「しし、お前馬鹿じゃねーの?」

 頭がぐらぐらと煮えているような、そんな状態の中で隣から浴びせられる一言。反論しようにも頭が働かないせいで怒りさえ湧かない。かろうじて目を開けるその向こうには、自室の白い天井しか見えない。

 先日ベルが風邪によってダウンしている所をわざわざ看病しにあれこれしたその日の夜、ちょっと寒いかも、でもまあ平気だよね、と油断したまま寝たら、見事にうつされてしまったらしい。起きたら頭は重いし体はだるいしでトイレに行くのもいっぱいいっぱいで最悪な状態だった。軽ければ仕事に出るつもりだったのだけれど、やたらと高い熱のせいか、ベッドに寝ているだけでも辛い。体調管理も仕事のうちとはいえ、申し訳ないながら、ボスには休まさせてもらった。で、人に風邪をうつしたベルはというと、私の甲斐甲斐しい看病のおかげか、しっかり治った上に、こうして人にちょっかいを出しにきているのだから、腹立たしいものである。
「あれ? 喋んないの?」
「……ね、させ、て……」
 声を出すのも辛い今の体に鞭打って搾り出した声は、いや、声と言っていいのかすらわからない。最後の方なんてしりつぼみでただのうめき声と変わらなかった。とりあえずそんな状態なのだから今はただ穏やかに眠らせて欲しい。
「へ〜……弱ってるヤツ見んのって面白いね。なんか、確実に死ぬ間際に、無駄にあがいてるヤツみたい」
 悪趣味だ。この状態を見たら、普通は心配してお引取りする所だろうが。
「オレが看病してやろっか? この前のお返しって事で」
 頭がうまく働かない私の顔の目の前に、わざわざにゅっと顔を突き出したかと思うと白い歯をむき出しにして、うしし、とあの特徴的な笑い方をする。
「……いい……」
 これから何をされるのかもよくわからないけれど、そのことを考えると、別の意味で頭が痛くなってくる。
「いいってやっていいってこと? あっはは! そーかそーか、じゃあ手始めに薬でもやるよ。ほら」
「……ちが……」
 ベルにしては珍しい愉快そうな笑い声を上げたと思ったら、頭の左斜め後ろのサイドテーブルの方からごとりという鈍い音が聞こえた。音からして瓶か何かみたいだ。
「ちゃんと飲めよ」
 横からそんな声が聞こえるけれど、今は首を動かす気すら起きない。
「おーいー、」
 言いながらベルは私のほっぺたをつねってくる。頬っぺたに触れているベルの指先が冷たくて気持ちがいいけれど、冷たいだけでなく当然頬っぺたは痛いわけで、止めて欲しいと、鉛のように重たい頭をなんとか引きずって首を横に捻る。と、ベルがベッドに頬杖をついて私を見ていた。何をするでなしに、にこにこと笑ってただ私をじっと見ているのだ。私は肩で息をしながら目の奥と一緒にずきずきと痛む頭に、自然と目瞼が重たくなる。
「なに寝てんだよ」
 完全に瞼が閉じ切ってしまったあたりで、横からただ声がふりかけられる。仕方無しに目を開けると、何をするでなしに、さっきと同じようにベルは頬杖をついたまま私のことをじっと見ていた。
「……」
 何がしたいんだろうか。もし看病するんだとしても、ここは優しく手を添えながら起き上がらせたり、水を飲ませてくれたりする所じゃないのか。
「早く飲めよー」
「……む、り、……」
水も無いのに。
「超ワガママじゃね? 仕方ねーな、口開けろよ」
そのまま飲ませる気なのだろうか? 粉薬ならまだしも固形の錠剤を飲み下せる自信はない。
「……み、みず……」
「気合でなんとかなるって」
「…………」
なるはずもない。私は重たい頭を左右に振って思ったそのままを意思表示をする。
「……すっげーワガママ」
「…………も、いいから……かえって……。めいわく……」
 この身の平静をどうにか保つために、ぽろりと、そんな言葉が出てしまう。しまったと思ったけれど、頭が痛いせいでうまい言い訳も思いつかない。目をつぶったままベルがどんな顔をしてるのかとか、次の日ナイフを刺されるんじゃないかとか、そんな事を考えながら、ベルの機嫌を損ねていない事だけを願う。
 たっぷりの沈黙の後に、消え入りそうな小さな小さな声で、「ごめん」と一言。
 聞こえたような気がする。いや、もしかしたら幻聴かもしれない。この我がまま傲慢王子様が人に謝るなんて有り得ないし。報告書を適当に書いたりしてボスにお小言喰らってる時も、だってオレ王子だもん、の一点張りで謝らなかった、あのベルが。私に謝るとか。うん、幻聴だ幻聴。
 沸騰しきって潤いもなくなり始めているだろう頭で、そんな事を考えていると、ふいに声をかけられる。
「ねー、何か食いたいもんある?」
「……たべる……?」
「そ、食いたいもん」
 てっきり怒っているものだと思ったのに、意外に普段と同じ調子でベルに話しかけられたことに、私は少しびっくりした。そして答えておいてなんだけど、正直食べる食べないで言ったら食べたくない。むしろ寝たい。でも、ベルを怒らせるような発言をしてしまった手前、何か言わないと、今の私には対処できそうもないことをやらかしてくれそうだ。
「…………り、……りんご……」
「そんなんでいいわけ?」
「……うん……」
「しし、うさちゃんにでも剥いてやろーか?」
「……やいて……」
 うさちゃんりんごはそれはそれで可愛いけれど、私が食べたいと思ったのは、ちっちゃい頃にお母さんが作ってくれたような、オーブンでじっくり焼いた焼きりんごなのである。昔の事を思い出し始めているあたり、私は無意識で死を予想しているのかもしれない。風邪で死亡なんてシャレにならない。惨め過ぎて泣ける。
「は、なに? 焼く? りんごに火でもつければいいの? よくわかんねーんだけど」
「……オーブン……」
「んー適当にやってみる」
 ベルに元々から期待はしていないけれど、ベルに言っておけばレヴィとかスクアーロあたりがもしかしたらどうにかしてくれるかもしれない。ごく、わずかな希望だ。
「……むり、だったらスクアー……ぅ……」
 長時間の会話に、自分の方が限界だったらしく、急に頭がこれ以上ないほどずきずきと痛み始めた。目を閉じて、いっそこのまま眠れたら、と思う。
「平気かよ」
 頭の痛みでいっぱいいっぱいの所に額にぺたりと冷たいものが。目をつぶったままでよくわからないけれど、とうやらベルの手みたいだ。手を当てられたところを中心に、じわじわと痛みが和らいでいる気がする、体温差も気持ちいい。
「ん……」
「熱い」
 もしかしたらベルはベルなりに看病しようとしてくれてるのかもしれない。看病の仕方が非常識で、一般には通用しなさそうな事ばかりだけれど、その気遣いは少し嬉しいかも。
「ま、寝てろよ。適当になんとかしてくるから。おやすみ」
 ふ、と離れていくベルの冷たい手を残念に思いながら、こくりと首を上下に振る。うんうん、看病の気遣いは嬉しいけど、安らかに眠らせてもらえるのが一番いいよ。病人は安静に。
 そうして頭の痛みに耐えながら、唐突に襲ってきた眠気に意識が塗り潰されていくされていくのを感じ、そのまま眠気に身を任せて、私は意識を手放した。

***

 ことん、という音で目が覚めた。いつもの白い天井が見えたと思うと、息を吸い込んだ拍子に、甘くて美味しそうな香りが鼻腔に入ってくる。
「ん……」
「お前にしては空気読んでんじゃん。おはよう。焼きりんご、スクアーロに作らせた」
 目をぱちぱちと何度かしばたかせている所に、聞き慣れた声が響く。頭もまだぼんやりとしていていまいち状況がよく分かっていないのだけれど、どうやらベルは私のおかしなリクエストに応えてくれたようだ。
「あち……! ん、口開けろよ」
 言われたままに口を開ける。起き抜けに食事って……正直今は食べるより喉が渇いているのだけれど、ここで口を開けないと、このあつあつのりんごを丸ごと一個、口にそのままねじ込まれそうだ。
「もっと大きく」
 まだまだ鈍く痛む頭に目をつぶりながら、更に口を開ける。目をつぶったせいか、りんごのむっとした甘い香りと熱気が、私の唇へとゆっくりと近づいてくるのが、はっきりと感じられた。熱気が唇を通過して、口の中まで入ってくる。
「口閉じろ」
「ん、」
 そのまま口を閉じると、フォークか何かがするりと口から抜かれていく。口の中が突然に甘いものでいっぱいになったせいか、ほっぺたの下あたりが痛くなった。そのまま二度三度口を動かすと、何だか生き返ったように、意識もはっきりしてきた。
 焼いたりんごは、そのまま食べる歯ざわりのいい生のりんごとは違って、たっぷりと果汁が出ている上に、甘くて柔らかい。噛みしめるたびに溢れ出す果汁が、渇ききった頭と体にどんどん吸収されていくのが分かる。飲み込むと喉を通り抜けていく熱さも、始終寒気に襲われている体には丁度いい。喉が渇いた、なんて思っていたけれど、これはこれでいいかもしれない。
「うまい?」
「……うん……」
「じゃ、これで昨日の借りはチャラね」
 借り、なんて言っているけれど、今までそんなこと関係無しに、私はベルにパシられている気がする。どうして私が、と聞くと『だってオレ王子だもん』というまるで答えになっていないお決まりのセリフが返ってくる上、無視をすると本気でナイフを投げてくるものだから、毎回無償で当たり前のようにベルのワガママを聞かされている。何故今更借りなんて言うのか。
「……ありがとう」
とりあえずここでお礼を言える私はまっとうな人間だと思いたい。
「そうそう、もっとオレに感謝しろよ」
「ぅ……」
私の気持ちも知らずに、ベルは機嫌が良さそうにぐしゃぐしゃと私の頭をなで繰り回す。

 そんなこんなで焼きりんごを食べ終わると、何も口に入れていない時よりはいくらか意識がはっきりしてきて、体のだるさにも慣れてきた。
「あ、そうだ薬飲めよ。水持ってきたし」
 はい、とほっぺたにペットボトルをぴたりとくっつけられて、突然の冷たさにびくりと肩が震える。そういえばさっきベルが持ってきた薬、サイドテーブルにほったらかしだった。
「……ありがと」
「よくわかんねーけどこの薬、多分4錠ぐらい飲めばいいんじゃねーの?」
「……説明読んでよ」
 恐いな。相変わらず非常識な事を言うベルに呆れながら、じゃらじゃらと錠剤が瓶の中で踊る音を黙って聞いるしかない。
「あ、8錠だって。とりあえず適当に飲んどけ」
 なんだか服用量多いな、と思いながら起き上がろうとすると、ベルが手を引っ張ってくれた。突然の重心の変化に、私の首や背中の節々が驚いたようにぎしぎしと痛む。
「はい、水」
 ミネラルウォーターのペットボトルを手に握らされて、やっと、ベルから人間らしい気遣いというものを感じて、思わず涙が出そうになった。
「これ飲んで復活したらまたオレと遊んでね」
 遊ぶって……いつものパシリはもちろん、会って突然ナイフ投げの的にされたり、いきなり閉じ込めたり、思い出すだけでも気が遠くなる。あれは遊んでいるつもりだったのか。どう考えてもリアル鬼ごっこだ。ベルが鬼で、私は逃げる方。
 と、ベルの遊んでね発言にうんざりしている所で、まるで現実に帰って来いとでもいうように手を引っ張られた。そして錠剤を手のひらにばらばらとのせられて、飲めと促される。
「……8錠だよね?」
「ん」
手に乗せれた白い錠剤の数をしっかり数えながら、少しずつ飲み下していく。最後の一粒を水と一緒に喉の奥に流し込んだあたりで、ベルがこちらの顔を覗き込んできて、いきなりぺたりと額に手をあててきた。
「しし、すっげーアホ面」
 反論する気力もない私は、うん、と適当に流す。薬も飲んでお腹がいっぱいになったせいか体が寝る準備に入り始めたみたいで、凄い眠気が……
 眠気に逆らえない私が、自ら布団にもぐろうとするのに構わずベルは尚も会話を続ける。
「馬鹿は風邪引かないっていうけどさー、あれ嘘だったんだな」
「うん」
「しし、お前馬鹿じゃなかったんだな」
「うん」
「ねえ、」
「うん」
「おーいー、聞いてんのかよー?」
「うん」
「…………明日ボスのエクステもぎ取ってこいよ。約束な」
「うん。え?」
「あっはははははは!」
 思わず聞き返した私の顔を見て、ベルはお腹を抱えて満足そうに声をあげて笑った。いや、あの、ボスのエクステの羽は無理だろう。約束って。
「お前はいつまでもそのまんまの馬鹿でいろよ。じゃな」
 そうベルは言い残すと、私の手の中のペットボトルをひったくって、そのまま足早に部屋を出て行った。
 それをベッドに横たわったまま見送った私は、真っ白な天井と眠気の間を行き来しながら、明日から始まるであろう新たな地獄の日々に頭が痛くなった。
「さいあく……」






******


「う゛お゛ぉい、てめぇら仲良く風邪ひいてんじゃねーぞぉ」
「それほど仲良しじゃないよ」
 昨日のあれやこれやで、ベルは風邪が再発してしまったらしい。スクアーロ曰く、『馬鹿から風邪をうつされたのは、すっげーむかつく』とベルはのたまっているとのこと。残念ながら、私の風邪はベルからもらったから、自分から出て行って、自分に返ってきた、ということで自業自得なんじゃないかと思う。  私はというと昨日よりいくらか体調が良くなったけれど、まだまだ熱が下がらないせいで今日もお休みをもらっている。そんな私を心配してか、スクアーロがわざわざ薬を買ってきてくれた。
「大丈夫かぁ?」
「あ、うん」
 スクアーロが箱の裏側に書いてある説明を読みながら、手際よく水を用意したり、私の背中にそっと手を添えて起き上がらせてくれたりしてくれる。なんだか、この普通の気遣いに涙が出そうだ。
「ん゛、水に溶かして飲むタイプか……」
 差し出されたコップを両手で受け取って、スクアーロが薬をぽちゃんと一つ落とすと、錠剤がしゅわしゅわと豪快に泡を出しながら、水に溶けていく。溶け切るまでしばらく待たなければいけないみたいだ。
「なんか疲れた顔してんな」
「……まあね……」
「お前なぁ、知らないかもしれないけど昨日は大変だったんだぞぉ……。任務中にいきなり携帯に電話がかかってきたと思ったら、焼きりんご作れ、とか意味わかんねーこと言われてよぉ……あ、おい、なんで胃薬置いてあんだぁ?」
 サイドテーブルに置いてあった円柱型の瓶をスクアーロは手にとってしげしげと眺めている。え、ていうかまさかそれ昨日ベルが持ってきたっていう薬……
「……昨日風邪薬とか言ってベルに飲まされたんだけど」
「胃腸の動きを活発化します。食べずぎ、飲みすぎ、胃腸の風邪に。それ以外の目的では使用しないで下さい、って書いてあるぞぉ」
「…………」
 それを聞いたらなんだか昨日より体調が悪くなってきた気がする……いや、胃薬はいつ飲んでもさして悪い影響は与えないとは思うけど……
「と、とりあえずそれ飲んどけ……」
 言われるままに、手に持った正真正銘の解熱剤入りの水を、ぐいっと一気に飲み干す。
 あの王子様はモルヒネでも抗生物質でも薬だと思ったら何でも持ってきそうだ……恐ろしい。今度からは気をつけないと……。そんな事を考えて、大きなため息を一つ吐きながら、隣で心から不憫そうな顔をするスクアーロに、空になったコップを返した。
「強く生きろ゛ぉ」
「うん……頑張るよ」

とりあえずボスのエクステは当分むしらなくてもよさそうです。

(おしまい)

menu