのに、彼は目が覚めてから、彼女の匂いや、唇の柔らかさや、そういったものを思い出して、いてもたってもいられなかった。夢の中に登場する彼女は、以前と同じように笑い、当たり前のように彼の隣に立っていた。彼が抱きしめると、腕の中には、確かな彼女の感触がした。腕に力を込めると、彼女は苦しそうに身をよじり、小さく体を預けながら、 「スクアーロ」 ぽつりと彼の名前を呼ぶのである。 彼は、が帰ってきたのだと思った。 七. それから彼はよく眠るようになった。用事が終わればすぐに眠れる所を探し、目をつぶった。彼女の居る世界に行くためだ。たとえ彼女に会えなくても、苦しいだけの世界に長居するよりは、いくらかマシだと彼は思った。 眠るためには、なんでもした。酒、薬、睡眠薬、起きている間は現実を見なければならなかった。 ――夢の中での主導権はいつでもこちら側にある。つつけばふらつき、は倒れないように必死にもがく。いよいよ倒れそうな所でその手を引いてやれば、簡単にこちらに倒れこみ、すっぽりと腕の中に収まる。馬鹿馬鹿しいぐらいの幸せな日常。今までも、これからも、きっとずっと、そうなるはずだ。 比重が傾きかけた今、どちらが夢で、どちらが現実なのか。彼にとってはどうでもいい事だった。 八. 時間が経つと、彼女の居ない方の世界が余計に疎ましくなった。彼女の居ない方の世界では、彼女の痕跡はあるものの、姿はない。彼女の居る世界では、周りはおぼろげで、彼女しか居ない。彼も気づかぬ間に、彼の中の大部分を占めていた彼女は、今や夢の中にしか居ない。 彼女の痕跡ばかりある彼の部屋は、今では逆に息苦しいだけだった。吸い込む空気はまるで埃まみれで、肺の中にはその埃が溜まっていくだけのような、そんな錯覚さえ彼は覚えた。 息苦しさに耐えられなくなった彼は、彼女に関するものを全て捨てた。それで彼は少しばかり落ち着いたが、今度は自分の部屋から彼女の匂いが全くなくなってしまった事に気がついた。だから、彼は彼女の好きだった香水を一つだけ買ってくると、自分の部屋に置いた。たまにそれをベッドの上に一吹きしてから眠った。そうすると、彼の息苦しさはいくらか落ち着いた。 「ねー、それ使うの? 明らかにスクアーロの趣味じゃなさそーだけどさ、ししっ! それからお前さ、もういい加減に――」 ナイフを使う年若い同僚に色々言われたが、彼は何も言わなかった。 「死んだ人間にすがるのもいい加減にしろ」 上司に鼻を潰され、嫌というほど蹴られ、殴られたが、彼は頑として口を開かなかった。 落ち着いた色合いで統一された彼の部屋では、あからさまに毛色の違うその香水は浮いていた。 九. ――皆口うるさくおかしな事を言ってくる。彼女はこちらには居ないが、あちらに居るだけの事。少し会い辛くはなったが、誰にも迷惑もかけていないし、第一皆には関係のない事ではないか。 周りの言葉を段々とうるさく感じ始めてはいたが、少しずつ、彼の中で何か違うものが渦巻き始めていたのも事実だった。 彼はふと彼女にこう問うた。 「お前は本当にか?」 彼女は全くわからない、とでもいうようにめをぱちくりさせた後、口を開いた。 「何言ってるの?」 彼も自分が何を言っているのかわからなかった。きっと周りの言葉に毒されただけなのだろう、そう思った。それに彼女が本当のであるかないかなんて、一番近くに居た彼が知っている。抱きしめると、やっぱり彼女の感触もする。自分の腕の中で彼女が身をよじり、すっぽりおさまる居場所を見つけると、 「スクアーロ」 そう、ぽつりと呟く様も、何もかも彼女なのだ。 ――幸せだ。幸せなのだ。このまま彼女と一緒に過ごせさえすればいい。 目覚めれば虚しさが襲ってくる事など、彼はとうに知っていた。 十. 「スクアーロ。今のあなた、とても見ていられないわ」 ある日、人一倍お節介焼きな同僚が彼の部屋に入ってくるなりこう言った。 「まるで廃人みたい。あの子がいなくなって、落ち込むのも分かるわ。けど、いつまでもずるずる引きずってちゃ辛いだけよ」 彼は大きなお世話だと思った。忘れろと言われても、自分には無理だ、彼はそう言うと同僚を睨みつけた。 「酷い言い方かもしれないけど、…………死んでしまったらそれまでよ」 ぷつん、彼の中で何かが切れた気がした。 目の前の同僚の胸倉を掴むと力いっぱい殴り飛ばした。彼が殴り飛ばした体は、ごむ鞠のようにあっけなく壁へと跳ねていった。 同僚はふらふらと力なく立ち上がると、 「…………ごめんなさい。でも、ちゃんと現実を受け止めて欲しいの」 そう一言だけ申し訳なさそうに言った。そして悲しそうな顔をしながら、頬を押さえて静かに出て行ったのだった 十一. 再び訪れた静寂の中、彼の頭には先ほどの同僚の言葉がぐるぐると回っていた。うるさい、ただそう思いながら奥歯を噛み締めると、彼はベッドに横たわった。昨日寝る前にまいた香りが、まだシーツにほんのりと漂っていた。 ――耳鳴りがする。 顔を上げればベッドサイドに置いた香水が自然と彼の目に入った。 ――死んでしまったら、 彼の脳裏に彼女の顔が浮かび上がった所で、同僚の言葉が邪魔をした。彼は更に奥歯を噛み締めた。 ――彼女は死んだのか(死んでない) ――現に姿はもうずっとない(すぐ帰ってくる) ――じゃあ何故皆あんな事を言うんだ(うるせぇ) ――彼女はいない(うるせぇ) ――あれはただの記憶だ(うるせぇ) ――それ以上先はない(うるせぇ) ――気づいてるんだろ? 「うるせぇ!」 彼は香水の瓶を掴むと、部屋の真ん中、まったいらな床へと叩き付けた。 ――ガシャン。 途端になんともいえない香りが広がった。立ち上る香りはむせるほどに濃く、甘く、吸い込んだ側から胸が焼けるようだった。 「…………ちくしょう……ちくしょう……う、あ、あ、あ、!」 うめき声にも似た声をあげながら、彼はその場にへたり込んだ。床を何度も殴った。目にうつった物を掴むと、思うまま投げ飛ばした。部屋のものを床に叩きつけ、裂き、壊してぐちゃぐちゃにした。嵐のように暴れまわって、壊すものがなくなってから、やっと彼の動きは止まった。 部屋の中はほとんど足の踏み場もない。床の上が物で埋め尽くされている。 彼は肩で息をしながらそのまま壁に寄りかかると、ずるずると座り込んだ。 「ちくしょう」 膝を抱えて彼は顔を伏せる。香水の瓶は物に埋もれて、かけらすら見えない。 「……ちくしょう」 彼の声は震えていた。だが、この部屋には彼以外それを知る者はいなかった。 (了) |