読書



 阿部が昼休に一組に向かったのは、今日の練習に関して、栄口に話しておきたいことが一つ有ったからだった。とは言っても花井との雑談で思い付いた、ちょっとしたことだし、別に急ぐ内容ではない。ただ、水谷が一組へ行くと言ったので、付いてきたのだ。
 入ってみると、栄口は西広と何か話している様だった。巣山の方は、俯せになっている。確かに六月の暑さはまた嫌なもので、湿気が多いだけに侮れない。
「ねえねえ、何の話?」
「ああ、これ」
 阿部がそうやって一組中をざっと見ていた間に、水谷の方は慣れた調子で会話の中に混じっていた。
「面白いよ。貸そうか?」
「栄口が貸してくれるんなら、読もうかなー」
「じゃあ、はい。返すのはいつでもいいよ」
「スッゲー後になりそう」
「練習、大変だもんね」
「だよなー。西広って中学は何部?」
「陸上やってたよ」
 話の流れは中学の部活のことに移っていき、栄口が話す方から聞く方になった。これでやっと用事が言えるのだ。別に待つと言う程待った訳でもないが。 たかが数分、話の腰を折らない位は阿部にも出来る。
「それ、なんて本?」
 しかし、口にしたのはそれとは別の話題だった。栄口が水谷に渡していたのは、文庫本だった。題名は聞いたこともないもので、ちょっと古そうだ。もっとも、流行の本を知っている訳でも無いから、もしかしたら今人気の本なのかもしれない。別にそう知りたいという気も無かったが、勧める栄口の顔がなんだか嬉しげだったので、ふと聞いてみたのだ。
「へー。阿部も本に興味あるんだ」
「ん、いやまあ」
 正直殆ど無い。昔から読むものと言えば野球に関するものばかりで、雑誌や選手の本、技術について書いてあるものばかりだ。漫画だってそんなに読んではいない。まして真っ当な小説など、それこそ国語の時間か、精々が読書感想文の為に読んだ適当な本しかない。
 裏の粗筋を見ると、どうも恋愛物らしい。医者と看護婦が駆け落ちしようとして失敗し、二人は遠く離れてしまう。それでも二人はいつか出会えることを信じて云々。
「父さんの本なんだけど、読んでみたら意外にハマっちゃって」
「有名?」
「んー、そんなには。一応直木賞作家だけどね」
 それならば有名なんだろうな、と阿部は本を置いた。その賞の名前ぐらいは聞いたことがある。確か芥川賞とかいうやつも在った筈だ。いずれにせよ、自分にはやはり縁が無い。
「ま、今の阿部には全然関係ない話だよね」
「今の」
阿部は、そこに含まれる微かな違和感に、敢えて聞き返した。栄口の顔は相変わらず笑顔だが、どうも何か含みが有る様だ。
「だってこれ、離れちゃう話だし」
「だから?」
 栄口の話し方は、時にまだるっこしい。阿部はそういう話し方が苦手だった。勿論遠回しな方が良い場合もあることを、知らないのではない。ただ、直截的な方が好きなのだ。そして、栄口はそれを知っているし、又ズバっと言うことも出来るのに、今はわざと遠回りしている。
「何が言いたいんだ」
「阿部は今、幸せだよね」
「は」
「三橋と、それなりには上手くやってる」
「どういう……」
 その時、水谷に袖を引っ張られた。
「阿部、そろそろ戻らないと、次実験だよ」
時計を見れば、授業まで十分も無い。栄口に向き直ると、急がなきゃねと、水谷に本を渡していて、もう話す気は無いらしい。
(一体何なんだ……)
しかしこの時間では、もう聞くのも難しい。部活ん時に聞くしかないかと、阿部は諦めるしかなかった。
 最初の用件など、すっかり忘れてしまっていた。

 一組の次の授業は、栄口の得意な古典で、正直少し気を抜いても何とかなる授業だった。
(阿部、気にしてるだろうなあ)
だから、という程あからさまではないが、先程のやり取りを考える余裕も有る。
 別段そう深い意味は無かったのだ。単にちょっと、自分に比べて恵まれてる阿部をからかおうとしただけだ。それが、ああまで気にされては逆にもう少し弄らないと勿体無い。
(オレもひどいヤツだな)
我ながらそう思う。
 しかし、ハッピーエンドと言えない登場人物さえ羨ましく思う自分に比べて、阿部は幸せすぎるから、もう少しぐらいからかっても良いんじゃないか、とも思う。
(両思いだけど離ればなれなのと、片思いだけど近くにいられるのと、どっちがマシなんだろ)
前者の方がよく見えるのは、多分自分が後者だからなんだろう。いずれにせよ、両思いで近くにいられるに越したことは無い。そう、阿部の様に。
(水谷は……どっちなのかな)
 どちらがマシだと思うのだろう。今度返してくれた時にでも聞いてみようと、栄口は決めた。そうとなれば、なるべく早く返して欲しくなった。





丁亥八月二十九日公開