どんな感情でも



 練習中のことだ。休憩時間に、田島とぎゃあぎゃあやっていた三橋が、すってんころりんと転んだ。あ、と思うと同時に、誰かが走っていく。阿部だ。分かりやすく真っ青になりながら、飛んでいく。
「オレ、だいじょう」
「ンな訳ねーだろ!」
ぶ、と言い切らない内にビリビリ震える声を重ねられ、三橋の八の字眉毛がいっそう下がった。
「あー、またやってるよ」
 そんな二人を見ながら、巣山が苦笑いする。三橋も大変だよなー、と沖がそれに合わせて、二人して頷き合う。
 そうかな、とオレは思った。違うよなー、と首を捻り、二度三度して気が付く。コイツら分かってない。そう考えると、胸一杯に喋りたいことが広がって、我慢出来なかった。閉じていたら破裂してしまう。
「いやー、分かってないね」
にやにやしながら話かければ、違う話をし始めようとしていた二人が、戸惑った目を向ける。
「オレは阿部に怒られたいけどな」
「え……なんで」
「ん、知りたい?」
本当はこんなこと、恋人同士の秘密にしたかったんだけど、聞かれてはしょうがない。沖とオレとはやっぱり同じ野球部だし、仲良しだし。
「いや、別に……」
「遠慮しなくていーよー」
 沖はちらりと不思議な視線を巣山に向けた。だが巣山は、手をきっぱりと振って、花井達が呑気に座っている所へと行ってしまう。オレが話をしたいけど阿部のことを漏らしたくないという、繊細な男心を分かってくれたんだろう。
「あのさー。阿部って口が悪いじゃん?」
「あー……。ちょっと、直接的だよね」
「いやいやあれはもう毒舌だから。そんでもって、人を褒めるのが苦手なんだよね。照れ屋で。素直になれないっていうか」
「はあ……」
「阿部にとっては口が悪いのが普通だから、相手と上手くコミュニケーションが取れないのですよ」
分かる、と聞くと、疲れた顔をした沖が、もごもごと何か呟く。
「だからね、阿部は大事な人程怒っちゃうんだよ。相手のことが気になって、何か言いたくて、それが口から出ると怒ったみたいになるの」
「それは……分かるかも。声も大きいしね」
「うん。そんでさ、逆に阿部に怒られないってことは、阿部にとってどうでもいい人なんだよ。話さなくてもいい、って」
 それを聞くと、沖は初めてはっきりと、そうかなあ、と反論めいたことを口にした。
「そうだよ! ってかまあそれはどうでもよくて」
あれ、と目が不安げに揺れる。それを見て、オレは益々舌が動く。
「大事なのは、阿部の罵声には愛がつまってるってこと。だからさー、クソレとか米谷とかウザいとか言うのも、ぜーんぶオレへの愛な訳ですよ。だから怒られたいの」
「……じゃあ三橋に言うのも」
「いや三橋はバッテリーだからじゃん。ってかつまりはオレが阿部に愛されてるってことだよ、言いたいのは」
「……そうなの?」
「そうなの!」
 実際は最初に話していたことと少し違う気もしたけど、まあ阿部がオレのこと好きだっていうのが話せれば、それはそれで満足だから、そこで話を打ち切る。沖もそれ以上は追求せず、そうなんだ、と言って、巣山が栄口や花井と話している方へ、よろよろとした足取りで向かう。
 さてどうしようか、阿部の所へ行こうか、と思う間に、休憩は終わってしまった。

 休憩後の練習も終わると、身体がくたくたになっているから、さっさと帰るヤツもいる。オレなんかも正直な話付いていくのに必死だから、何もなければ早く帰ってしまいたい、と思う時もある。だけど、阿部が着替えた後、少し残ってやりたいことがあるから、とノートを取り出して何やら書き始めたので、オレは帰る訳にもいかない。一緒にいたい気持ちは、疲れよりも大きいから。しょうがなく、畳の部分に座り込み、椅子に座った阿部の背中を見た。
 そうして視線は固定しながら、着替え中のヤツや、そいつを待ってるヤツと話していたら、二十分ぐらいは直ぐ過ぎてしまい、部室には二人っきりだ。
「ねーねー、まだー?」
催促程度は許されるだろうと、声を掛ける。一度目は無視。でも、こんなのよくあることだから、負けじと二回三回と声を掛けた。こう見えて結構しつこいタチなのだ。少なくとも、ウザいとか黙れとかそういうのでいいから、何か言葉が欲しい。
 すると、くるりと阿部が振り返る。眉間に皺が寄っているのは相変わらずだけど、普段のしかめっ面とはちょっと違う。
「……なあ」
「あ、なんか面白いことあった?」
顔をじいっと見れば、含み笑いをしているようで、どうやら機嫌が悪くて、そんな悪人面をしているのではないな、と分かる。
「それならもっとこう、オレみたいな爽やかな笑顔とか」
「お前、オレに怒られたいんだって?」
にぱ、と笑いかけると、それとは対極の冷笑が振ってきた。
 阿部はわざわざ靴を脱いで畳の方に上がってくると、お前変態なの、とニヤリとする。
「ちょ、沖に聞いたの」
「いやー、オレが聞いたのは栄口から」
「酷い! 沖喋った!」
「……ってか否定しないってことは、言ったんだろこのクソレフト」
「うー……あ、まあねー」
上手く直ぐには言えないので、オレは頭を掻いて、目を逸らした。阿部はふぅん、と案外怒気のない声で、隣に座る。
「しっかしわざわざ怒らせなくてもいいだろ」
「んー……まあ、ホントは怒られたいだけじゃないし」
 言ってみて、軽く様子を窺う。首を横に向け、阿部の興味の薄そうな瞳を見ると、無言のままだ。どうやら喋ってもいいらしい。
「確かにさー、阿部が怒るのは愛情表現だと思うんだけど」
「はァ?」
「いやだってそうでしょ。ってか、そうなんだよ、阿部は」
「ありえねェ」
きっぱり言い放たれるけれど、別段気にはならない。今それを認めてと言っても、あの阿部が認めてくれる訳がない。
「まーまー。で、そう思うんだけど、でもそれ意外の感情だって、オレは向けて欲しいの」
「嘲りとか憎しみとか怨みとか軽蔑とか、そういうのか」
「……んー」
「は? そこは否定しろよ」
はっきりノーを言えないでいると、阿部が苛っとした風に口出しする。けれどもオレは、ノーは言えなかった。
「いや、なんてーか、時々オレは榛名さんが羨ましい」
「脳に虫湧いたか? なんでアイツが」
「どんな感情でもいいからさー、阿部の頭をいっぱいにしたいって、正直オレ思うんだよね」
誤解されない風に話すのは結構難しくて、それでもオレは言葉を選びながら話なんて出来ないから、ただ阿部の反応を見ながら、ペラペラ喋るしかない。
「そりゃ好きとか、会えて嬉しいとか、楽しいとか、そういう風に思ってくれた方がいいけど。無視されて見て貰えないよりは、いっそ嫌われたいなー」
「……」
「阿部の頭の中、オレでいっぱいならいいのにーって。オレが阿部のこと、好きだって思って頭ン中いっぱいにしてるみたいにさ」
 阿部は変わらない風にオレを見ていた。静かな目だった。別にバカにしている訳ではなさそうだけど、反応がないのが怖い。すると、何やら地雷を踏んだのではないかと心配になって、口が重たくなった。大体、この話は、ちょっと重すぎではないだろうか。失敗したかもしれない。というか失敗か。
 完全に口を閉じたオレは、阿部の目を読み取ろうとした。別段阿部の感情は読みにくい訳ではない。寧ろ激情するから、読みやすい方だ。どうやら不快ではないらしい、というのは分かる。けれど、じゃあどうかと考えると、頭がショートしそうになる。沈黙がずしりと頭にも肩にものし掛かってきて、息が出来なくなりそうだ。
 それに、何か喋ろうとした時だ。阿部が急に立ち上がった。
「お前、ほんっと使えねェ!」
グサリと言葉が刺ささった。この空気でそれは、致命傷を与えようとしてきている。
「どうせならいいことでいっぱいにしろ! このクソ!」
けれども、続く言葉で、刺さった言葉が攻撃とは別だと分かる。荷物をひっつかんだ阿部は、荒々しい動作で部室から出て行き、ドアを閉めた。数拍遅れて、オレも後を追った。カンカンカンと、階段を下りる靴音。けれども、下りた後の阿部の足取りは、長距離でも短距離でもオレより速いヤツの足にしては、充分追いつけるものだ。

 自転車置き場で捕まえた阿部の顔は、真っ赤だった。走ったからじゃない。唇で確かめてみたら、息は、全然乱れてなかった。





平成二十年戊子十二月二十四日公開