心配すべきは



 三橋は可愛い。喜んだ時はあどけなく純粋に見えるし、不安でキョドった態度も、こちらに余裕さえあれば、鳥の雛の様に思える。抱き締めた時は気持ちが良い。あったかくて、柔らかいのだ。良い匂いもする。太陽の匂いとでも言えばいいのか、小さい頃に干したばかりの布団を嗅いだかの様な気分にさせる匂いだ。  
 だから当然、恋人同士の夜のなんやらに於いて、阿部は三橋を抱きたいと思っていた。これはもう男としては当然の事であって、最初から相手に抱かれたいというのは余り無いはずだ。まして相手はあの三橋である。笑顔一つで阿部の理性をとろけさせる様な愛らしい三橋を、誰が抱かずにおれようか。
 しかし、と阿部は手許にあるノートを見た。そこには来るべき三橋との日の為に用意された、様々な情報が書き留められている。情報の収集は捕手の生命線であり、活用は華である。捕手に生き甲斐を感じている阿部にとっては、その心構えは当然実生活でも活かされているべきものだった。未経験の行為に対して、様々な情報を手に入れておくのは当然だ。ましてこれには男の沽券も関わってくる。初体験のこととは言え、もし失敗したら、三橋相手と言っても、否、だからこそ恥ずかしいのだ。
 その代わり、知った分だけ悩みというものも亦、出てきてしまうのである。阿部はここ数日と同じ様に、溜息を吐くと、ノートを閉じてベッドに横たわった。
「こりゃ……下手に言い出せねえな」
見る度に、溜息が増えていっている。目を瞑ってデータを元に想像してみる。するとそこに浮かぶのは、泣きじゃくる三橋と真っ青になる阿部だ。初心者同士(三橋に経験が有るという可能性は、無いものとしていた。――願望込みであるが、そう間違ってもいない筈である)が最後まで行った場合、三橋を待ち受けるものは取り敢えず酷い結果でありそうだった。
 仮に頑張って怪我を避けたとしても、まず痛みは避けられまい。そして翌日、恐らく三橋は投げられない。そんなの耐えられないのである。
「しかももし怪我なんてした日にゃあ……」
 阿部は想像だけで身振いする。一体何の為に日々の食事にまで口出ししたと思っているのだ。我ながら煩いとは思いつつも、体重を毎日聞いているのは何の為か。全ては三橋のリスクを最小限にする為ではないか。そもそも、アイツは普通の人間よりただ生活するだけでリスクが上がるのに、それを。
 自分の所為で怪我をする。それは溜まらなく辛い事だった。一時の快楽の為にそんな危険を冒すべきか否
か。当然否である。――阿部は頑固で真面目だった。そして職人気質だった。一時の気の迷いで大事な投手を傷つけられないぐらいには。
 ではどうすればいいのか。我慢すればいいのか
「でもなぁ」
正直言えば、ヤりたいのである。好きな相手を目の前にして、両思いの状態でいつまでも清く正しく、という程には、阿部は朴念仁ではなかった。夜の自主練習で、三橋を使った事だって当然ある。

 阿部は考えていた。まず優先すべきは何かを決めなければいけない。三橋が怪我をしない、これが第一である。これは絶対守られなければならない。しかしエッチはしたい。これが第二である。第一と第二、両方の条件を満たすには。
(無理するのは挿れられる方、か)
阿部はノートの情報を思い出す。本来使うべきでは無い所を使うのだ、当然負担は大きい。一方挿れるのは男の本能と言っても良い様なものだから、負担は比較的小さい。とすれば、三橋が攻めれば、怪我はしないしエッチは出来るしで、万々歳である。一件落着だ。
 ただし、ここまで考えて、阿部は自分が抱かれる姿を想像してみるのだが、いつもどうにも考えつかない。自分みたいな男、抱いてもつまらないだろうにと思うのだ。可愛気は無いし無愛想だし全体的にどこか硬い。
 これが三橋なら、ふわふわだし笑顔は可愛いし行動の一つ一つに愛嬌がある。キスした時に必死で目をつぶっているのもそそられるし、恥ずかしがる姿は言うまでもない。それに比べて自分はどう考えても、相手をそそらせは出来ない。
 ただ、どうも三橋はそう考えないらしい、というのはちゃんと知っている。かわいい、とか、えっちだ、とか言われたこともある。今もってその理由は謎なのだが、或いは三橋の趣味は変わっているのかもしれない。もっとも、いざ生身を前にして、なおそう思えるかは分からないが。
 では自分はどうか。余り乗り気でないのは事実だ。しかし、三橋が怪我をする、エッチをしない、自分が三橋を受け入れる、この三つの中では、最後の案が一番適切である。少なくとも阿部の脳味噌はそう判断した。
(まあキャッチャーは女房役だしな)
その女房ではないと自己ツッコミしながらも、この比喩がこれ程相応しい状況はちょっと無い。
「しかし俺がねェ」
 阿部は上に乗る三橋を想像した。あの顔で自分を抱く。一体どうやって。三橋の気持ち良い顔は大変エロいから、きっとそういう顔だろう。あれで喘がれたら、ちょっと自分には耐える自信がない。もしかしたらそのまま逆に頂いてしまうかもしれない。
「……まあ、選択肢は一つか」
 そこで阿部は考えを打ち切ると、そろそろ寝ようと、就寝前の自主練に取りかかった。一応この時から、後ろの準備をすべきなのだろうか。三橋よりはまだマシなだけで、自分が怪我するのも十二分に困るのである。
(それはまあ、もう少し調べてからでいいか)
一瞬の逡巡の後、阿部の手は普段通り前の方へ向かう。流石にまだ、躊躇いが残っていた。

 ティッシュで後始末をすると、阿部は湧き上がる空しさに、やはり三橋と一つになりたい、という思いを新たにした。幾らこれが気持ちいいと言っても、きっと三橋とのアレコレには敵わない筈なのだ。阿部も童貞である。期待は膨らむばかりだ。
 結論は既に出ていて、後は精々三橋の意志を確認しておく位。何れにせよ、動くべき時であった。


 練習後に阿部が三橋を引き止めたのを気にする者はいない。それは阿部にもよく分かっていたことだった。別段これが初めてではないのだ。バッテリーには話すべきことが山程有るし、まして三橋相手には普通よりも時間がかかる。だから花井も、鍵頼むな、とだけ言って自分に部室の鍵を渡したのだ。
 それでも、これから話すことを考えると、阿部はどうしても僅かに緊張してしまう。自分の考えが漏れてはいないだろうか、と。
「どうした、の」
二人っきりになっても、何も話し出さず、ただ見つめてくる阿部に、三橋はおずおずと尋ねた。五分ばかしじっくりと見られた後のこととは言え、自分から言い出しただけでも三橋的には大進歩である。夏以降、着々と二人の関係が進んできている証であった。
 阿部はそれには直接答えず、向かい合いに座っていた椅子から立ち上がると、シャツを脱いで上半身裸になる。阿部にしてみれば、これから大事なことを確認するのだから自然真面目になるし、その空気は三橋にも伝わる。ただ三橋にとってはこの行為は単なる奇行にしか映らない。阿部君がやるなら何か意味があるのだろうと思いはするが、何故脱ぐのかは分からない。それは当然の反応であったが、三橋は自分の所為なんだな、と少し落ち込んだ。
「おい、三橋」
「ご、ごめん、なさい」
「はぁ?」
阿部にしてみれば、何を謝ってるんだとばかりに、ただ疑問として言葉を出す。けれども、三橋にとってその言葉は、叱責でしかない。
「オ、オレ、頑張るから」
だから怒らないでください、呆れないでくださいと、三橋はお願いする。
「何を」
「阿部君の言うこと、ちゃんと分かるように」
「オレはまだ何も言ってねぇよ」
一体どういう思考回路なのか、出会って一年も経っていない阿部にとっては、流石にまだまだ理解するのは難しい。勘違いをしている、ということだけは分かるけれども。
 隅に在ったパイプ椅子を引き寄せて座った阿部は、困ったように眉を下げる三橋を敢えて無視する。
「それより三橋、一個聞くぞ」
「う、え? ……あ、うん」
反応速度の遅さは一昔前のPC並だが、阿部はじっと我慢した。正直秋も深まってくれば、ずっと上半身裸と言うのは肌寒いのだが、これ位の間なら風邪を引く程ではなし、気にしている暇はない。
「オレ、どうだ?」
「へっ……」
自分を指差した阿部は、三橋の口が菱形のまま固まったのを見て、これはいけない、と質問を変える。どうにも抽象的過ぎて、容量を超えてしまったらしい。
「そうじゃなくて、その……触りたいか?」
言った瞬間、その露骨さに、阿部の頬にほんのりと赤みが差した。何という質問なんだろう。もっと上手い聞き方があった筈だ。確かに生々しいことを最後にはしようと思っているのだが、それにしてもこれは、と羞恥の気持ちが疼く。
「触り、たい!」
 挫かれた阿部の気持ちとは逆に、三橋は本能のままに勢い良く答えた。大好きな阿部の身体に触りたいかどうかなんて、触りたいに決まっている。そして改めて阿部を見ると、筋肉も有るものの、それでも如何せん細さを隠し切れない身体が、そのままに在る。恥ずかしい、けど、見たい。三橋にとっては実に簡単な流れであって、日に焼けた筈なのに、白いという印象が拭えない頬を上気させながら、素直に手を伸ばし、腹を撫で
た。
「……触る以上も、したいか」
 その時の阿部は、恥ずかしさによって昂ぶる気持ちを制御出来ていなかった。ただおずおずと触る三橋を、もっと動かしたい。倒錯した恥じらいは、つい阿部をして三橋を誘わしめた。質問そのものは、当初の意図の通りである。生身の自分相手に、その気になるか、確認しておく。ただ、今そこに込められた意味は、単なる質問以上のものが有った。
「どんなこと?」
「もっと、やらしいことだよ」
「……したい」
僅かな逡巡の後の承諾は、いましたい、と同義であった。

 三橋の手が、阿部の胸に触れる。練習焼けから逃れたそこは、夏の間に出来た腕の日焼けがまだ消えていないが為に、妙に白く感じる。
「ウ、ウヒッ……」
「変な声出すなよ」
 こんな胸を触って何が楽しいのだろうと、阿部は顔を真っ赤にさせている三橋を見る。いかに空気に呑まれていようとも、まだ阿部の方が比較的冷静で、こうして水を差す発言の余裕もあるのだ。
「阿部君、か、可愛いよ」
「……バーカ。お前だろそれは」
「で、でも」
 三橋が乳首に軽く触れると、阿部はむず痒くなって、避けようという気はないのに、身体が動いてしまう。
(やっぱり、可愛い、な)
そのまま、ピンク色のそこを弄っていると、阿部の綺麗な胸板が僅かに動いている様が、よく見える。
「舐めていい?」
「は?」
「え! う、その……」
「……何でもいーから、好きにやれよ」
 阿部から許可が出ると、三橋は椅子から腰を浮かせて、胸元に顔を近付けた。熱い吐息は不快ではないが、いかにのめり込んでいるかが、よく感じられる。
 阿部にとってこの状態は、正直予想外であった。積極的に触ってくるのもそうであったが、それ以上に、まさかいきなりこうまでされるとは。
 湿った感触は未知のもので、気持ち良いとか悪いとか、そういう感覚以前に、まず不思議な感じがする。
(汚くねェのかな)
幾ら外気温が下がっても、動けば汗は出るから、今の身体は余り綺麗とは言えないはずだ。しかしそれを厭う様子は、三橋には見られない。
 頭はそのまま胸の辺りを動いている。別段他に何をする訳でもなく、ただ、キスとも舐めるとも付かない行為を繰り返していた。


 三橋が頭を離したのは、結局阿部が声を掛けてからだった。
「もういいか?」
「ん……」
素直に、しかし名残惜しげに従う三橋の顔は、明らかに興奮していた。阿部の身体は、十二分に三橋の欲情を誘えるらしい。
(ベタベタだな。コイツどんだけ……)
阿部は自分の胸に残る唾液を掬う。テラテラと残る跡は、それだけ熱心に求められた証拠である。つい、阿部は指を口に入れてしまった。味はしない。ただ、先程までの行為が、急に実感を持って阿部に迫ってきた。柔らかい舌の這う感じを、急に思い出す。
 見てみれば、三橋の方はただでさえ熱くなっていた所に、煽る様な動きで、居心地悪げに前を隠している。ズボンの一部が、見せられない。
 阿部は、チラリと壁に掛かっている時計へ目をやった。まだ少し時間がある。
「三橋、こっちこい」
そういって畳の方へ上がり込めば、黙って三橋は向かいに座った。
「下だけ脱いじまいな」
「ここでスル、の?」
あちこち視線を泳がせる三橋は、普段からそういった調子であるとはいえ、流石に酷い。そう思う位に、狼狽えている。
「オレ、初めてだから。下手だけど、でも」
「は? お前まさか今まで……」
「あ、阿部君はあるの!?」
「そりゃあ、普通は」
 どうもおかしい、と阿部は内心首を捻る。いくら三橋でも、一人でシたことがないとは思えない。確かに前は、そういう疑いを持ったこともあったが、そこまで三橋が無垢だとは、もう思っていない。寧ろ、先程の積極性を考えれば、案外貪欲なのかもしれない。そんな三橋が。
(まさか)
そこで思い浮かぶのは、一つ。
「あのな……お前、今から何すると思う?」
「え……えっちなこと」
「具体的には?」
普通はある、と言われてショックで青ざめていた顔が、今度は羞恥で赤くなる。やはり表情に出やすい。
「言っておくけどな、触るだけだぞ」
「触る?」
「そう!」
恥ずかしいと思う気力も無くして、阿部は一気に下半身を晒すと、お前も早くしろ、と急き立てた。三橋がよく分からないままそうすれば、そのまま三橋自身を握った。既に萎んでしまったソコは、阿部の手の感触で、一気にまた大きくなる。
「ふひゃっ」
「こうして、一緒に動かすだけだよ」
もう色気も何も有ったものではないが、そんなことを気にする余裕は、今の二人には無かった。
「いくらお前でも、オナニーぐらいはするだろ」
「う……」
否定の言葉を口にしないのが、既に明らかな肯定となっている。
「今日は、コレだけな」
「今日は、コレだけ」
 鸚鵡返しの反応に、そうだ、と阿部は頷く。すると、ふにゃり、と三橋の緊張が解けた。やはり、最後まで結ばれるのを考えていたらしい。
「あ。オ、オレも、阿部君に、スルね」
すると慌てて、自分も手を伸ばしてきた。自分ばかり気持ち良くなってはいけないと、気付いたのだろう。

 どうやら、阿部が心配すべきは、三橋が可能か否かではないようだった。





丁亥八月二十九日公開