誘い水



 物音一つしない部室の中、二人きりでいる所で、呆然とした顔を見ると、一瞬自分が悪いことをしたかの様な錯覚が生じる。視点が合っていない目、だらしなく開けられた口、そしてゆるみきった表情。良く言えば柔らかい唇に相応しい顔が、目の前にある。
「なんだよ。別に良いだろ」
謂われの無い呵責を打ち消す為、少し強めに言えば、キス以来止まっていた三橋の時が動き出す。かあっと表情に赤味を増すと、慌てて頷いて、自分から近寄って来たのだ。
 がっしりと掴まれた腕は立派に痛くて、改めてコイツは男なんだと認識する。一見ふわふわとしているが、一皮剥けば存外剛毅な部分があって、好きなものへの態度など甚だしい。
 阿部はそんな強さを向けられるのが好きだった。男として、苟も惚れた相手から想いに見合うだけの感情を返されて、喜ばない訳が無い。先程自分がしたよりも、もう少し硬くなっている唇が、中身を吸うかの如く求めて来る。ゾクゾクした。晒された欲望をぶつけられるのは心地良く、自分からしたキスとはまた違う、求められる悦びに、そのままどこまでも流されたくなる。
 けれども、息が苦しくなったのだろう。ぷはぁ、と大きく息を吸いながら三橋が離れて、もうここから出る時間であるのに気付いてしまった。元来が軽い気持ちのキスであり、二人きりになれたから、帰りがけにちょっと触れられれば良いと思っていただけなのだ。時間は無かった。
「三橋、出るぞ」
「え、……で、でも」
「時間が無ぇんだよ」
 自分の欲求にはどこまでも素直な三橋は、当然ながら一向に物欲しそうな目を阿部に注いだままだ。
「あ、あべく……」
「駄目だ」
阿部は胸に小さな痛みを覚えながら、先に部室を出た。自分が酷い奴の様に思えてくる。栄口に何を言われようとも、そんな時は一切気にならないのだが、ごく真っ当な判断をしただけでこうなるとは。少々弱過ぎるかなと、反省する。
 それでも、三橋の眉が情けなく下がっているのを見ると、落ち着かない。
「チャリの方で待ってろよ。鍵返してくる」
「うん」
「……一回だけなら、またしてやるから」
「えっ」
阿部を怒らせたとでも思っていたのか、控え目に控え目にとしようとしていた表情が、瞬時に華やいだものになる。空腹時に天むすが食べられる時の様な顔だ。
「ただし、ちょっとだけだぞ」
「う、うん!」
阿部だってしたくない筈が無い。鍵を返しに職員室へ向かう阿部の足取りは、明らかに普段よりも軽いものだった。
 その足取りも、自転車置き場に向かう頃にはすっかり重くなっていた。一体何をしているんだと、暗い校内で阿部は独言ちる。確かに野球部の練習後更に残っていれば、既に人影は疎らで、冒険しても見つかる可能性は殆ど無い。それにしても万が一を考えれば、お世辞にも賢いとは言えない。風に揺れる木の葉にも、誰か居るのかと視線を向けてしまう緊張が、阿部を襲っていた。いっそ本当に誰かいればいいのに、と思う。それならしょうがないと諦められる。
 しかし、そこには三橋一人が待っているだけだった。そうなるともう、阿部単独で止めようとは言えない。何も言わずに、唇を近付けた。三橋が重ねてくると、途端に周囲が気にならなくなる。固より三橋は注意なんてしないから、阿部が気を配らねばならないのに、余裕が無くなる。

 三橋はしがみつく力を強めながら、一心に貪っていた。頭にあるのは気持ち良さだけであり、どこまでも続けていきたいとしか考えられない。
(かわ、いい)
普段は怖いと思ってしまう口も、こうして自分を受け入れてくれている。くぐもった声が漏れ出る様は、感興を掻き立てる。一応三橋にも、ここで「何かする」という事は不味いと分かっている。分かっているのだが、止められない。悶々とする気持ちが唇をして、阿部を食べさせるのだ。
 その気持ちは唇が離れても変わらない。それどころか、いっそう強くなるばかりである。三橋はワザとではなく、ただ欲望に従って、硬くなった部分を阿部に押し付けた。

 キスするよりも強くしがみついて、阿部の腕の中でグルグルしている三橋。唇を噛み締め、願望と自制とが相争っているその姿は、何と美味そうなのだろう。柔らかい髪にそっと触れると、ビクっと過剰に反応する。阿部がこのまま襲いたいと思うのは、至極当然であった。
 だが、なお理性は絶えてはいなかった。
「……出るぞ」
「え、うぇっ」
愕然としている三橋にとって、今の一声は生殺しでしかなかった事は、阿部にとっても重々承知である。何せ自分にとってもそうなのだ。せめてキスだけと思ったのが、今やキスだけとしか思えない。 耐えきれないのだろう、三橋はポロポロと涙を落とし始めた。それにいっそう心が揺れる。この目前の愛らしい生き物が、思いっきり快感を味わう所を堪能したいと、本能が求める。
「明日の……練習に差し支えんだよ」
 それを打ち消す為に、自分自身へも向けながら、阿部はゆっくりと語りかける。
「球捕れなくなる」
「それは嫌、だ!」
「だろ? だったら諦めろ」
一度は即答した三橋は、次もぎこちないながらも頭を振った。
 三橋の真っ直ぐな衝動を抑えられるのは、ボール位なものだ。スポーツで昇華という程綺麗なものではない。欲望を欲望で打ち消す、と言う方が相応しい。

 阿部は無理矢理に反論を封じ込めると、急いで校門を出た。とにかく二人っきりではいたくなかった。理性はそこまで安定していない。すっきりしない気分のまま、ただ自分の意志のみを重しに出来る自信は、流石に無い。
 時々他人とすれ違いながら歩く二人に、会話は無い。しかし離れたいのでもない。自転車に乗らずわざわざ押して帰るその足取りは、通行人の中でも遅い部類だった。
「……じゃあな」
「あ、う、うん」
そうしていても、何時かは分かれ道まで来てしまう。別れの三橋は肩を酷く落としていて、声には渦巻く失望がたっぷりと塗されている。帰路常にチクチクと刺され続けている阿部の胸に、一際グサリと刺さり来る。
 そこで更に憐憫の情が湧くか。阿部にとっては否だった。それよりも理不尽な怒りが沸々とするのだ。一体三橋ばかりがお預けを食らった犬の様な顔をしているのはおかしい。阿部だって健全な男子として発散したいものはたっぷりと有るのだ。それを。
「三橋!」
 別れて数歩、互いの向きが変わった所で、信号に向かう三橋を呼び止める。緩慢な歩みが止まった。阿部はズカズカと近寄ると、一言囁く。
「あさって、お前ん家行くぞ」
一体何を怒られるのだろうとおののいていた頭が、処理しきれないと煙を出す。
「だから、しあさっては練習ないだろ」
これにはコクコクと頷いた。その日はミーティングだから、確かに無い。
「その前日だから、身体、気にせずデキるだろ」
何が「デキる」のか、目をきょろきょろさせながら考えること数十秒。突然三橋が何度も頷く。
「デキる!」
「だから、今日はまだ待て」
「待つ、よ。待つ……!」
ぱあっと瞳を輝かせて、意気揚々となる三橋に、先に激昂した感情が、そうやって喜べば良いのだ、と収まっていく。この通り、少しすれば思いっきり貪れるのだ。背中にまで悲しみを滲ませる必要なんて、一体どこに有るだろうか。最初は悪戯半分のキスでしかなかったことなど、もうさっぱり関係無いことだった。





丁亥七月八日