箸使い



 秋晴れという表現がピッタリ来るような、綺麗で済んだ青空の下、三橋は、自分の食欲すら忘れて、目の前の動きを見ていた。
 三橋の視線の先にいるのは、阿部である。屋上で弁当箱を広げているその姿は、或いは余人にとって単なる一人の高校生かもしれない。けれども、三橋にとって、それは大好きな人の食事姿で、やや俯きがちに箸で焼き鮭を解している、そんな何気ない行動さえ、気になってしまうのだ。
 箸の動きは滑らかで、小骨は事も無げに取り除かれていく。既に食べてしまった卵焼きの場所に、その骨は置かれていた。そして、箸は、骨を除いてしまったのか、今度は身を半分に割っている。
「……なに」
「ふへっ!」
 それだけ熱心に見られて、気にならない人間はいない。阿部は、鮭の半分を口に運びながら、三橋の方を見た。
「お前、どっか具合悪いのか? 弁当さえ食ってねェなんて」
「ち、違う、よ!」
三橋は膝の上に弁当を置いている。そこは阿部と同じなのだが、違うのは、隣にパンが三つも四つも入った袋が在ることだった。それでも三橋が食べ終わる時間は、いつもなら阿部とそんなに変わらない筈だった。少なくとも、前に一緒に食べた時はそうだった。
 それが、今日に限っては自分と同じぐらいしか弁当が減っていない。目敏く気付いた阿部の眉が、少し顰められる。それは三橋にとっては嬉しくないことで、そんな間違ったことで阿部に心配は、かけたくない。おかげで、否定する言葉のどもりも、酷くなる。
「ただ、阿部君が」
「オレ?」
「ハシ、上手だから」
 そう言われて、阿部は首を捻る。果たして自分がそうなのか、考えたこともなかったのだ。
「そうか?」
「そうだ、よ!」
 言われた阿部自身はそう強調する程でも無いと思っていたが、三橋に勢いよく言われると、悪い気はしない。この話に乗ろうかと、満更でもなさそうな顔で、お前はどうなんだ、と返した。
「オレ?」
「そ。丁度お前も、鮭あるじゃん」
三橋はその言葉に、、ちょっと困った様な顔になって、何度か弁当と阿部の顔を交互に見る。俺がやるの、という言外の訴えだった。
 しかし、阿部はその動きが理解出来ないらしく、訝しげに見つめるだけだ。その視線に、三橋は観念するしかないと、弁当箱の中に在る魚へ、箸を伸ばした。
 一本の骨を、三橋は追っていく。だが、阿部の手ではいとも容易く取り去られていた骨が、何故か三橋の手では、そこかしこと逃げ回る。身は直ぐにボロボロになって、あっという間に三分の一が鮭フレークに近くなっていった。
「……お前」
「普段は、手で、取るから」
 呆れた声に、三橋は大あわてでフォローの言葉を漏らすが、それが藪蛇だったらしい。
「高校生なんだから、これぐらい、箸で取れよ」
「ご、ごめんなさっ……」
「ほら、見てろ」
 そう言うと、阿部はスイと箸を伸ばして、三橋の弁当箱の鮭を弄り始めた。三橋の鮭が、今度はそんなに崩れないまま、骨だけが隣に積まれていく。
「や、やっぱりスゴい」
「いや、これが普通だって」
阿部の口調は淡々としているが、別段怒ってはいない様で、それに安堵しつつ、三橋はキラキラとした目で、阿部の手先に注目する。自分よりももう少しがっしりとした手が、鮮やかに動いていた。
 その様子に、阿部は内心子供みたいだと思う。自分が小学生だった頃、一歳下の弟は、まだ骨を取れなくて、それなのに自分は綺麗に取れたと褒められた、その時に、得意げに取ってやった記憶が、浮かんでくる。
「よし、あーん」
 その所為だろうか。阿部はつい、そうやって骨の取れた鮭の切り身を、三橋に差し出してしまった。我に返ったのは、戸惑った視線と共に、う、という三橋の声が聞こえてきた時だった。
「や、悪ぃ」
何をやっているのか。阿部は顔に赤みを差しながら、慌てて箸を下ろそうとする。弟を思い出して、と言い訳しようとした。けれども、それより先に三橋の口が、阿部の箸の先を咥えてしまった。
「なっ……!」
「あ、ありがとう、阿部君」
阿部の口からは、上手く言葉が出て行かない。発しかけたものも引っ込んでしまった。照れながら口を動かす三橋に、何か言おうとして唇だけが動くが、喉からは何も出ない。
「……練習、しとけよ。骨」
「うん!」
 結局出たのは、今のことをさらりと流して、無理矢理にごまかす言葉だった。そのまま弁当箱を向いて、顔を隠す。赤くなっているのに、幸い幸せそうな三橋は気付いていないから、早く収まれと念じる。あれはただ、弟にからかって差し出したのをついやってしまっただけで、他意は無いと、そう自身に対して呟きながら。

 阿部が、本人だけは見られていないと思っている顔を、三橋はこっそり伺っていた。そして、相変わらず箸は止まったままだ。鮭を食べながらウヒッ、と呟いて、一口御飯を口にしたと思ったら、俯く阿部が、ほんのりと色づいているのを見て、そのまま復た視線を釘付けにされてしまったらしい。
「おい、今何分だ?」
「四十分近く」
 そんな二人に、花井はこっそりと沖に尋ねた。
「食べんの、間に合うのかな」
「さあ……」
栄口の呟きに、西広は苦笑するだけだ。
 別段阿部と三橋とは、二人っきりで食べている訳ではなかった。偶にはみんなで食おうぜと、田島の提案で、野球部の十人は、全員屋上に揃っていた。
 ただ、最初は輪になっていたのが、いつの間にか、Cと点になっている。二人だけ、少し離されてしまっていた。いや、寧ろ、八人が心理的に離された、と言った方がいいかもしれない。
「オレはもう」
「まさか、慣れた?」
「……ごめん、流石に無理」
泉は一瞬強い目をしたが、水谷の吃驚した顔に、直ぐにふにゃーっと力を抜いてしまう。
 巣山は、田島と昨日の野球中継の話で盛り上がっている。時折、チラリと二人を気にしてはいるが、やはり席が一番離れていると、敢えて見ないふりもし易いのかもしれない。
「田島はどうよ」
「気にしてねェ。……まあ、アイツは」
「アイツはなあ」
こっそり水谷が聞くと、泉は、当然の様に返した。九組の泉にとっては、田島の反応が普通でないのは、もう逆に普通なのだろう。
 一体このバッテリーをどうすればいいのか。誰も突っ込まないまま、時間だけが過ぎていった。





平成十九年丁亥十月六日公開