「おはよう」



 ライの寝惚け眼に最初に映ったもの、それは幼馴染のレイが、口を開けんとしている所であった。そのまま自分の大きな鼻を噛まれ、痛くはないが歯の圧迫は充分感じる程度の刺激に、目が覚めたように感じる。そのまま、悪戯な目でレイが自身の鼻をちょんちょんと突付いているものだから、ライは迷いもせずにお返しとして噛み付いた。実際の所、まだ覚醒には程遠かったのだ。
 はっきりと目を覚ましたのは、噛まれたレイが嬉しそうに、おはよう、と言った時であった。どことなく違和感を感じる雰囲気に、ふと大変な事に気が付いて、周囲を見渡す。質素な板張りの大広間に、布団が二つ。それだけならまだしも、自分の横には、自分の鼻を人差し指で叩いているタカオと、不機嫌そうにライを睨んでいたカイがいた。
「ほら、あいつらもやってるんだからさあ」
「煩い。やつらと一緒にするな」
その視線はライに対して、よくもやってくれたと云う不満をぶつけている。その瞬間、うわああ、と叫ぶとライは布団を被ってしまった。羞恥で顔が真っ赤になっている。
「いやー、良くやったライ! 見直したぞ」
パチパチと手を叩くレイの言葉は、ひたすらにライを煽っていた。
 日本に来たライとレイが、BBAの宿泊施設が在るにも関わらず木ノ宮家に泊まる事となったのは、人懐っこいタカオが望んだからである。そこにカイが加わったのは、それはもうライの与り知らぬ所で、ともあれ四人一緒に寝るには、タカオの部屋は狭過ぎた。そこで道場で布団を敷いたのだが、その際、わざわざ四組も布団を運ぶのは大変だろう、とレイが二人一組で寝ようと言い出したのだ。露骨に喜ぶタカオに、カイは少々警戒した目を向けたのだが、元来育ちが良いカイの事、主人が良いなら反対する程の事でもないと見たのか、レイを睨んだだけであった。
 そしてやはり、寝起きのカイは普段より不機嫌であった。隣に人がいるのに口付けてくるタカオに、苛々していたのだ。起きたのもタカオの一発を受けてである。無論目覚めた直後に張り倒しているが、照れるなよカイ、と主人公だけに打たれ強いタカオは、然程気にしている様子も無い。カイにしてみれば、仮に半分はそうであっても、後の半分は本気なので、ムカっとする。そこに、レイが目覚めと挨拶とばかりにかまして、しかもライまでもが応えたのだから、弥が上にも不満は溜まった。
 更にタカオが、レイとライを羨んで、自分の鼻を指さすものだから、カイはもう一発ぶん殴ってしまった。
「誰がやるかこの馬鹿!」
流石にこれにはタカオもムっときて、ならば実力行使だとばかりに、カイを押し倒してこっちから甘噛しようとする。剣道をやってるだけタカオの方が力が有ると思いきや、カイも自尊心が高いだけ結構な修行をしていて、のしかかられるまでには至らない。伯仲した闘いが、布団の上で繰り広げられていた。
 一方レイは、恥ずかしがるライを揶揄うのには飽きたのか、一緒に朝食がどうなってるか見に行こう、と促すのに言葉を変える。
「あれは……良いのか?」
「ほっとけ。馬に蹴られるぞ」
「どこが恋路だ貴様!」
「隙ありっ」
レイがカラリと行動を変えたので、ならばと布団から這い出たライは、隣で取っ組み合う二人を、心配そうに見る。マックスやキョウジュと共に、散々二人を見ていたレイは、そんなライに先輩風を吹かせる。そこに敏感に突っ込んだカイだったが、それが命取りだった。油断した所に乗られて、動きを封じられてしまったのだ。そのまま焦り顔の中央に、歯型がくっきりと付けられた。
 ライの鼻には、馴れたもので何の跡も付いていない。ヤバい、とお手本を見て失敗に気付いたタカオは、慌てて逃げようとする。けれどもそれを逃すほど甘い男ではなかった。首根っこを捕まえると、顔を固定して自分も思いっきり歯形を付けたのだ。
「え……カイ?」
「ふん、俺にだけ残そうなどと考えるな」
 一矢報いて気が晴れたのか、カイはさっさと母屋の方へ向かってしまう。タカオにしてみれば、ニ、三発は免れないと覚悟していた所へ、予想外の収穫に、顔の跡も気にせず嬉しそうに笑った。それはカイのよりもずっとくっきりしていて、余計目立つのだが、それが亦、乙なものであるらしい。
「な? 心配するだけ無駄だぞ」
レイのおかしそうな声に、まだ起きたばかりな筈のライは、何故かもう疲れてしまっていた。どうやら世界には、ライの予想を超える人間ばかりいるらしかった。 





平成十八年丙戌三月二十九日公開