三倍返し 二月だというのに、その日は珍しく大雨で、いっそ雪になればまだ楽しいのに、ギリギリの所で氷雨となって道行く人を陰鬱にさせる。幾ら厚着をしようとも、幾ら体を動かそうとも、芯から冷やしてくるのだ。 尤もそんな冷気なんぞ物ともしないような顔で、周囲に揚々と笑顔を振りまく者も、時にはいる。何も雨が好きなのではない。ただ、今日が二月の十四日であるだけだ。 泥門高校から駅へ向かう二つの傘、そのうちの片方にも、そんな陰気を除ける顔が在った。四方百里の暗雲さえ震い払ってみせるとばかりに、勢いよくなっている彼は、隣から何か言われると、手を横に振る。 「そんな、今日がアレだからって、浮かれんなよセナ」「いやいやどう見てもモン太の方でしょ……」 セナの苦笑にも、モン太は頷かない。 「そりゃまもりさんからのは嬉しいけどな」 「ほら顔、またニヤけてる」 そう言われて、横のショーウインドウに顔を映してみると、見事にだらしなくなっている自分の顔が見えた。 全く以て今日はモン太にとって素晴らしい日であった。何せ、あのまもりさんからチョコを貰えたのである。他の皆と同じ包みのものであったのは、少々残念であったが、そんな贅沢は貰ったからこそ言える訳で、練習後、部室で手渡された直後には、周囲がいっそ優しい気持ちになる位のはしゃぎっぷりを見せたものだ。それは下校する今も続いていて、隣のセナまでつい楽しくなってしまう。仲の良い友が上機嫌だと、こちらの心も弾んでくるものだ。 「ところでさ」 「ん、なんだよ」 浮かれ気分のセナは、気の赴くままに、言葉を出す。 「ヒル魔さんには、用意したの?」 それは野次馬根性極まりない意識故のものだった。無責任な雑談に、他人の恋路程相応しいものはちょっと無い。 「え? 何をだ?」 「だから、チョコ」 「なんで俺が?」 「え。いや、だってモン太」 「俺、男だぞ」 「知ってるよ」 「男は貰うもんだろ」 そう答えるモン太の視線は、何を当然な事をとでも言いたげに、真っ直ぐセナを見ている、相変わらずまもりのチョコの余韻が残る顔にマジマジと見られては、セナはそういうものかと引き下がるしかない。 「まあ、ヒル魔さんだしなあ」 そう考えると、あの先輩が普通の所謂恋人同士の行事をこなすとも、考えにくい。 しかし、セナの納得とは反対に、モン太は急に黙り込むと、いるのか、とぼそりと呟いた。 「え?」 「なあ、やっぱり必要と思うか」 視線の先には、コンビニが在る。せめて何か送るべきなのかと、心が揺れているようだった。 「ヒル魔さんって、行事とか気にするの?」 「……ん、まあ」 何を思いだしたのか、微妙に気まずそうな声を上げながら、赤くなった顔はいっそうコンビニに惹かれている。 「やっぱり送っとくか」 セナの言葉に何か思い当たる節が有ったのだろう、モン太はセナから離れて、一歩横へ動いた。 その時だった。意外だと感心するセナの前を、素早く腕が動いて、モン太の首根っこを捕まえたのだ。 「え……」 「だっ……ヒル魔先輩!」 「よお、糞チビ共」 ポカンとしてヒル魔を見上げるモン太を手繰り寄せながら、暗澹たる天候に似つかわしい笑みで、ヒル魔は二人を見下ろす。 「あの……俺」 「いいから俺に付いてこい」 果敢な抗弁は出る前に粉砕され、大人しく引きずられていく以外に、何の選択肢もモン太には無い。 後にはただ一人、瞬時に連れ去られた親友を思い、一掬の涙を禁じ得ぬセナが取り残されていた。可哀想に。駅に向かって意気揚々と歩く先輩は、何とウキウキした様子だったのだろうか。 それでも所詮は他人事であるが、当のモン太にとっては、切実な問題である。 「どこに行くんスか……?」 「良い所だよ、良い所」 あからさまな誤魔化しを受けて、益々不安になっていく。乗った電車は家とは反対方向で、渡された切符はそう大きい額でないから、ただそう遠くない事だけは確かだ。 何れにせよ、外の景色を眺める横顔が、口の端を上げている以上、自分の身には何事かが降り掛かってくる。それをモン太は確信していた。何かと理屈を付けては無体を押し付けるのが、ヒル魔流の交際者への接し方なのだ。ヒル魔の隣でドアに全身を寄せながら、前にムサシから言われた一言を思い出す。自分とヒル魔が付き合ったと知った時、頑張れよ、とあの先輩はしみじみ言ったのだ。今にして染みてくる言葉である。 そして、何でチョコを買わなかったのか、と昨日の自分を責め始める頃、ヒル魔に軽く頭を叩かれた。 「次の駅で降りるぞ」 その駅はかなり大く、近くに有名な公園が在るので有名であった。小学校の頃来た記憶が有る。 空はまだ暗く、雨脚は弱まっているとはいえまだ傘無しでは濡れてしまう。傘を片手に、二人はその公園へと向かった。 雨の日に散歩する暇人はそう多くない。普段なら曜日を問わず、或る程度人がいる場所でも、今日に限っては疎らにしかいない。モン太は隣を見た。人気が感じられないものだから、どこか非日常的に思えてくる。 口が閉じられた横顔は、精悍で、男に使うのは変かもしれないが、綺麗だと思う。白い肌の上に整った目鼻立ちなのが、今の静寂にはよく似合うからだろう。そのまま見続けていると、何をされるか分からない不安は消えて、居心地の良さを感じながら、黙って歩ける様になっていた。 「何ジロジロ見てんだ」 「へっ。い、いや、何でもないっス」 その安寧を破る一声をいきなり掛けられて、モン太はついどもってしまう。ヒル魔の目を向けられ続けると、自分がとても恥ずかしい事をしていた気がして、居心地の悪さにモジモジする。 動揺する視線に、満足そうな笑みを浮かべたヒル魔は、糞エロ猿、とニヤつきながら呟く。 「な、俺は別に」 「ケケケ。てめえなんざ、四六時中エロだろうが」 反論しようとすると、ヒル魔の指に、唇を撫でられる。力強いのに無骨ではない指は、冷たくて、却って体中の熱を呼び覚ましそうだ。 「本当にやましいことは無いか?」 「……」 「言えねえだろ」 言葉を返せないモン太に、それで満足したのか、ヒル魔は復前に進んでいく。それに慌てて付いていくが、そんな事されて、何か言える状態でいられる訳がない。今はもう胸の鼓動が激しくなっている。 それも収まらない内に、人通りが少しずつ増していった。どうやら、公園の中でも割と中心に位置する広場に出たらしい。悪天候でも幾つかの露天は頑張って営業し、時折買っていく人も見える。 その中でモン太が目を引かれたのが、チョコバナナ屋であった。オーソドックスな茶色いものから、青やピンクと言った目に鮮やかな色のものまで、狭い屋台いっぱいに売っている。 「先輩」 「ちょっと待ってろ」 取り敢えず何本か買おうと、モン太は口を開くが、ヒル魔に動かれては、広場の端の方にいるしかない。何だろうと少しだけ不満に思いながら、大人しく目で動きを追うだけにした。 ヒル魔の真っ黒な傘は直ぐにチョコバナナへと向かい、そこで暫く止まっている。 「もしかすると……」 甘い期待かもしれないが、かと言ってヒル魔は別段甘い物もバナナも好きという訳ではない。すると後の対象は自分である。モン太の中で、黒い傘がどんどんと優しく見えてくる。現金なもので、好物を貰えそうと思うと、世話になった事ばかり思い出されてくる。 期待に満ちた顔は、そのまま満面の笑みとなった。戻ってきたヒル魔の手には、薄茶色の紙袋が有る。 「こんだけありゃ、充分だろ」 そう言って渡されたのは、予想通りの菓子で、それも十本以上入っている。 「これ……食っても良いンスか?」 「当然だろ。てめえ以外に誰が食うか」 「ありがとうございます!」 喜び勇んで掴んだのは、極普通のチョコレートを掛けたもので、口に咥えた瞬間、ただでさえ締まらない顔が、更に緩む。動き始めたヒル魔に付いていきながら、ありがたいという気持ちでいっぱいだった。 広場を離れると、復た人影は疎らとなっていき、遂には周囲に誰もない所まで来てしまった。常緑樹が生い茂り、ただでさえ暗い空がいっそう暗く見える。それでも空気だけは雨に濡れた緑のお陰か、心地良い。 モン太は既に半分以上平らげてしまって、それでも未だ無くならない幸せを、存分に味わっていた。 「糞猿」 そこで自分の名前を呼ばれ、横を向くと、まさにヒル魔の顔が近付いてきていて、反応も碌々出来ない内に、唇を重ねられていた。それも幾度も幾度も下で口腔を嬲られる、激しいものだった。舌が自分の粘膜に触れる度、身体の奥からムズムズとした感覚が湧き上がっては、末端まで届く様に弾けていく。飲みきれない唾液は口の端から零れ、二人の顔を伝い落ち、地面で雨と一緒になった。モン太は、手に持った袋を持つだけで精一杯で、それ以外の感覚は全て握られていた。 「甘っ」 口に残っていたチョコバナナの残骸は、ヒル魔の顔が離れた時、全て持って行かれていた。その甘さが気にくわないのだろう、ヒル魔は行為の後とは思えない様なしかめっ面で、唾を飲み込む。 「な、な、な……」 ヒル魔が凡そ人の思惑に沿わない人間である事は承知していた。それでも、いきなり外で激しく貪られては、理由の一つも尋ねたくなる。 「何でっスか」 「変な事したか?」 「い、今」 ヒル魔は、やはりと言うべきか、平気な顔でモン太を見ている。その表情は誰憚る事無く悪魔的で、そこでモン太の心に危険信号が灯る。 「今日が何の日か、知ってるか」 「バレンタインデーっス」 話を逸らしたのか違うのか、いきなりの言葉に、余計にその思いは強くなる。 「ケケケ、ちゃんと分かってんじゃねーか」 「え?」 「俺がやったのは何だ」 「あっ……」 確かにこれもチョコレートの菓子である。バナナに気を取られていたが、考えてみればその通りだ。 「チョコやった後、恋人にキスして、何か問題か」 平然と言われては、モン太は肯うしかない。それよりも、ヒル魔からチョコを貰ったのだという衝撃に、頭が動かない。もう、企みの有無がありありと分かる笑顔も、ただ胸を締め付ける様な動きをさせるものでしかない。 「え、あ、先輩」 「何だ、糞猿」 「ありがとう、ございます」 真っ赤な顔でペコリとお辞儀する姿に、全ては上手くいったとの確信が、ヒル魔に生まれた。 胸の赤ランプも消え、折角のプレゼントを、今度はゆっくりと食べ始めたモン太に対し、凶悪なまでに酷く嬉しそうな表情で、ヒル魔は告げる。 「ホワイトデー、楽しみにしてるからな」 「え?」 「三倍返し」 その瞬間、危険信号が再び動き始める。 「いや、一体どんなもんをくれるんだろうな、糞猿は」 この言葉の直後、雷が遠くで落ちて、騒音が鳴り響いたが、ニヤついた声ははっきりと聞こえてしまった。 「どんなもんか、楽しみだ」 貰ったチョコバナナは、とんでもなく高く付きそうだった。 平成十九年丁亥三月十三日公開 平成十九年丁亥七月八日改訂 |