香臭 幾重にも重なる楼閣のうちの一つで、サイガは手自ら働いている。陰鬱なまでに重厚な四聖獣の襖絵に、朝から降り頻る雨が一層凄みを与えている中で、白地の香炉を、一生懸命並べている。飾りは青色、金色、赤色、緑色、山川草木、鳥獣、幾何文様と様々で、行灯の炎で確認しながら、布団と文机があるばかりの部屋に一つだけ在る、何年の古木か判らぬけれども、濃い飴色で、切り株をそのまま使った飾り台へ置くのを探している。部屋の中には、行灯の他にも幾本か燭台の様な香焚き台が設えてあるものの、やはり文机の横、二組の布団の奥に在る飾り台が主となる。鎧も外し絹の衣でいて、ゆったりとした袖は磁器を這った。 その中で、青の山水と、緑の幾何文様との間に有った、金の竹林が選ばれる。動物と植物が描かれた、ややもすると俗悪に流れかねない模様の勢いが、却って客には丁度良いと思われた。香は既に選んであり、麝香を効かせたものを調合済みで、試しに香らせてみて、使わない器を箱へ仕舞いつつ、それがこの部屋に相応しいかどうか、客に相応しいかどうか、考える。お世辞にも雅やかさが似合うとは言い難いが、似合わないからといって相応しくないとは言えない。仕舞い終わる頃には、考えも纏まっていた。 執務室で文机に向かっていたサイガの耳に、女官達の困惑した声と、聞きなれた数名の声が聞こえたのは、部屋を整えてから半日は経っていて、もう日が変わってからの事だった。ミヤビなどは寝てしまっていて、一人で仕事をしていただけに、いつも以上に煩く聞こえる。 「ですが、そのままではお体に!」 「だから、別に構うなって。要はこの先にいんだろ?」 「大体今何時だと思ってるんですか」 「セツナ、お前もうるせえ。別に起きてんならいいじゃねーか」 声が扉の前まで来ると、バァン、と響き渡った音がして、そのままのっそりと人影が入ってくる。白髪、金眼、鷹爪に、藤と紺を混ぜたような縞を白尾に散らしていて、真白い服に日焼けした筋肉が映えている、獣牙族の王。 「雨で少し遅くなったが、悪ぃな」 エドガーは全身ずぶ濡れで、白い服は透明に近くなり、褐色の肌に密着するのも艶かしい。なるほど幾ら約束に遅れているとは言え、人前に出るべき格好ではないなと、サイガはむしろ、廊下で申し訳なさそうに俯いているセツナに同情した。 大丈夫だと手で、部屋に入るか否か躊躇う廊下側を押し留めると、扉は静かに閉められた。執務室は、中華趣味の朱色と金色をふんだんに使ったもので、数ある部屋の中でも煩ささではかなりのものだったが、その絢爛さはエドガー好みであり、実際予想通りに満更でもなさそうに見回している。 「獣牙に無い技巧が、そんなに珍しいか」 自分でも一際尊大だと思えるような口調が出るが、あぁ?と声だけは苛付かせているものの、慣れた様子で、それっきりまた飾ってある像やら何やらを見ては、面白そうに触っている。その様子に、また今度も面白がらせられたと、幼い頃から幾度となく感じた満足感をまた味わって、サイガはさっさと書類を仕舞い込んでしまうと、提灯に火を灯した。 「もう世も更けた。さっさと寝るぞ」 「なんでお前、またそんなもんを」 「寝所側の廊下は、もう火を落としてある。普通はこんな時刻に来ないからな」 普通は、に重点を置いて、上向きに厭味たらたらな視線を投げかけると、言い訳があれこれ返って来るのは気にせず、部屋の火を消してしまう。 硝子で灯心を覆われた提灯を掲げると、暗い廊下はぼんやりとした光で白壁と朱柱を、浮き上がらせてはまた闇に溶かしていく。雨は大分小降りだが、一応は降っているらしく、湿気は飾り窓から風に乗って入っては、エドガーの濡れた服を肌に纏わり付かせ、ずぶ濡れ時よりも不快な気持ちにさせる。最初は、雨でゼクシードが遅くなったとか、前に喋りかけていたものの、その小さな不快感で喋る気が失われてしまい、二人は黙って歩いた。 楼閣に着いて、お世辞にも広いとは言えない廊下を登りつつ、エドガーはふと前方の黒いもやもやを見た。提灯は入り口に置いて来た為、か細い蝋燭の光しかなく、直ぐ前の姿すら朧気に見える。湿気た風はサイガをも確実に濡らせており、青い髪には水滴が付いている。歩幅が大きい分、後から歩くエドガーはどうしてもサイガに近づいてしまい、自然と髪も近くにある。 濡髪の放つ色香に、ふと心が動いて、腕は乱雑に髪を引っ張ると、そのまま倒れた身体を抱きしめていた。抱かれた方は無論驚いたが、睨む事さえ出来ずに、そのまま唇を奪われる。咄嗟に苦しくなって口を開くと、舌はその虚を突いて一気に入ってくる。自分の二股舌とは異なる、剛直な舌は、堪えきれない唾液が互いの顎を濡らすのも厭わずに、ただ只管に口腔を荒らし回り、抜き出された頃には、自身さえ荒い息であるほどだった。気が付けば踊場の壁に押し付けられていたサイガは、金色に射竦められて、思わずこのまま流されそうになる。 数ヶ月と云う月日は、長い訳ではないものの、さりとて短い訳でもない。サイガも、この日の為に何日も前から準備していたし、だから今日もこんなに行動が早い。二人とも、分別は付いてきた頃とは言え、それでもまだ立太子からさえそんなには経っていない。子供ではないかもしれないが、大人では絶対にない、そんな年であり、血気盛んだった。 しかしサイガは、この先の楽しみを思い出して、辛うじて胸元を弄る手を払い除けた。 「待て……せめて、この上まで待て」 「煩ぇ、ここでまず一回な」 「いいから!別に俺も、やらんとは言ってないだろうが」 ぐいっ、と押し返されると、エドガーも未練気たっぷりに体を起こさざるを得ない。 襖を開けて中に入ると、室内は昼間に思った通り、茫とした暗闇と薫香が混ざり合って、中央に敷かれた布団も意味有り気に、ここが何の為の部屋かを主張している。サイガにしてみれば、こう云う空気が一番乗り易い。元々聖龍族は儀礼祭祀に喧しいだけに、自然と何事にも場を重んじるようになっている。だから、幼い頃のようにそれこそ全世界から隠れて、二人で密やかな遊びをしていた頃などは、それこそ読んで字の如く、自らを涜していた気分だった。 今は違う。ここはそう云う場所だと、しっかりと定めてある。逆に言えば、むしろこの場では、何も行われない方が冒涜的ですらある。それ故にサイガは、成長してある程度自由にやれるようになると、エドガーとそう云う事をすると決めた時は、必ず香を燻らせるようにしている。非日常の匂いこそ、二人の非日常的な行為には相応しいと、信じていたからだった。 けれども、先程の獣振りは何処へやら、エドガーは躊躇いがちに隣に座ると、珍しくも言いよどんだ風に、発する言葉を選ぶ。 「……前々から言おうと思ってたんだけどな」 「なんだ、こんな時に」 じれったいのは嫌だとばかりに、逆にサイガの方が寄っていく。胡坐の上に座り込みながら、ひんやりと湿って重い上着に触れる。 「今日はお前の方が冷たいんだな」 開き直ると、元来そう大人しい訳でもないだけに大胆になって、上着の中へ手を差し入れると、そのまま抱きつき、胸に触れるだけで口吻けた。その行動が口を開かせるのだから分からぬもので、青い髪が目前に迫ると、先程の階段での事を思い出し、今との違いが思い知らされ、考えた甲斐も無く、結局思ったままを言う破目になってしまう。 「お前、なんか焚いてるだろ」 「ん?ああ、まあ貴様に相応しい程度の奴だがな」 期待はするなよと、事実と真逆の事を言うサイガは、相変わらず口だけは悪いままで、それでも胸元に唇を落としていっては、愛し気に相手の体温を感じる。エドガーも、単純とは言え流石にこの空気を壊すのは忍びない。忍びないが、抱き付かれる度に思い出しては、我慢するのも辛い。 「あれ、止めろ」 胸元の空気が、ひくりと動いた気がした。 「……今日のは気に食わないか」 「今日のだけっつうか」 「全部か」 「……まあ、な」 「そうか……」 「別に、焚くの自体は良いけどよ、こう云う時はな」 獣牙族だって、香の類はよく焚く部族で、産出はむしろ獣牙族の方が多い。だから、ただ匂いが嫌なだけではないのだ。むしろ、いい匂いだ、と思う。 しかし、サイガはこれ以上黙って聞いていなかった。むしろ、いられなかった。 「それは…悪かったな」 そうっと離れた顔は、怒鳴りたいにも理性が邪魔をして、感情が全てやられている。飾り台へ向かう後姿に声を掛けても、取り付く島も無い。飾られている香炉は、先にサイガが探し当て、エドガーにぴたりと合うと思われた、竹林に竜虎が相対している図を、黄金で描いたもの。いつからあるかは分からないが、古びた風格を持つにしては金色が鮮やかで、俗悪且つ高貴であった。その中で焚かれているのは、数日前から、今度はどうしようかと、蔵の中を浚っていたもの。最近逢えていない事を思って、露骨かとも思ったが、直接的に求める香りであった。サイガはその香炉を掴むと、窓辺へより、小さな障子を開いて、躊躇いも無く捨てた。激昂している訳でもなく、ごく自然にやってのけたので、止められはしない。 だが、庭の石灯籠に当たったのか、鈍さと甲高さを同時に感じる音が聞こえて、エドガーは正気に戻った。既に開け放した障子から、幾本もの香焚き台を投げ捨てているサイガを、慌てて止めようとする。とは言え戦でもなし、本気で腕を掴むまでにはいたらず、思いっきり振り払われてしまう。 また二本、下に落下して行った。湿気た雨はサイガに湿り気を与え、濡れた髪は顔に張り付く。噛み締めた唇に、冷徹な瞳。強情さの証であり、つまりは、エドガーの言葉が非常に気に食わなかったのだ。 「いーから、止めろ」 兎に角今は止めなければと、次のをとる前に後ろから抱きすくめ、全身で捕まえる。未来の獣牙王が本気でやれば、幾ら足掻こうとも、まして体格的に劣るサイガでは、どうにも出来ない。 「放せ」 「止めたらな」 「貴様には関係ない」 「嘘吐け」 「……別に、貴様とてこの匂いが嫌なのだろう。なら別に、構わん筈だ」 随分ピリピリしている。 「俺もそう気に入っていた訳では無し、丁度良いから捨てた。それだけだ」 エドガーは何も言わずに、ぎゅうっと抱き締めて動きを封じたまま布団へ向かうと、そのまま押し倒して、衣を脱がしに掛かった。サイガは、最初は抗おうとしていたが、不機嫌さの余りその気も失せて、ただ冷たい目で天井を見ている。濡れた布地は冷え冷えとして、ただでさえ冷たいその肌は、凍えるようになっている。上半身が晒されると、首筋に顔が押し付けられ、そのまま鼻は肌を擽りつつ、肩から腋へと向かい、柔らかで、微かに温もりを持つその場所に着くと、ぐりぐりと押し当てられる。 「……馬鹿か」 思いっきり腋を広げられた上に、そこにでかい頭を突っ込まれ、匂いを嗅がれては、流石に無視しようにも出来なくなって、サイガは軽蔑したような、温かさの無い声で言い捨てた。それを気にすることも無く、思いっきりサイガの匂いを楽しんだエドガーは、漸く満足したのか、頭を起こすと、服を脱いで、同じ様に上半身裸となった。それっきり手を出さないで隣に寝っ転がると、ぽつりと呟く。 「匂いが変わんのが、嫌いなんだよ」 その言葉に、サイガは顔を横に向けた。視線を得たエドガーは、頭をぼりぼりと掻きながら、言葉を続ける。 「どんな匂いよりも、お前の天然物の匂いの方が、興奮する。それだけだ」 折り畳まれた掛け布団を、器用に足で広げて手元にまで近付けると、エドガーは、話はこれだけとばかりに、二人の上に広げてしまい、そのまま目を閉じる。 「ヤる気も無ぇんだろ。だったら寝るからな」 眠り顔を黙って見つめていたサイガは、いつのまにやら赤味が差している顔を、唇を噛み締めて押さえ込むと、布団の中で背中を蹴飛ばした。 「こっちを向け。馬鹿」 「何だよ」 「我儘な客人に礼を尽くした主人を、少しは労れ」 怪訝な顔をしつつもサイガを向いた体に、すかさず小柄な体がくっ付く。冷えた肌がひんやりとして、開いた窓からの冷気も手伝い、心地良いよりはむしろ寒い。 「どこぞの間抜けの所為でな、俺は今凄く寒い。だから、今夜一晩こうしていろ」 「……それは誘ってるって事だな」 断定する口調で、抜け目無く抱いている手で髪を梳いてみせる腕は、だが、あっさりと払われる。 「だから貴様は馬鹿だと言うのだ。この大馬鹿者」 体は自分でもエドガーに近付きながら、言葉はあくまでも冷たい。 「このまま無理矢理でも構わねえのか」 「何を言ってる。貴様の為に言ってるんだぞ?」 「あぁ?」 「貴様の望みどおりにしてやる、と言っているんだ」 エドガーからは、胸元に顔を埋めたサイガの顔は見えず、揶揄っているとしか思えない。 「……明日、二人で森に行けば、幾らでも俺の匂いぐらい嗅がせてやる」 勿論それは何割かの真実ではあるけれども、それ以上に、照れ隠しの意地悪が強い。それは性格から来る物であったが、エドガーにしてみれば、ただの揶揄いと大差無いので、余り理解出来る物ではなかったし、事実今も理解している訳では無かった。サイガの心の乱れを、的確に掴んでいる訳でも無い。それでも、エドガーが訊ねるのを止めたのは、そこにサイガの好意を見て取って、充分満足したからだった。 「その変り、次に来たら俺の好きにするからな。少しはその獣欲を洗練させてやる」 「精々無駄骨折ってろ」 「確かに、貴様の様な野獣には、難しいかもな」 そして、散々に貶しながら密やかに笑うサイガにとっても、それで充分だった。 平成十七年乙酉九月六日公開 |