控えろ 二月十四日の朝。自転車をこぎながら、栄口は、よりによってこの朝に阿部に遭遇した己の不運を呪っていた。 そりゃああの二人が友情という枠に収まらないのは、野球部の公然の秘密と言って良かった。というか、本人達に隠す気が皆無なのだ。昨晩だって、三橋の手ずからポッキーを食べたのはまだしも、そのまま阿部は持っていた指を舐め始めたのだ。物欲しげに舌を這わせる顔は、幸いにも栄口には理解出来ないが、恐らく三橋には煽情的なのだろう。それを見た顔は涎を垂らしながら、ギラギラした生臭い視線を送っていた。ぽやぽやした外見とは裏腹に、我等が正投手は欲が強い。そして、正捕手はそんな相手に惚れきっている。 それ自体はまだいい。問題は、それが強すぎて、時々暴走してしまうということ。 二月の寒風は肌を突き刺すが、先程見た、平然とバレンタイン用の包装がされたチョコを買う男の姿は、思い出す度肌の内側をぞわぞわと震わす。可愛い感じではなく、シックな雰囲気であるだけマシだが、それでもあのチョコには、ハートのシールと、バレンタインという英単語が筆記体で在った。それを手にした彼は、恥じるでもなく淡々と会計を済ませて、買うんだ、という栄口の精一杯取り繕った声に、三橋にやるから、という返事をしたのだ。 このことを自分一人の胸に収めておくのは、栄口にとって酷なことだった。いや、仮に前をいくこの男が、隠すそぶりをしたり、黙っていてくれ、と頼んだのであれば、口を閉じるぐらいはやれる。だが無言で自転車を漕いでいる阿部は、自ら栄口に漏らしたのだ。 (言っても……いいよな) せめてそれ位は許されないと、栄口は阿部を殴ってしまうかもしれなかった。 だが聞かされた方はたまったものではない。 学校に着くといつもより少し早い時間で、部室に入れば、いたのは巣山だけだった。 「他は?」 「まだオレだけ。たまたま目ェ覚めてさ」 阿部はそれを聞くと、それっきり考えは今日の練習に移ったようで、着替えながらも視線は何も見ていない。そのまま、マウンドの整備に行ってしまった。先に来ていた巣山も、もう準備は出来ていたから、それに続こうとする。 「ちょっといい?」 「どうした」 「話したいことがあるんだ」 そこで巣山は、仲間と呼ぶには些か残念な阿部の行動を知ってしまった。野球一筋に見えて、彼だって人並みの欲求はきっちり持っているから、バレンタインの今日はそれなりに力んでいた。それが、朝練前に残念な話を聞かされては、士気を削がれること著しい。 「ついにそこまで行ったか……」 「残念ながら」 用具を取り出しながら、二人でこそこそと話し合う。マウンドを整える阿部の姿は、それだけ見たら一人の熱心な野球部員にしか見えない。いや、確かにそうなのだ。三橋に対してを除けば、彼は誠に真面目な、普通よりも更に野球が好きな高校球児だった。 「どうする?」 「どうしようもないんじゃないか……?」 「だよね。やっぱり巣山も分かんないよね」 「……悪い」 少し憮然とした顔をされると、慌てて栄口はいやいやこっちこそ、と人の良さそうな顔に苦笑を浮かべる。「まあ、どうせ練習後で渡すだろうから、まだ」 「あー。だといいけど」 覇気の無くなった二人に残されたささやかな望みは、せめて野球部の面々しかいない所で渡してくれというものだった。教室でなんぞ渡されたら、一体野球部はどう思われるというのか。それだけは避けたかった。 しかし、阿部は朝練前に三橋が来た時も、練習後も、チョコの一字も出すことはなかった。水谷なんどは喜々として、誰が一番貰えるかを言おうとしていたが、栄口も巣山も妙に重苦しい雰囲気でいるから、話が盛り上がらない。そこへ花井が、もう直ぐテストだという厳しい現実を突き付けるから、話題はそちらへ動く。彼にしてみれば、チョコの話題などは面映ゆく、声高にすべきものではなかったのだ。バッテリーはその間、体を冷やさないようにという阿部の注意を、三橋が熱心に聞いていて、チョコのちの字も知らない風だ。 そうして楽しい数の予想を崩された水谷は、二限が終わると机に突っ伏して、女子のざわめきに耳を傾けながら、内心溜息を吐く。 (みんなノリ悪いよー) 折角なんだから楽しめばいいのに、と愚痴ってみても、七組はどうも駄目だ。 それなら昼は九組に行こうか、と何気なく時間割表で四限の授業を確認した時だった。ふと、入口を怖ず怖ずと入る見慣れた顔を見つける。 「あ、三橋じゃん」 その言葉に反応したのは当人よりも寧ろ阿部で、水谷に反応する彼を遮って、どうした、と聞きにいく。 「英和か」 「う、うん」 「寝るんじゃねェぞ」 九組の時間割を覚えている阿部は、慣れた手つきで机に戻ると、鞄から少しくたびれ始めた辞書を取り出す。半ば阿部と三橋との共有といえる程に三橋へ貸し出されるそれは、当然ボロくなるのも早い。 机まで移動した三橋は、ただの辞書であるのに、それ以上の価値が有るかのようにふわりと笑みを浮かべる。 「オ、オレ、寝ないよ!」 「おー。赤点取んじゃねェぞ」 その反応に、阿部も亦優しい、すくなくとも阿部にしては柔らかいといえる顔をすると、鞄からもう一つ何かを取り出した。 「ほら、これやるから頑張れ」 ビニール袋ごと渡されたそれを出してみた瞬間、動揺した小さな叫びが、三橋から漏れる。 「い、いいの!」 手に在るのは、紛うこと無いバレンタインチョコ。 「阿部君が、オレ、に」 「そー。オレから」 「あ、ありが、とう!」 少しはよくなった吃りが、また酷くなる。それを不思議に思いながらも、阿部は頑張れよ、と機嫌よさ気なままだった。 教室が一瞬静かになる。そこに走るのは、緊張と戸惑い。平然と渡すのが、いかにも本気らしくて、一体どうすれば分からなかった。 そのまま始まった三限は、大変私語が少ない授業となったが、同時に著しく士気に欠けるものでもあった。世界史の教師は、三回連続で自慢の小ネタに一切反応が無かった時点で、明らかに困り顔となり、結局チャイムと同時にそそくさと退室してしまう。 「阿部!」 それと同時に花井は立ち上がって、廊下を指す。 「あ?」 「話がある」 訝しげな視線も無視して先に出れば、眉を僅かにしかめた阿部が続く。水谷は逡巡の後に首を振ると、ポケットから飴玉を取り出して、口にした。新発売のミント味は中々行けるから、花井が戻ったら是非あげようと、そう思った。 二人は廊下の端で、互いに真っ直ぐ見合う。どう切り出すべきか悩む花井は、あー、と無意味な呻きを上げる。 「……何だよ」 それに焦れた阿部が、舌打ちと共に催促して、漸く口は開いた。 「まあその、別にあげることは否定しないというかさ」 「は?」 「三橋も喜んでたし、お前らが順調なのは部にとってもいいことだ」 「……はァ」 目の前の阿部が、真顔の言葉に微かな戸惑いを覚えている。花井はその隙に、一気に本題を出した。 「でも教室ではどうかというか、まあそりゃオレらは気にしないにしても、中には気にする奴もいるだろうし、部にもなんというか、変な、じゃねェけどなんか噂みたいなの立ったりさ、そりゃお前が悪くはないけどでも」 「花井」 「気になるのが人情だってのはやはりあるしさ、それでよくねェことが万が一起きたらお前だって嫌というか怒るだろ実際、だから今後は気を付けて、あ、いや別にお前らが駄目ってんじゃねーのは」 「おい、聞けよ」 混乱状態の花井は、呆れ顔の阿部に肩を揺すぶられ、はっと気が付いた様に口を閉じる。背中には、二月というのに薄ら汗が滲んでいた。 「何が言いたいんだよ結局」 「くっ……!」 阿部は相変わらず平然としていて、その様はごまかしているというよりは寧ろ心から理解していない風であった。 「わーった! お前みたいな奴にぼやかして言うオレが悪かった!」 花井はごくりと唾を飲み込む。 「三橋にチョコやるなら、人目に付かないようにしろ。オレはこう言いたかったの」 言い切って様子を伺えば、阿部はポカンとして、意味不明なものを見る目付きで、花井を見ている。 「なんで」 「なんでって……いやいやお前それは」 もしかして阿部は頭がイカれてしまったのかと、半ば本気で思いながら、だってあれは普通男女で、とむにゃむにゃ呟く。 「意味分かんねェ。菓子やるだけだろ」 「やるだけって……」 花井は泣きたくなった。バレンタインにチョコを真顔でやりとりする男はおかしいというのは、どうやら阿部には無い常識らしい。 「いいから、とにかく来年は止めろ! もう今年はしょうがねえ。あ、ホワイトデーは勿論今年から」 「ホワイトデー?」 その単語に、阿部の顔には困惑した表情が浮かぶ。 「え……いや、幾らなんでも知ってるだろ」 「知ってはいるけど……つーか、今日って」 それは次第に赤みを帯びていき、遂には教室へ無言で走っていってしまった。 呆気に取られたのは花井である。突然どうしたという疑問で、怒りも湧かない。 「んー……まさかな」 代わりに出たのは、嫌な自答。 後を追って教室に入れば、阿部は頭を覆って机に俯せになっていたが、その耳の真っ赤なこと、近くはない花井の席からさえ分かってしまう。 「お疲れー。はい、飴」 「え、ああ……」 そこにのほほんと水谷が置いていった飴は、味こそ甘かったが、それも正しかった答に碌に味わえぬまま、次の授業になって、バリンと口中でかみ砕かれてしまった。 早朝のコンビニで買ったチョコは、ただのお礼だった。昨日の部活後に、何の気無しに空腹を訴えたら、三橋がポッキーを半袋程分けてくれたのだ。少しばかりとはいえ、あの三橋が、他人に食べ物を寄越す、その心が嬉しかった。 確かに過分な対応だろうし、そこにバッテリー以上の理由、端的にいえば好きな相手だからという事情が有ったことは間違いない。それでも、本質的には純粋な感謝の気持ちであり、バレンタインなんて甘ったるい行事をするつもりはなかった。 (どうするかな……昼休みに取り戻す……いやそれだとまた三橋が変に気ィ回すし。大体三橋は良いんだよ。問題はクラスの……言い訳してもかえって怪しいな……) 阿部の脳は目まぐるしく動くが、さっぱり解決策が見いだせないまま、授業は終わってしまう。 もう自棄になって、今なら目で人を殺せると、弁当にも手を付けずに意味も無く辺りを睨んでいると、不意に泉が苛付いた様子で入ってきた。 「おい、阿部」 弓矢に勝る威力をものともせず、バンッと机を叩くと、親指で九組を指す。 「オレはもう知らねー。お前があのバカ達止めろ。これ以上野球部の恥晒させんな」 「何した」 「三橋が誰かさんからチョコ貰ったってすんげー喜んで、田島が便乗」 次の瞬間、阿部は物も言わずに走っていった。いや、実際には一言だけ、悪ィ、と呟いたのだが、泉は敢えて聞かなかった振りをした。僅かな謝罪では許せぬ位、もう九組の野球部株は暴落していた。 泣きそうな顔の花井が聞いた話では、まず三橋がエヘラエヘラと大事そうにチョコと辞書とを抱えて来たらしい。何それ、と田島が聞けば、阿部君とチョコという単語こそ分かるものの、後は興奮していて泉にさえ分からなかったらしい。そこに、クラス中に響き渡る声で、阿部のやつチョコくれたのか、と田島が叫んだ。大体野球部の阿部と言えば、怪我もしたしでそれなりに名前は売れている。誰かが、あの阿部、と半信半疑の声で尋ねれば、泉の制止よりも先に、三橋がおもいっきり肯んじてしまう。後は天然の扇動家である田島が、よかったなー三橋と傷を深める度に、三橋が純粋な笑顔で、うん、と塩を塗り込んだらしい。 花井はそれを聞き終ると、九組に走っていった。とりあえず何かしなくてはという、悲しい主将気質だ。 「いーの? 後追わなくて」 「オレはもう知らねーもん」 後に残ったのは、暢気な水谷と、諦めきった顔の泉。 「大体、あの二人はなんだかんだで甘いからなー。ま、どうせほだされるだろ」 「花井もかな?」 「阿部もやられたらなー。3対1には勝てねェんじゃね」 そう言うと、泉は水谷の前の席に椅子だけ借りると、ちゃっかり持ってきていた弁当を開き始める。 「えー、見に行かないの」 「メシ食おうぜ米谷」 「米って言うなよー」 そのまま昼飯を食べていると、喋りが多い水谷さえ半分以上食べ終わった頃、憔悴した様子の花井が、何やら感動した面持ちの阿部を引き連れて、戻ってきた。花井はのろのろと動きながら、黙って自分の机に独り向かい、弁当に手を付ける。 一方阿部は、水谷の隣席に座って、食べながら軽快に喋り始めた。 「オレは間違ってた」 「何がー?」 泉が目配せするのにも気付かず、水谷はのほほんと聞いてしまう。 「男とか……なァ、どうでもいいよな」 「「え、え?」 「よくねーよ」 泉は馬鹿らしいと一刀両断するが、聞いてはいない。 「三橋のヤツすっげェ嬉しそうでさ、オレの顔見るなり、ありがとう、阿部君、って。もうそれ見たら、バレンタイン忘れてたなんて言えねェ。そん時思ったね。ああ、これは三橋にチョコやる運命だったんだ、って」 「運命? 呪いだろ」 「考えてみりゃあ、好きなヤツにやるなんて当然のことだよな」 「……」 「ホワイトデーにはもっとちゃんとしたモンやらねェと」 最早ただ昼食を口に詰め込む泉に代わり、水谷がなんで、と尋ねた。いや、尋ねてしまった。 「阿部は今度は貰う側なんじゃないの」 「はァ?」 阿部は目つきでクソレフトと罵ると、一転してうっとりとした顔となった。 「もうオレは三橋から貰ってるし」 「え、三橋もチョコ?」 「愛」 これを聞いた水谷が救いを泉に求めようとするのと、その泉が立ち上がったのとは、綺麗に同時だった。 「いずみー!」 「オレ、三組行くから。頑張れナイスレフト」 縋る手を振り払い、無情にも去っていく彼に代わって、腕を掴んだのは阿部。 「三橋がくれた愛を、オレはどうやって返せば良い?」 「さ、さあ……」 「だってアイツの愛、大きすぎんだもん!」 激情を以てされた所で、湧くのはただこの場から逃れたいという一心のみだ。 「プ、プレゼントは自分とか……」 そこで出してしまった代案は、真にくだらないもので、しかも悲しいことに、得てして激情は人を愚かにさせる。 阿部はその提案に、ふうん、と満更でもなさそうな顔で黙り込んだ。 「ちょ、阿部」 「中々良い案だな……」 焦る水谷へのとどめは、ニヤリとした阿部の、企みが愉しくて仕様が無い、という表情だった。 平成二十年戊子六月四日公開 |